会議室の空気が、乾いた冬のオフィスみたいに冷えきっている。
湿度ゼロ、笑顔ゼロ、ついでに会話もゼロ。
目の前には、昨日、「俺の定食屋」とか言って縄張り意識むき出しだった男が座っている。
けれど、あのときと本当に同一人物かと思うくらい、今日は完全に氷壁に守られた仕事モード。
視線はずっとノートPCに落ちたままで、こちらに気配すら向けてこない。
濃紺のスリーピースを完璧に着こなし、姿勢は坐禅のハウツー本に載せたくなるほどの美しさ。高い鼻筋に、スッとした顎、涼しげな目、そして……集中が切れた瞬間だけ、柔らかく解ける唇。
どの角度から見ても、女性向けファッション誌の「恋に落ちるスーツ特集」とか「恋より尊い、仕事モード男子特集」とかで、メインカットを飾れそうなレベルだ。
完璧すぎるくらい完璧で、でもそのぶん、冷たさが際立っている。いや、ちょっとどころじゃない。
──整いすぎたその顔には、感情という名のデータが一切表示されていない。ノートン先生も大絶賛のセキュリティレベルだ。
そう、今の彼は完全に──氷壁モードだった。
「結城さん、A社の件ですが、先方からスケジュールの再調整を求められています。返答期限は来週中とのことで──」
「……資料に記載があります」
オフィス用の笑顔を浮かべた私を、ぴしゃりとシャットダウン、強制ログアウト。
声は落ち着いているけれど、こっちは完全にドアを閉められた気分だ。
私はこっそり唇を噛み、小さく深呼吸して──オフィス用笑顔を、再起動する。
「……念のため、口頭でもお伝えしました。人間ですから、確認は重ねておくに越したことはありません」
本当は、「バックグラウンドで動作中なんですか? 表情の更新、止まってますけど」くらいは言ってやりたかった。けれど、それはさすがに飲み込んだ。
それでも、声のトーンが少しだけ強くなってしまったのは、自分でもわかっていた。
彼はちらりとこちらを見たが、それ以上は何も言わない。
会話は、それで終了した。
オフィスに戻ってPCを開くと、結城さんからのメールが届いていた。
さっき提出した資料に、もう目を通したらしい。
相変わらず、句読点の打ち方一つにまで統率が取れてるような、隙のないビジネス文面。──でも、そこに体温はなかった。
『資料は全て確認しました』
……それだけ?
昨日ようやく仕上げた初期提案書。細部の数字の整合性を詰め、グラフを何度も差し替えながら、地味に地味にデータを積み上げて、ようやく完成させた資料だった。
もっと良くするための細かい修正依頼がくると思ってたし、ほんの一言だけでも「ありがとう」なんて言葉があったら……なんて、ちょっとでも期待した自分が悔しい。
まるでこちらの熱量など、最初から存在しなかったかのようだ。
古美多で見せた、あの柔らかい笑顔は──やっぱりあれ、私の見間違いだったのかも。
もしくは、時空が歪んだのかもしれない。ほら、映画『インターステラー』でも、そんなことあったじゃない?
──そうやって冗談めかしてみても、心はちっとも浮上してくれない。
私はモニターに映る、メールの送信者欄のイニシャルをぼんやり見つめながら、小さく、深く、ため息をついた。
たった2日前の土曜の夜。古美多で見た結城さんは、まるで別人だった。
ビールを一杯飲んだだけで、頬がほんのり赤くなり、会社では微動だにしない端正な顔が、ふっとやわらいだ。
きれいな所作で焼き魚を食べながら、「骨の処理が完璧ですね」と感心し、祐介くんとは古典ミステリの密室トリックについて、熱っぽく語り合っていた。
そして──私が作ったスパイス柿ようかんを一口食べた彼は、「うまっ!」と反射的に声を上げて、すぐに視線を伏せた。
黙ってクールに味わうつもりだったのに、つい声が漏れてしまったんだろう。そんなふうに見えて、私はちょっとだけにやけてしまい、慌てて後ろを向いた。
「……シナモンと、あとは?」
照れを無愛想でごまかすように、彼はちょっと声を低くして聞いてきた。
氷壁モードとリラックスモード、その間でどこに寄ればいいのか揺れているような話し方だった。
その中途半端な不器用さがなんだか妙にかわいくて、私は思わず口元がゆるみそうになるのを、必死でこらえた。
「クローブとカルダモン。どっちも少しずつね」
そう答えたタイミングで、厨房から料理ができたと声がかかった。私はその場を離れて、大皿を運び、そのままドリンクの注文を確認してカウンターに戻る。
結城さんは、祐介くんを挟んで常連さんたちと何か談笑していた。ほんの少し身を乗り出して、目を細めながら誰かの話に相槌を打っている。
この人が、社内ではいつも無表情な「氷壁エリート」だなんて、きっと誰も信じないだろう。
肩の力が抜けていて、人間味があって──なんだか、すごく幸せそうに見えた。
笑ったときにできる目尻のしわも、話すときの軽やかなトーンも、全部が柔らかくて、優しい。
──こんなふうに、笑う人だったんだな。
とびきりハンサムで、それでいて温かい。もし社内でこの姿を見せていたら、きっと誰だって惹かれてしまうだろう。
実際、古美多には女性のお客さんも多くて、その日もいくつかのグループが、彼のことをちらちらと気にしていた。
……もちろん、私は気づいていた。
一瞬、胸の奥に小さなもやもやが湧きかけたけれど、すぐにそれをぎゅっと押し込む。
そんな気持ちは、私なんかが抱いちゃいけない。
むしろ、古美多という場所で、彼が唯一、距離を取っている相手がいるとすれば──それは、たぶん私だ。
だって、同じ職場の人間に無防備なオフな姿を見られるのは、きっと抵抗があるはずだから。
……だから私は、ちゃんとわきまえておこう。
そう自分に言い聞かせながら、私は洗い上がったグラスを拭いた。
* * *
その日の午後。社外での打ち合わせを終えて、私は会社へ戻る道を歩いていた。
空にはどんよりとした雲が広がり、ぽつぽつと雨粒が落ち始める。道ゆく人たちは足早になり、傘の花が次々と咲いていく。
私はふと立ち止まり、空を見上げた。
──大丈夫。あの雲の感じなら、雷にはならなさそう。
とはいえ、このまま本降りになりそうな空気だ。会社まではあと少し。走った方がいいかもしれない。
そう考えていたそのとき、視界の端に見慣れた人影が映った。
「……あれ、原田さん?」
古美多の常連の、原田さん夫妻。70代くらいの仲睦まじいご夫婦で、いつもそれぞれの好物を半分こしながら、にこやかにのんびり食事をしている方たちだ。
そのふたりが今、ビニール袋を両手に下げながら、ビルの軒先で雨宿りをしていた。
私は慌ててバッグの中を探ったが、折りたたみ傘は見当たらなかった。
どうしようかと迷っていたそのとき、誰かが近づいて行った。
チャコールグレーのステンカラーコートに身を包んだ、すらりとした長身の男性──結城さんだ。
彼は、ご夫妻に声をかけながら、自分の折りたたみ傘を差し出した。
結城さんは、普段古美多に行くときのラフな装いとは違い、今日はきちんとスーツを着て、髪も整えている。だから最初、ご夫婦は彼に気づかなかったようだった。
だけどご主人が「あっ」と声を上げた瞬間、ふたりの顔に笑みが広がる。
うれしそうに傘を受け取る原田さんたちに、結城さんは目元で笑って、小さく片手を上げた。それから、そのまま雨の中へと歩いていく。
その背中が、妙に静かで、美しかった。
まるで、モノクロームの映画のワンシーン。いまにもエンドロールが流れてきそうな感じ……。
──スーツ姿で笑うの、初めて見たな。
私は、静かに遠ざかっていくその背中を、雨越しにしばらく見つめていた。