私がここで働いていると知ったのだから、週末の夜、もう彼が来ることはないだろう。
そう思っていたけれど──その予想は、あっけなく裏切られた。
翌週の土曜、私は暖簾を出しに店の外に出た。
扉の札を「営業中」に返し、横の植木鉢に目をやる。ワレモコウはすっかり花の終わりを迎え、美しかった赤紫は、くすんだ茶に近づいていた。
「今年も、きれいな花をありがとう」
そうつぶやいたとき、ふいに背後に影が差した。振り返ると──また、結城さんが立っていた。
一瞬、呼吸が止まりそうになる。
「こんばんは」
相変わらず感情の読めない顔で、きちんとした挨拶。だけどその声が、ほんの少しだけ、柔らかく聞こえた気がした。
「いらっしゃいませ……」
そう返すと、彼は少しだけ視線を逸らしながら会釈して、暖簾をくぐる。
そのとき、ちらりとこちらを見て、小さな声で聞いてきた。
「……柿ようかん、ある?」
不意にそう聞かれて、一瞬だけ驚いた。だけどすぐに、私はいつもの調子で答える──嬉しさで笑いそうになる口元を、ごまかしながら。
「ありますよ。端っこも」
「よかった」
たったそれだけの、店員と常連客の短いやりとり。なのに、胸の奥が少しあたたかくなる。
たぶん、彼の声に、温度があったからだろう。
心の奥に、そっと染み込んでくるような、柔らかいぬくもりが。
そして驚いたことに、さらに翌日、日曜の夜にも彼は現れた。
頼んだのは、ビールとお刺身盛り合わせ定食、そして柿ようかん。
違ったのは、柿ようかんの頼み方だった。
「今日は、端っこじゃないところでいいよ。俺が全部取ったら、他のお客さんに悪いし」
そう言って、視線を逸らす。その横顔には、ちょっとだけ照れたような影が見えた。
──やっぱり、優しい人じゃん。
特定の誰かを喜ばせたいわけじゃなくて、顔の見えない誰かを、自然に思いやれる人。
そんな人が、本当に冷たいわけがない。
……とはいえ、私に対しては、やっぱりどこかよそよそしいままだった。
彼はいつも開店と同時に店に入り、料理が運ばれてくるまでは静かに本を読んでいる。
話しかけられれば答えてくれるけれど、祐介くんや他の常連さんに見せるような砕けた笑顔は、まだ私には向けられたことがない。
それでも──私の作った柿ようかんを「美味しい」と言って、また来てくれた。それだけで、十分だった。
だからその夜、彼が帰り際に「また、来ます」と小さく言ったとき、私はちょっとだけ、来週の仕込みが楽しみになった。
別に、誰かのためじゃない。常連さんがひとり増えた、ただそれだけのこと。
──うん、それだけのこと。
そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥で小さなざわめきが生まれる。
私はそれに気づかないふりをして、黙々と柿の皮を剥いた。
浮かびそうになる笑みは、唇をきゅっと結んで押し殺す。
まるで、それで全部、なかったことにするかのように。
* * *
木曜の夕方、退勤まであと30分。そんなタイミングで、まさかの事態が起きた。
「咲さん……どうしよう、今日が期限のA社の提出用ファイル、古いバージョンで上書きされてます!」
焦った声で杏奈ちゃんが立ち上がる。モニターを覗き込んだ瞬間、血の気が引いた。
提出用の最新データが、数日前のテスト段階のもので上書きされていたのだ。
「何があったの……?」
「す、すみません。名前の”test”を見落として、流し込んで……そのまま、勢いで上書きしちゃって……」
「バックアップは?」
「……してません……」
杏奈ちゃんの声が震えている。今にも泣き出しそうだった。
私は机に両手をつき、深く息を吸い込む。
このデータは、私が中心になって設計したもの。再構築できるのは──私しかいない。
時計を見ると、16時半。今から集中すれば、日付が変わる前にはなんとか仕上げられるはずだ。
──だけど、私の問題は、それだけじゃなかった。
それでも、今は目の前の対処に集中しなければいけない。半分泣きかけている杏奈ちゃんを落ち着かせるため、私はわざと明るく言った。
「大丈夫、今からやれば、今日中に提出って約束は守れるから」
杏奈ちゃんは縋るように私を見た。「大丈夫」というひと言で、どこかほっとした顔になる。
「ありがとうございます、咲さん。咲さんならなんとかしてくれると思っていました。一生ついていきます!」
拝むように手を合わせた彼女を見て、胸が少しだけざらついた。
それでも、そんな自分に気づかれないように、私は小さく息を呑む。
彼女に直近のバックアップを探すよう指示して、私は気持ちを整えるためにラウンジへ向かった。
大丈夫、こういったトラブルは、これまでにも何度かあった。
精神力も体力も削られるけれど──それでも、なんとかなる。そう思えるだけの経験値は、私にもあった。
でも、問題はもう一つあった。
今日は古美多で、お座敷の貸切が入っている。常連の山本さんが、米寿を迎えるおじいちゃんのために予約してくれたお祝いの席だ。
20人分の仕込みも、段取りも、すべて整っている。だけど──私がシフトに入れないと、スタッフの人数が絶対に足りない。
誰もいないラウンジの窓辺に立ち、私は顔を覆って深く息を吐いた。
──どう考えても、優先すべきはこのデータだ。古美多に電話をして、事情を話さなければ。
そう思っただけで、胃のあたりがきゅっと痛くなる。
ふと、結城さんの顔が頭に浮かんだ。
オフィスでは氷壁の彼のことだから、きっとこう言うだろう。
──プロジェクトを最優先にすればいい。他は、必要なら切り捨てる。迷いは、最初から排除すべきだ──
「……うん、正論。それが正しい。ちゃんと、わかってる」
そうつぶやいて、顔を覆っていた手を下ろした瞬間──
「古美多、間に合わなそうですね」
背後から低い声がした。振り返らなくても、誰だかわかった。
「大丈夫ですか?」
さっきまで思い描いていた彼の言葉とは、まったく違っていた。
私はゆっくり振り返り、オフィス用の笑顔を作って答える。
「……はい。提出の時間を先方に伝えてなかったのが、せめてもの救いです。日付が変わるまでに送れば、期限は守ったことになりますから」
そんな私を、結城さんはまっすぐに見つめた。そして、静かに口を開く。
「山本さん、今日ですよね。お祝い」
その一言で、私の作り笑いが止まった。
「バイト、僕が行きます」
「……え?」
「山本さん、おじいちゃんのお祝いをすごく楽しみにしていました。親戚も集まるから、大好きな古美多でお祝いしたいって」
先週、カウンターで山本さんと笑い合っていた彼の姿が浮かぶ。
「でも……どうして?」
「桜さんが、困った顔をしていたから」
そして彼は私から目を逸らし、ちょっと頬を掻くような仕草をした。
「桜さんにしかデータは直せない。だったら、桜さんはそっちに集中してください。山本さんも……僕が接客したら、案外喜んでくれるかもしれません」
涙が込み上げてくるのがわかった。こういうとき、私は泣かないはずだったのに。
結城さんに目を見られないよう、私は深く頭を下げた。その拍子に落ちた雫に、彼が気づいていませんように──そう願いながら。
「……ありがとうございます」
私が顔を上げる前に、彼は何も言わず、静かにラウンジを後にした。
胸の奥に、ぽつんと何かが灯った気がした。
あんなふうにまっすぐに差し出された優しさに触れて──まだ恋じゃないなんて、ごまかせるはずがない。
私はたしかに……結城さんに惹かれている。
でも、今の私には恋を育てる余裕なんてない。この気持ちが、どこかへ行き着く未来なんて、想像できない。
それでも──彼が胸に残していった、静かな熱だけは、ずっと消えなかった。