平日の木曜と金曜、そして週末。週に4日だけ、私は夜になると「古美多」で働いている。
少しでも貯金を増やしたくて、会社に慣れたころからアルバイトを始めようと決めていた。
どうせやるなら、笑顔でいられて、体を動かせる仕事がいい。そんなとき、家の近所にある「古美多」の店先に貼られた「スタッフ募集」の張り紙を見つけたのだ。
私は外食をしないので中に入ったことはなかったけれど、いつも常連さんでにぎわっているイメージがあった。
そして店の前を通ったとき、打ち水をしていた女将さんに笑顔で挨拶されたことも、なんだか心に残っていた。
面接では、一度もお店に入ったことがないことを正直に話し、それでもよければとお願いした。
勤めている会社名を伝えたとき、女将さん──
大手企業に勤めているのに、なぜアルバイトを……きっとそう思ったのだろう。
もしかしたら、借金でも抱えているのかと、少し警戒されたのかもしれない。
だから私は、家の事情を包み隠さず話した。京花さんには、理解してもらえる気がしたから。
そうして働き始めて、もうすぐ2年になる。繁忙期や出張の時にはシフトを調整してくれるし、スタッフも常連さんもあたたかくて、私はとても恵まれていると思う。
「今日のイカと里芋の煮物、すっごい美味しかった。味の一体感が神がかってた」
空いたお皿を下げに行くと、カウンター席の常連、
彼は誰とでもすぐに打ち解けるムードメーカーで、気づけば場の真ん中にいて、周囲を和ませているような人だ。
たぶん、年齢も私とあまり変わらない。もしかしたら、少し年下かもしれない。
それなのに、人との距離の詰め方も、空気の読み方も、私なんかよりずっと上手だ。
「ふふ、秘密はね。みりんと少量のバター、そこにちょこっと生姜を乗せること」
カウンターで魚を焼いていた京花さんが、にっこり笑って答える。
「なるほど、その組み合わせ、最高っすね。和食なのにワインにも合う路線」
「バターはね、最後にほんのちょっと、香りが立つくらいがベストです」
私も思わず口を挟んだ。
「前に教えてもらって家で作ったら、バターを入れすぎて、なんか……海外で出てくる日本風料理みたいになっちゃった」
祐介くんは、急に武士のような真顔を作って頷く。
「わかりました。咲さんの屍、しっかり越えさせてもらいます。キリッ」
その瞬間、カウンターのあちこちから笑いが湧いた。
「なんだい祐介くん、キリッて……戦国武将のつもりかい」
「俺も、咲殿の無念、晴らさせていただきます。その煮物と、ビールもう一杯!」
「え、うちの煮物、いつもバター一箱入れてるけど? 普通に旨いよ」
常連同士の間で冗談が飛び交い、私も思わず笑ってしまった。
──やっぱり、古美多のこの雰囲気が、私は大好きだ。
「はい、咲ちゃん。今日の煮物、ちょっと余ったの。よかったら持って帰って」
店じまい後の静けさの中、京花さんが、タッパーを包んだ風呂敷を差し出す。私は両手で受け取りながら、深々と頭を下げた。
「いつも、本当にありがとうございます」
「いいのよ、余りものだし。いつも咲ちゃんが笑顔で働いてくれるから、助かってるのはこっちよ」
そう言ってから、京花さんは少しだけ表情を曇らせた。
「本当は、もう少し時給を上げてあげたいんだけど……ごめんね」
私は慌てて首を振る。
「とんでもないです。おいしい賄いもいただいてるし、何より、こうして働かせてもらえてるだけでありがたいんです。私がひとり暮らしで何とかやっていけてるのは、古美多のおかげなんですよ」
京花さんはふっと笑い、それから少しだけ心配そうに尋ねる。
「弟さんと妹さん、これからの学費、大丈夫そう?」
私は頷いた。
「はい。まだふたりとも高校生なんですけど……妹はスポーツ推薦を狙うみたいです。弟は成績も悪くないので、狭き門だけど、給付型の奨学金を目指すって言ってました。母も頑張ってくれているので、せめて学生の間くらいは、仕送りで支えられたらなって思ってます」
京花さんは優しく笑って、私の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
たったそれだけのことで、私の心は、不思議なくらい軽くなった。
* * *
その土曜の夜、私はいつものように黒いバンダナとエプロンを身につけて、古美多のカウンターで柿の皮を剥いていた。
この時期だけ、土日の夜限定で登場する「スパイス柿ようかん」は、母のシンプルなレシピをもとに、私がスパイスを加えてアレンジしたものだ。
去年、京花さんに差し入れたら、思いがけず気に入ってもらえて、そのまま古美多の正式メニューになった。
完熟柿の優しい甘さに、ほんの少しだけ効かせたスパイスがアクセント。和菓子だけどちょっと個性的で、ありがたいことにすぐに売り切れてしまう人気の一品になった。
今でも、この柿ようかんの仕込みは私の担当。こうして前の晩に翌日分を仕込むのが、秋のいつもの風景になっている。
夜の営業が始まって間もなく、暖簾を出しに行った京花さんが誰かと話しながら戻ってきた。
開店を待っていた常連さんだろう。「いらっしゃいませ」と言いながら顔を上げて──私は固まった。
白のカットソーにネイビーのジャケットを羽織った、スラリとした長身の男性。彼もまた、こちらを見て絶句していた。
──結城颯真、なぜここに。
京花さんだけが、私たちの間に流れる妙な空気には気づかず、「颯真くん、いつものカウンター席でいい?」と言いながら、私の正面の椅子を引いた。
結城さんは何か言いかけて、けれどそのまま黙って席に腰を下ろす。
「……いらっしゃいませ。ご注文は」
恐る恐る声をかけると、彼は目を細め、低い声でつぶやいた。
「……なんで、あんたが俺の定食屋に」
カチンときた。思わず「は?」と声が出る。
「いま、俺の定食屋って言いました?」
「俺のテリトリーって意味だよ」
「へぇ、縄張り荒らすなってこと? 野生動物ですか?」
私は鼻で笑った。会社じゃ絶対にできない言い方だけど、イラッとしたので気にしていられない。
「そっちは帰国してまだ半月しか経ってないくせに。私なんて、もう2年も前からここで働いているんだから」
言った瞬間、しまったと思って口を押さえる。自分からバラすなんて、やば。
「2年?」
結城さんが訝しげに反応する。
そこへ、京花さんが水の入ったグラスを運んできた。助かった。
「あら、ふたりは知り合いだったの?」
私が口を開く前に、結城さんがちょっと苦々しさを残した声で答える。
「そうなんですよ、京花さん。この人と、同じ会社なんです」
「まあ、すごい偶然! 颯真くん、いつもお昼に来てたから、咲ちゃんとは会ったことがなかったのね」
私と結城さんは顔を見合わせる。
お互い、「知っていたら棲み分けたのに」という顔をしていた。
「咲ちゃん、颯真くんは2週間くらい前から通ってくれてるの。もうお昼の常連さんたちともすっかり仲良しでね」
……常連さんたちと仲良し? あの無表情で会話ストッパーな氷壁エリートが?
混乱したまま、私は注文を聞く。彼はビールと焼き魚定食、それからだし巻き卵を頼んだ。
京花さんが厨房に下がり、私がビールをジョッキに注いでいると、カウンターの向こうで声が聞こえてきた。
「……仕事のことを考えずに、ただ美味しいものを食べられる店、近所で見つけてラッキーって思ってたのに……。まさか、『進捗の確認は私がー』が脳裏に蘇るとは」
明らかに私に向けた独り言だ。私はグラスの泡を整えながら、わざと明るく応じた。
「あら偶然。私もどこからか声が聞こえた気がしたんです。『要点だけで結構、グラフの解析は俺がー』って」
彼は小さく咳払いをしながら、ビールを一口飲んだ。
頬が少しだけ赤く染まる。完璧に整ったその顔が、ほんのわずかに柔らかく見えた。
「……スパイス柿ようかん、注文しなくていいの? 常連さんが来たらすぐ売り切れちゃうよ」
私は少しだけ視線を外しながら、小さな声で言った。
「スパイスの柿ようかん? そんなのあるのか」
「……端っこがね、とくに美味しいの。今なら、まだあるけど……」
「くだらない」と言われるかと思った。
でも、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「じゃ……それも、お願い」
そのとき、引き戸が開く音と共に、朗らかな声が響いた。
「颯真くんジャマイカ! 夜にいるなんて珍しい!」
祐介くんだ。彼は手を振りながら結城さんの隣に座る。そして、信じられないことに、結城さんも笑って答えた。
「祐介くんこそ、昼も夜も来るんだね」
「あ、咲さん。柿ようかんキープお願い! 今日は端っこある?」
祐介くんが言う。私は「ありますとも」と答えた。
「颯真くんもキープしてもらった? 端っこは先着2名さままでだから、もしまだだったら──」
「俺も注文した。柿ようかんの両端は、俺たちで確保だな」
ふたりがグータッチして笑い合う光景に、私は思わず手を止めた。
──あの結城さんが、冗談を言って、笑ってる。
冷たくて、無表情で、完璧で。社内にいるだけで、空気がピリッと張りつめるような人なのに──
いま彼は、肩の力を抜いて、自然な笑顔を見せている。
少しだけ見惚れてしまった自分に気づいて、私は慌てて視線を落とす。
そして器を拭きながら、心の中で自分に言い聞かせた。
いやいや、あの笑顔は、私に向けられたものじゃないし。職場では、氷壁エリートだし。
それなのに──彼の笑顔を、もう少しだけ見ていたいと思ってしまう自分がいて、私は戸惑った。
でも、私はちゃんとわかってる。
その気持ちに、名前なんてつけちゃいけないってことを。