1-1 華やかな舞踏会の裏で
煌びやかなシャンデリアが大広間を照らし、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちと、彼らをエスコートする紳士たちが優雅に舞う。ここは、王国最大の舞踏会であり、王太子アルト・セグリウスと公爵令嬢クラウディア・エヴァンスの婚約を祝う場でもあった。
クラウディアは、淡い金色の髪を美しくまとめ上げ、純白のドレスを纏って立っていた。彼女の微笑みは完璧で、まさに「次期王妃」にふさわしい風格を放っている。周囲の貴族たちからは憧れと羨望の視線が注がれていた。
「クラウディア様、今宵もお美しいですね。」
「ありがとうございます。皆様も素敵ですわ。」
社交界での慣例通り、クラウディアはどの貴婦人にも平等に微笑みを向け、優雅に挨拶を交わしていく。その中には、密かに彼女の成功を妬む者もいたが、クラウディアの自信と品格に誰も公然と逆らうことはできなかった。
だが、彼女自身の心は、今夜の特別な発表に対する緊張で揺れていた。アルトと正式に婚約の発表をすること。それは幼少期から期待され、訓練されてきた彼女の人生の一つの到達点だった。
「お待たせしました、クラウディア。」
その声に振り返ると、アルトが近づいてくるのが見えた。深紅の王家の正装を纏った彼の姿は、まさに絵画の中の英雄のようであり、クラウディアの心は自然と高鳴った。
「アルト様。」
「少し話がある。ついてきてくれ。」
アルトはクラウディアの手を取り、大広間の片隅へと誘った。彼の表情は何か深刻なものを含んでおり、クラウディアは少し不安を感じた。
「何かご相談事でしょうか?」
「クラウディア、君には感謝している。」
唐突にアルトが言葉を切り出し、クラウディアは首を傾げた。感謝とはどういう意味なのだろう?
「だが、これ以上君と婚約を続けることはできない。」
その瞬間、時が止まったように感じた。
「……どういう意味ですか?」
「君と結婚するのは、国益を考えると適切ではないと判断した。」
クラウディアは信じられない思いで彼を見つめた。彼女はこれまで、王妃としての役割を果たすために努力を惜しまなかった。それなのに、どうして?
「理由を教えていただけますか?」
「クラウディア、正直に言おう。君の性格には問題がある。」
アルトの言葉に、クラウディアは冷静さを保とうとするものの、心の中で怒りと悲しみが渦巻いた。
「具体的に何が問題なのか教えていただけますか?」
「君がリリー・バートン嬢をいじめているという話を聞いた。」
その名前を聞いた瞬間、クラウディアの目が驚きに見開かれた。リリー・バートンは男爵家の令嬢で、社交界で特別に注目される存在ではない。しかし、その優しげな笑顔と控えめな態度で、近年アルトに取り入っていることは知っていた。
「いじめ、ですか?」
「そうだ。リリーから直接話を聞いた。」
クラウディアはアルトの言葉に、さらに混乱した。リリーと直接話したということは、アルトが彼女と密接な関係を持っているということだろうか?
「アルト様、私はそのような事実はありません。」
「だが、リリーは涙ながらに語ってくれた。君が彼女を侮辱し、舞踏会の招待状を取り上げたと。」
クラウディアの胸が苦しくなった。事実無根の誤解が、彼女の努力を無にするとは思いもしなかった。
「お言葉を返すようですが、アルト様。それは誤解です。私は彼女に対してそのような行為をした覚えはありません。」
「それでも、私はリリーの言葉を信じる。」
アルトの冷たい視線に、クラウディアは言葉を失った。彼の決定は覆らないようだった。
「……では、これで私たちの関係は終わりということですか?」
「そうだ。今日をもって、君との婚約を破棄する。」
その瞬間、クラウディアの心に重い影が落ちた。大広間の煌めきは遠のき、彼女の目にはアルトの冷酷な態度しか映らなかった。
1-2 裏切りと追放
王太子アルトからの突然の婚約破棄宣言を受け、クラウディアは呆然としたままその場に立ち尽くしていた。彼の冷酷な言葉が何度も耳に響く。――「今日をもって君との婚約を破棄する」。それは、彼女の人生そのものを否定するような一言だった。
「クラウディア様、大丈夫ですか?」
背後から声をかけられ、クラウディアは振り返った。そこには、彼女の幼馴染であり、忠実な騎士でもあるエドモンドが心配そうな顔で立っていた。彼はクラウディアの変化に気付き、大広間の片隅へと歩み寄ってきたのだ。
「……エドモンド……私は……」
震える声で何かを言いかけたクラウディアだったが、言葉にならなかった。どうして自分がこんな目に遭うのか、その理由すら曖昧なままだったからだ。彼女は目の前が真っ暗になるような感覚に襲われた。
「お部屋までお送りしましょう。ここは人目が多すぎます。」
エドモンドの提案に頷く余裕すらなく、クラウディアは彼の腕に支えられるようにして会場を後にした。華やかな舞踏会はそのまま続いており、誰も彼女がいなくなったことを気に留めていないように見えた。これまで社交界で築き上げた名声も、王太子からの一言ですべてが崩れ去ったかのようだった。
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クラウディアが自室へ戻ると、そこにはメイドたちが待機していた。だが、彼女たちの表情は冷たく、どこかよそよそしい。いつもなら優しく接してくれるはずのメイド長ですら、クラウディアの目を避けるようにしていた。
「何か……ありましたか?」
クラウディアが尋ねると、メイド長が一歩前に出て、躊躇いがちな口調で答えた。
「クラウディア様……公爵様からのご命令です。本日をもって、この屋敷からお出ていくようにと。」
「……え?」
彼女の耳に入った言葉は信じられないものだった。自分の父であり、エヴァンス公爵家の当主である父が、自分を追放するよう命じたというのだ。クラウディアの表情が凍りつく。
「何かの間違いではありませんか?私が……父に何を?」
「申し訳ありません。公爵様のお言葉をそのままお伝えしただけです。馬車は既に用意されています。」
メイド長の言葉に、クラウディアは足元が崩れ落ちるような感覚を覚えた。家族の支えすら失ったという事実が、彼女の心を深く傷つけた。
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荷物をまとめる時間すら与えられないまま、クラウディアはわずかな衣服と財布だけを持ち、屋敷の外へと追いやられた。用意された馬車には、冷たい風を防ぐための最低限の毛布しかなく、これが自分の新たな人生の始まりだという現実に直面した。
馬車が動き出すと、クラウディアは窓の外に広がる闇夜を見つめた。長い間住み慣れた家を背にしながら、彼女は拳を握りしめた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
涙が止まらなかった。アルトからの婚約破棄も、父からの追放も、彼女にとっては理解しがたい仕打ちだった。自分は何も悪いことをしていない――そう信じてきた。しかし、彼女を取り巻く世界はそれを認めなかった。
「冷静にならなくては……」
クラウディアは震える声で自分に言い聞かせた。泣き続けるだけでは何も解決しない。これから自分がどう生きていくかを考えなくてはならないのだ。
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馬車が辿り着いたのは、町外れの小さな宿だった。全てが手配済みで、宿の主人は特に事情を聞くこともなく、部屋を提供してくれた。しかし、その部屋は粗末な木製のベッドが一つあるだけで、かつての華やかな生活とは程遠いものだった。
「ここが……私の新しい場所……」
クラウディアは震える声で呟きながら、ベッドに腰を下ろした。身体中に疲労が広がり、そのまま倒れ込むように横たわる。薄い毛布にくるまりながら、彼女は過去の日々を思い返していた。
王太子の婚約者として期待され、家族の誇りでもあった日々。それが一夜にして全て消え去った。この追放が彼女にとって何を意味するのか、それはまだ分からない。だが、このままでは終わらないという気持ちが胸の奥に湧き上がる。
「私を追放して……あの人たちはそれで満足なの?」
涙を拭いながら、クラウディアは固く誓った。自分を陥れた人々を許さない。そして、必ずもう一度、自分の力で這い上がるのだと。追放の夜は、クラウディアの新たな人生の始まりに過ぎなかった。
1-3 予想外の出会い
追放された翌朝、クラウディアは宿の薄暗い部屋で目を覚ました。粗末なベッドの硬さに身体が痛むが、それ以上に心が重く沈んでいた。昨夜の出来事は夢ではなく現実だ。婚約破棄、そして家族からの追放。すべてが信じられないまま、彼女は身を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めた。
「これからどうすればいいの……?」
独り言のように呟いたその声は、誰に届くでもなく消えていく。窓の外には薄暗い朝の光が広がり、街外れの静けさが重苦しいほどに響いていた。クラウディアは、貴族として生きてきた自分が、この状況で何をすべきか全く分からなかった。生活費どころか、どこに行けばいいのかさえ思い浮かばない。昨夜与えられた少額の財布を手に取りながら、彼女は深い溜息をついた。
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その日の午後、クラウディアは宿を出て、周囲を歩いてみることにした。ずっと部屋に閉じこもっていては、何も進展しないことは分かっていたからだ。だが、これが初めての「普通の世界」での歩みだった。これまで貴族として暮らしてきた彼女にとって、庶民の生活を目にするのは全く新しい経験だった。石畳の道を歩く人々、店先で品物を売り買いする声、漂う焼きたてのパンの香り――すべてが彼女には新鮮だったが、同時に圧倒されるような気持ちにもなった。
「私も、この中で生きていかなければならないのね……」
心細さが胸に広がり、足が自然と止まる。これまで自分の居場所だった華やかな世界から切り離された現実が、彼女の中に重くのしかかっていた。
そんな時だった。彼女の足元に転がる小さな影が目に入った。振り返ると、それは道端で遊んでいた子供たちのボールだった。小さな少年がこちらに走ってきて、クラウディアの顔を見上げた。
「すみません、お姉さん!それ返してくれる?」
クラウディアは一瞬戸惑ったが、すぐにボールを拾い上げて手渡した。
「これ、あなたたちの?」
「うん、ありがとう!」
少年は嬉しそうに笑顔を見せ、その無邪気な様子にクラウディアの胸が少し温かくなった。その後、彼はまた走り去り、仲間の元へと戻っていった。彼らが遊ぶ楽しげな声を聞きながら、クラウディアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「何でもない日常が……こんなにも温かいものだったのね……」
小さな出来事ではあったが、それはクラウディアの心に小さな希望を灯した。
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そのまま街を歩き続けていると、一軒のカフェが目に入った。疲れを感じたクラウディアは、そこで少し休むことにした。席について簡単な紅茶を頼むと、静かに周囲を観察する。店内は落ち着いた雰囲気で、庶民たちが談笑したり、一人で本を読んだりしている様子が見受けられた。クラウディアにとっては珍しい光景だ。
紅茶が運ばれてくると、彼女は一口飲み、ほっと息をついた。しかし、ふとした瞬間に隣の席からの視線を感じた。顔を向けると、そこには黒髪の青年が座っていた。彼の端整な顔立ちと、落ち着いた雰囲気にクラウディアは少し驚いた。
「お嬢さん、一人かい?」
声をかけられ、クラウディアは一瞬ためらったが、頷いた。
「ええ、そうですけれど……」
「こんな場所で一人とは珍しいな。君みたいな人が。」
彼の目には好奇心と何か鋭いものが混ざり合っていた。クラウディアは不安を覚えつつも、その声には不思議と冷たさは感じられなかった。
「……私、今は行くあてもなくて。」
ぽろりと出たその言葉に、クラウディア自身も驚いた。誰かに自分の境遇を話すつもりなどなかったのに、この青年の柔らかな声が、心の中に隙間を作ったのかもしれない。
「なるほど。それじゃあ、少しだけ話を聞かせてもらえるか?」
青年は微笑みながら問いかけた。その自然な態度に、クラウディアは少しずつ心を開いていく。そして、自分が追放されたこと、何をすべきか分からないことを簡潔に語った。
「そうか……大変だったな。でも、諦める必要はないさ。」
彼の言葉には妙な説得力があった。そして話を聞くうちに、クラウディアは彼がただの通りすがりの青年ではないと気付いた。彼の物腰や言葉遣いは、明らかに庶民のものではない。それでも、彼は自分のことを一切語ろうとせず、最後にこう言った。
「もし困ったら、この名を訪ねてくれ。きっと力になれる。」
彼は小さな紙片を差し出し、クラウディアはそれを受け取った。そこには「レオナルド・カーティス」という名前が記されていた。
「レオナルド……さん?」
「そう。さあ、君の未来はここから始まるんだ。」
そう言って微笑む彼に、クラウディアは自然と深く頷いた。
1-4 動き出す運命
クラウディアは、カフェで出会った青年レオナルド・カーティスから手渡された紙片を何度も見つめていた。品のある字で書かれた名前と住所。その名前は彼女に不思議な安心感を与えたが、同時に大きな疑問も湧き上がる。この青年は一体何者なのだろうか?庶民にしては物腰が洗練されすぎている。だが、それ以上に、彼の「困ったら訪ねてこい」という言葉が頭を離れなかった。
「私は……どうすればいいの?」
彼女は紙片をそっと財布にしまいながら呟いた。これまで彼女の人生は決められたレールの上を歩いてきた。次期王妃としてふさわしい振る舞いを求められ、努力してきた。だが、今、そのレールは目の前で途切れ、彼女はどこに向かうべきか分からない。そんな中で出会ったレオナルドの存在は、まるで新しい道しるべのように感じられた。
「でも、私が……彼に頼る資格なんてあるのかしら……?」
自分が追放されたという事実が、クラウディアの誇りを傷つけていた。貴族の誇りを持ち続けてきた彼女にとって、誰かに頼ることは恥ずべきことのように思えた。だが、同時に、このままでは何も始まらないことも分かっていた。
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その夜、宿の薄暗い部屋でクラウディアは決意した。レオナルドに会いに行こう、と。彼女は紙片に書かれた住所を確かめると、翌朝早くから行動を起こすことにした。まだ夜が明けきらぬうち、クラウディアは少ない荷物をまとめ、宿の主人に一礼して出発した。
街の中心部に向かう道は活気に溢れていた。市場には色とりどりの果物や野菜が並び、人々の声が飛び交う。その賑やかな光景に、クラウディアは少しだけ心が軽くなるのを感じた。王宮での生活では見られなかった庶民の力強い日常が、彼女に新鮮な感動を与えていた。
「こういう世界もあるのね……」
彼女はゆっくりと歩きながら、その光景を目に焼き付けた。だが、ふと足元に注意が向いた瞬間、何かにぶつかった。
「きゃっ!」
小さな声を上げたクラウディアは、前を歩いていた女性と衝突してしまったのだ。女性は落とした籠を慌てて拾い集めている。中には新鮮な野菜が詰まっていた。
「申し訳ありません!大丈夫ですか?」
クラウディアはすぐに謝罪し、落ちた野菜を拾い集め始めた。女性は驚いた様子だったが、クラウディアの真剣な表情に安心したのか、柔らかな笑みを浮かべた。
「大丈夫です、ありがとうございます。お嬢さん、見たところ旅の方ですか?」
「ええ、そうです。少し事情があって……」
「そうでしたか。それにしても、あなたのような綺麗な方がこんな場所にいるなんて珍しいですね。」
女性の言葉に、クラウディアは少し顔を赤らめた。自分が見慣れない存在だと気づき、今後はもっと注意深く行動しなければならないと思った。再び謝罪をして別れを告げた後、彼女は再びレオナルドの住所を目指して歩き始めた。
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レオナルドの住所に到着したのは昼過ぎだった。そこは街の一角にある大きな屋敷で、庶民の家とは明らかに異なる立派な造りをしていた。彼の正体がただの青年ではないことを確信したクラウディアは、緊張しながら扉を叩いた。
「どちら様ですか?」
現れたのは中年の執事だった。その端正な姿勢と落ち着いた声が、屋敷の格式を物語っている。
「クラウディア・エヴァンスと申します。レオナルド様にお会いしたく……」
名乗ると、執事は少し目を細めたが、すぐに扉を開けて中へ通してくれた。案内された応接室は洗練された調度品で飾られており、クラウディアはその豪華さに少し圧倒された。だが、深呼吸をして自分を落ち着けた。
しばらくして、足音が近づき、扉が開かれた。そこに現れたのは、紛れもなくカフェで出会ったレオナルドだった。
「君が訪ねてくるとは思っていなかった。正直、少し驚いたよ。」
彼は微笑みながらソファに腰掛け、クラウディアを促した。その表情には軽やかさがありながら、どこか鋭いものも含まれている。
「……助けていただきたくて、伺いました。」
クラウディアは正直に話すことに決めた。これ以上、自分を飾る余裕もなかったのだ。レオナルドは彼女の話を黙って聞きながら、何度か頷いた。
「状況は分かった。君には多くの試練が降りかかっているようだ。でも、君にはそれを乗り越える力があると感じるよ。」
「私に……力が?」
「そうだ。君のような人物がただ追放されて終わるはずがない。それに、君が何かを成し遂げる姿を見てみたいと思ったんだ。」
その言葉に、クラウディアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。彼の言葉には、彼女自身が忘れていた自信を取り戻す力があった。
「ありがとう……ございます。」
涙が溢れそうになるのを堪えながら、クラウディアは深く頭を下げた。彼女の新たな運命が、この場所から動き出そうとしていた。
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