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第3話 俺のテリトリー

 平日の木曜と金曜、そして週末。週に4日だけ、私は夜になると「古美多」で働いている。


 少しでも貯金を増やしたくて、会社に慣れたころからアルバイトを始めようと決めていた。


 どうせやるなら、笑顔でいられて、体を動かせる仕事がいい。そんなとき、家の近所にある「古美多」の店先に貼られた「スタッフ募集」の張り紙を見つけたのだ。


 私は外食をしないので中に入ったことはなかったけれど、いつも常連さんでにぎわっているイメージがあった。

 そして店の前を通ったとき、打ち水をしていた女将さんに笑顔で挨拶されたことも、なんだか心に残っていた。


 面接では、一度もお店に入ったことがないことを正直に話し、それでもよければとお願いした。

 勤めている会社名を伝えたとき、女将さん──京花きょうかさんは、ほんの一瞬だけ不思議そうな表情をした。


 大手企業に勤めているのに、なぜアルバイトを……きっとそう思ったのだろう。

 もしかしたら、借金でも抱えているのかと、少し警戒されたのかもしれない。


 だから私は、家の事情を包み隠さず話した。京花さんには、理解してもらえる気がしたから。


 そうして働き始めて、もうすぐ2年になる。繁忙期や出張の時にはシフトを調整してくれるし、スタッフも常連さんもあたたかくて、私はとても恵まれていると思う。


「今日のイカと里芋の煮物、すっごい美味しかった。味の一体感が神がかってた」


 空いたお皿を下げに行くと、カウンター席の常連、祐介ゆうすけくんが満足そうに言った。


 彼は誰とでもすぐに打ち解けるムードメーカーで、気づけば場の真ん中にいて、周囲を和ませているような人だ。


 たぶん、年齢も私とあまり変わらない。もしかしたら、少し年下かもしれない。

 それなのに、人との距離の詰め方も、空気の読み方も、私なんかよりずっと上手だ。


「ふふ、秘密はね。みりんと少量のバター、そこにちょこっと生姜を乗せること」


 カウンターで魚を焼いていた京花さんが、にっこり笑って答える。


「なるほど、その組み合わせ、最高っすね。和食なのにワインにも合う路線」


「バターはね、最後にほんのちょっと、香りが立つくらいがベストです」


 私も思わず口を挟んだ。


「前に教えてもらって家で作ったら、バターを入れすぎて、なんか……海外で出てくる日本風料理みたいになっちゃった」


 祐介くんは、急に武士のような真顔を作って頷く。


「わかりました。咲さんの屍、しっかり越えさせてもらいます。キリッ」


 その瞬間、カウンターのあちこちから笑いが湧いた。


「なんだい祐介くん、キリッて……戦国武将のつもりかい」

「俺も、咲殿の無念、晴らさせていただきます。その煮物と、ビールもう一杯!」

「え、うちの煮物、いつもバター一箱入れてるけど? 普通に旨いよ」


 常連同士の間で冗談が飛び交い、私も思わず笑ってしまった。

──やっぱり、古美多のこの雰囲気が、私は大好きだ。




「はい、咲ちゃん。今日の煮物、ちょっと余ったの。よかったら持って帰って」


 店じまい後の静けさの中、京花さんが、タッパーを包んだ風呂敷を差し出す。私は両手で受け取りながら、深々と頭を下げた。


「いつも、本当にありがとうございます」


「いいのよ、余りものだし。いつも咲ちゃんが笑顔で働いてくれるから、助かってるのはこっちよ」


 そう言ってから、京花さんは少しだけ表情を曇らせた。


「本当は、もう少し時給を上げてあげたいんだけど……ごめんね」


 私は慌てて首を振る。


「とんでもないです。おいしい賄いもいただいてるし、何より、こうして働かせてもらえてるだけでありがたいんです。私がひとり暮らしで何とかやっていけてるのは、古美多のおかげなんですよ」


 京花さんはふっと笑い、それから少しだけ心配そうに尋ねる。


「弟さんと妹さん、これからの学費、大丈夫そう?」


 私は頷いた。


「はい。まだふたりとも高校生なんですけど……妹はスポーツ推薦を狙うみたいです。弟は成績も悪くないので、狭き門だけど、給付型の奨学金を目指すって言ってました。母も頑張ってくれているので、せめて学生の間くらいは、仕送りで支えられたらなって思ってます」


 京花さんは優しく笑って、私の肩をぽんぽんと軽く叩いた。

 たったそれだけのことで、私の心は、不思議なくらい軽くなった。


* * *


 その土曜の夜、私はいつものように黒いバンダナとエプロンを身につけて、古美多のカウンターで柿の皮を剥いていた。


 この時期だけ、土日の夜限定で登場する「スパイス柿ようかん」は、母のシンプルなレシピをもとに、私がスパイスを加えてアレンジしたものだ。


 去年、京花さんに差し入れたら、思いがけず気に入ってもらえて、そのまま古美多の正式メニューになった。

 完熟柿の優しい甘さに、ほんの少しだけ効かせたスパイスがアクセント。和菓子だけどちょっと個性的で、ありがたいことにすぐに売り切れてしまう人気の一品になった。


 今でも、この柿ようかんの仕込みは私の担当。こうして前の晩に翌日分を仕込むのが、秋のいつもの風景になっている。


 夜の営業が始まって間もなく、暖簾を出しに行った京花さんが誰かと話しながら戻ってきた。

 開店を待っていた常連さんだろう。「いらっしゃいませ」と言いながら顔を上げて──私は固まった。


 白のカットソーにネイビーのジャケットを羽織った、スラリとした長身の男性。彼もまた、こちらを見て絶句していた。


──結城颯真、なぜここに。


 京花さんだけが、私たちの間に流れる妙な空気には気づかず、「颯真くん、いつものカウンター席でいい?」と言いながら、私の正面の椅子を引いた。


 結城さんは何か言いかけて、けれどそのまま黙って席に腰を下ろす。


「……いらっしゃいませ。ご注文は」


 恐る恐る声をかけると、彼は目を細め、低い声でつぶやいた。


「……なんで、あんたが俺の定食屋に」


 カチンときた。思わず「は?」と声が出る。


「いま、俺の定食屋って言いました?」


「俺のテリトリーって意味だよ」


「へぇ、縄張り荒らすなってこと? 野生動物ですか?」


 私は鼻で笑った。会社じゃ絶対にできない言い方だけど、イラッとしたので気にしていられない。


「そっちは帰国してまだ半月しか経ってないくせに。私なんて、もう2年も前からここで働いているんだから」


 言った瞬間、しまったと思って口を押さえる。自分からバラすなんて、やば。


「2年?」


 結城さんが訝しげに反応する。


 そこへ、京花さんが水の入ったグラスを運んできた。助かった。


「あら、ふたりは知り合いだったの?」


 私が口を開く前に、結城さんがちょっと苦々しさを残した声で答える。


「そうなんですよ、京花さん。この人と、同じ会社なんです」


「まあ、すごい偶然! 颯真くん、いつもお昼に来てたから、咲ちゃんとは会ったことがなかったのね」


 私と結城さんは顔を見合わせる。

 お互い、「知っていたら棲み分けたのに」という顔をしていた。


「咲ちゃん、颯真くんは2週間くらい前から通ってくれてるの。もうお昼の常連さんたちともすっかり仲良しでね」


 ……常連さんたちと仲良し? あの無表情で会話ストッパーな氷壁エリートが?


 混乱したまま、私は注文を聞く。彼はビールと焼き魚定食、それからだし巻き卵を頼んだ。

 京花さんが厨房に下がり、私がビールをジョッキに注いでいると、カウンターの向こうで声が聞こえてきた。


「……仕事のことを考えずに、ただ美味しいものを食べられる店、近所で見つけてラッキーって思ってたのに……。まさか、『進捗の確認は私がー』が脳裏に蘇るとは」


 明らかに私に向けた独り言だ。私はグラスの泡を整えながら、わざと明るく応じた。


「あら偶然。私もどこからか声が聞こえた気がしたんです。『要点だけで結構、グラフの解析は俺がー』って」


 彼は小さく咳払いをしながら、ビールを一口飲んだ。

 頬が少しだけ赤く染まる。完璧に整ったその顔が、ほんのわずかに柔らかく見えた。


「……スパイス柿ようかん、注文しなくていいの? 常連さんが来たらすぐ売り切れちゃうよ」


 私は少しだけ視線を外しながら、小さな声で言った。


「スパイスの柿ようかん? そんなのあるのか」


「……端っこがね、とくに美味しいの。今なら、まだあるけど……」


「くだらない」と言われるかと思った。

 でも、返ってきたのは予想外の言葉だった。


「じゃ……それも、お願い」


 そのとき、引き戸が開く音と共に、朗らかな声が響いた。


「颯真くんジャマイカ! 夜にいるなんて珍しい!」


 祐介くんだ。彼は手を振りながら結城さんの隣に座る。そして、信じられないことに、結城さんも笑って答えた。


「祐介くんこそ、昼も夜も来るんだね」


「あ、咲さん。柿ようかんキープお願い! 今日は端っこある?」


 祐介くんが言う。私は「ありますとも」と答えた。


「颯真くんもキープしてもらった? 端っこは先着2名さままでだから、もしまだだったら──」


「俺も注文した。柿ようかんの両端は、俺たちで確保だな」


 ふたりがグータッチして笑い合う光景に、私は思わず手を止めた。

──あの結城さんが、冗談を言って、笑ってる。


 冷たくて、無表情で、完璧で。社内にいるだけで、空気がピリッと張りつめるような人なのに──

 いま彼は、肩の力を抜いて、自然な笑顔を見せている。


 少しだけ見惚れてしまった自分に気づいて、私は慌てて視線を落とす。

 そして器を拭きながら、心の中で自分に言い聞かせた。

 いやいや、あの笑顔は、私に向けられたものじゃないし。職場では、氷壁エリートだし。


 それなのに──彼の笑顔を、もう少しだけ見ていたいと思ってしまう自分がいて、私は戸惑った。


 でも、私はちゃんとわかってる。

 その気持ちに、名前なんてつけちゃいけないってことを。


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