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第5話 静かな熱

 私がここで働いていると知ったのだから、週末の夜、もう彼が来ることはないだろう。

 そう思っていたけれど──その予想は、あっけなく裏切られた。


 翌週の土曜、私は暖簾を出しに店の外に出た。

 扉の札を「営業中」に返し、横の植木鉢に目をやる。ワレモコウはすっかり花の終わりを迎え、美しかった赤紫は、くすんだ茶に近づいていた。


「今年も、きれいな花をありがとう」


 そうつぶやいたとき、ふいに背後に影が差した。振り返ると──また、結城さんが立っていた。

 一瞬、呼吸が止まりそうになる。


「こんばんは」


 相変わらず感情の読めない顔で、きちんとした挨拶。だけどその声が、ほんの少しだけ、柔らかく聞こえた気がした。


「いらっしゃいませ……」


 そう返すと、彼は少しだけ視線を逸らしながら会釈して、暖簾をくぐる。

 そのとき、ちらりとこちらを見て、小さな声で聞いてきた。


「……柿ようかん、ある?」


 不意にそう聞かれて、一瞬だけ驚いた。だけどすぐに、私はいつもの調子で答える──嬉しさで笑いそうになる口元を、ごまかしながら。


「ありますよ。端っこも」


「よかった」


 たったそれだけの、店員と常連客の短いやりとり。なのに、胸の奥が少しあたたかくなる。


 たぶん、彼の声に、温度があったからだろう。

 心の奥に、そっと染み込んでくるような、柔らかいぬくもりが。




 そして驚いたことに、さらに翌日、日曜の夜にも彼は現れた。


 頼んだのは、ビールとお刺身盛り合わせ定食、そして柿ようかん。

 違ったのは、柿ようかんの頼み方だった。


「今日は、端っこじゃないところでいいよ。俺が全部取ったら、他のお客さんに悪いし」


 そう言って、視線を逸らす。その横顔には、ちょっとだけ照れたような影が見えた。


──やっぱり、優しい人じゃん。


 特定の誰かを喜ばせたいわけじゃなくて、顔の見えない誰かを、自然に思いやれる人。

 そんな人が、本当に冷たいわけがない。


 ……とはいえ、私に対しては、やっぱりどこかよそよそしいままだった。


 彼はいつも開店と同時に店に入り、料理が運ばれてくるまでは静かに本を読んでいる。

 話しかけられれば答えてくれるけれど、祐介くんや他の常連さんに見せるような砕けた笑顔は、まだ私には向けられたことがない。


 それでも──私の作った柿ようかんを「美味しい」と言って、また来てくれた。それだけで、十分だった。


 だからその夜、彼が帰り際に「また、来ます」と小さく言ったとき、私はちょっとだけ、来週の仕込みが楽しみになった。


 別に、誰かのためじゃない。常連さんがひとり増えた、ただそれだけのこと。

──うん、それだけのこと。


 そう自分に言い聞かせるたびに、胸の奥で小さなざわめきが生まれる。


 私はそれに気づかないふりをして、黙々と柿の皮を剥いた。

 浮かびそうになる笑みは、唇をきゅっと結んで押し殺す。

 まるで、それで全部、なかったことにするかのように。



* * *



 木曜の夕方、退勤まであと30分。そんなタイミングで、まさかの事態が起きた。


「咲さん……どうしよう、今日が期限のA社の提出用ファイル、古いバージョンで上書きされてます!」


 焦った声で杏奈ちゃんが立ち上がる。モニターを覗き込んだ瞬間、血の気が引いた。

 提出用の最新データが、数日前のテスト段階のもので上書きされていたのだ。


「何があったの……?」


「す、すみません。名前の”test”を見落として、流し込んで……そのまま、勢いで上書きしちゃって……」


「バックアップは?」


「……してません……」


 杏奈ちゃんの声が震えている。今にも泣き出しそうだった。


 私は机に両手をつき、深く息を吸い込む。

 このデータは、私が中心になって設計したもの。再構築できるのは──私しかいない。


 時計を見ると、16時半。今から集中すれば、日付が変わる前にはなんとか仕上げられるはずだ。

──だけど、私の問題は、それだけじゃなかった。


 それでも、今は目の前の対処に集中しなければいけない。半分泣きかけている杏奈ちゃんを落ち着かせるため、私はわざと明るく言った。


「大丈夫、今からやれば、今日中に提出って約束は守れるから」


 杏奈ちゃんは縋るように私を見た。「大丈夫」というひと言で、どこかほっとした顔になる。


「ありがとうございます、咲さん。咲さんならなんとかしてくれると思っていました。一生ついていきます!」


 拝むように手を合わせた彼女を見て、胸が少しだけざらついた。

 それでも、そんな自分に気づかれないように、私は小さく息を呑む。


 彼女に直近のバックアップを探すよう指示して、私は気持ちを整えるためにラウンジへ向かった。


 大丈夫、こういったトラブルは、これまでにも何度かあった。

 精神力も体力も削られるけれど──それでも、なんとかなる。そう思えるだけの経験値は、私にもあった。


 でも、問題はもう一つあった。


 今日は古美多で、お座敷の貸切が入っている。常連の山本さんが、米寿を迎えるおじいちゃんのために予約してくれたお祝いの席だ。


 20人分の仕込みも、段取りも、すべて整っている。だけど──私がシフトに入れないと、スタッフの人数が絶対に足りない。


 誰もいないラウンジの窓辺に立ち、私は顔を覆って深く息を吐いた。


──どう考えても、優先すべきはこのデータだ。古美多に電話をして、事情を話さなければ。

 そう思っただけで、胃のあたりがきゅっと痛くなる。


 ふと、結城さんの顔が頭に浮かんだ。

 オフィスでは氷壁の彼のことだから、きっとこう言うだろう。


──プロジェクトを最優先にすればいい。他は、必要なら切り捨てる。迷いは、最初から排除すべきだ──


「……うん、正論。それが正しい。ちゃんと、わかってる」


 そうつぶやいて、顔を覆っていた手を下ろした瞬間──


「古美多、間に合わなそうですね」


 背後から低い声がした。振り返らなくても、誰だかわかった。


「大丈夫ですか?」


 さっきまで思い描いていた彼の言葉とは、まったく違っていた。

 私はゆっくり振り返り、オフィス用の笑顔を作って答える。


「……はい。提出の時間を先方に伝えてなかったのが、せめてもの救いです。日付が変わるまでに送れば、期限は守ったことになりますから」


 そんな私を、結城さんはまっすぐに見つめた。そして、静かに口を開く。


「山本さん、今日ですよね。お祝い」


 その一言で、私の作り笑いが止まった。


「バイト、僕が行きます」


「……え?」


「山本さん、おじいちゃんのお祝いをすごく楽しみにしていました。親戚も集まるから、大好きな古美多でお祝いしたいって」


 先週、カウンターで山本さんと笑い合っていた彼の姿が浮かぶ。


「でも……どうして?」


「桜さんが、困った顔をしていたから」


 そして彼は私から目を逸らし、ちょっと頬を掻くような仕草をした。


「桜さんにしかデータは直せない。だったら、桜さんはそっちに集中してください。山本さんも……僕が接客したら、案外喜んでくれるかもしれません」


 涙が込み上げてくるのがわかった。こういうとき、私は泣かないはずだったのに。


 結城さんに目を見られないよう、私は深く頭を下げた。その拍子に落ちた雫に、彼が気づいていませんように──そう願いながら。


「……ありがとうございます」


 私が顔を上げる前に、彼は何も言わず、静かにラウンジを後にした。


 胸の奥に、ぽつんと何かが灯った気がした。

 あんなふうにまっすぐに差し出された優しさに触れて──まだ恋じゃないなんて、ごまかせるはずがない。


 私はたしかに……結城さんに惹かれている。


 でも、今の私には恋を育てる余裕なんてない。この気持ちが、どこかへ行き着く未来なんて、想像できない。


 それでも──彼が胸に残していった、静かな熱だけは、ずっと消えなかった。


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