霧は、静かに晴れつつあった。
薄青の空が、山肌の間に切れ目を作るように覗いている。
足元には湿った苔と、風に撫でられたような石畳の道。
ルカは地図の羊皮紙を見下ろしながら、何度も手で触れていた。
道はまるでそれをなぞるように正確で、しかしどこか夢の中のように不確かだ。
「もうすぐ、境界線を越えるわ。」
ハーリィがそう言った直後、突風が吹き抜けた。
だがそれは冷たくも荒々しくもなく、むしろ柔らかな指先で髪を撫でるようだった。
辺りの空気が変わる。風が音を持ち始め、葉の擦れる音に混じって、微かな囁きが耳に届いた。
「……これは、“結界”ね。」
ハーリィは立ち止まり、指先を空にかざす。
空間が、言葉で満たされていくような錯覚。
追跡者の視線も、記憶も、ここでは遮断されるのだと直感でわかった。
そして、ルカたちは「村」に足を踏み入れた。
***
“
──その名は地図にも記されていなかった。
石造りの家々は低く、屋根は苔むしている。
人々は静かに、しかし確かな眼差しでルカたちを見つめた。
村に足を踏み入れてすぐ、ルカは不思議な感覚に包まれた。
音がないわけではない。
だが、耳に届くものは木の葉のざわめき、湧き水のせせらぎ、そして──人々が奏でる音だった。
「……話さないんだな、誰も。」
ルカが小声で呟くと、隣のハーリィはわずかに頷いた。
「ここでは、言葉は贈り物なのよ。むやみに使わず、残すためにある。」
声は上げない。
代わりに、布に刺繍で思いを綴り、石に印を刻み、時には木片の笛で音を伝えていた。
そこへ、杖をついた老女が近づいてきた。
紺の衣に草花の刺繍があり、腰には小さな羊皮紙の巻物を提げていた。
皺の多い顔に宿る目だけが鋭く、しかしあたたかな光を宿している。
老女はハーリィを見て「風の底に触れし者」と呼び、深く頭を垂れた。
その仕草にルカは少しだけ驚く。続けてルカに視線を移した。
「……君が、“語る者”だね。」
「え?」
「クルタと申します。この村で“ことのは守り”をしております」
老女は静かに微笑んだ。
口調は緩やかで、言葉そのものが慎重に選ばれているのがわかった。
ルカが名乗ると、クルタはうなずき、ゆっくりと手招いた。
「……君は、“語られる前の者”を背負っている。あなたの中に“物語をほどく種”がある。」
彼女は目を細めながら、静かに言葉を紡ぐ。
どこか祖父にも似たぬくもりを感じさせる声。
「……ぼくが、語り手?」
思わず聞き返すと、クルタはうっすら笑いを浮かべた。
「この村では、語りは力です。声にすることは、神に触れること。
だからこそ、慎重に、丁寧に言葉を使う。
……あなたが来ることは、ずっと昔の記録に記されておりました。」
「記録?」
「“頁牢の縫い目より来たりて、封じられし言葉を綴る者、祝詞を渡り、雷の神を起こす”
──そのような記述がね。」
ルカは思わず、背負った鞄にある日記帳の重みを意識した。
祖父が綴った綴言。そこに記されていた
クルタは静かに歩き出した。
「あなたに見ていただきたいものがあります。村が守ってきた、語られなかった“物語の断片”です。」
***
その日の午後、クルタはルカを村の奥へと誘った。
石段を下りた先、小さな祠の中に、それはあった。
“語り布”
──古びた織物で、柔らかい羊毛の糸で紡がれた詩のような断章が、風にたゆたっていた。
語られていたのは、こうだった。
──風と雷を司る双子の神が、かつて人々の祝詞を糧に生きていた。
けれど時が流れ、人が言葉を忘れると、神々もまた忘れ去られていった。
雷の神は言葉を失い、風の神もまた沈黙に沈んだ。──
そして、布の物語は途中で終わっていた。
「途切れてる……。」
「語り手が、いなくなったからね。」
クルタは布に触れながら言った。
「これは
君のような者にしか、続きを綴ることはできないのさ。」
彼女はルカの目を見据えた。
「記すだけなら誰でもできる。けれど……“言葉を生む者”でなければ、神話は蘇らない。」
***
その夜、ルカは焚火の傍で詩を読み返していた。
声に出さずとも、言葉はルカの中で波のように響いていた。
「……まだ語られていない声が眠ってる。」
ハーリィが焚火越しに呟いた。
風が音を運ぶように、遠い神々の嘆きが聞こえた気がした。
詩を読み終えたルカの声が、布の上に吸い込まれるように消えた。
広間に、しんとした静けさが戻る。
風が、また一度、重く流れる。
だが、今度はただの風ではなかった。
どこかで、深い谷底から響くような低い唸りがあった。
地の底に眠る何かが、かすかに身じろぎしたような──そんな感覚。
「……これが、雷の神の封じられた声なのか。」
ルカは小さくつぶやいた。
けれど、自分の声さえ、広間の静寂に対しては異物のように感じられる。
「言葉を投じた以上、あなたは選ばれた者です。」
クルタが言った。
「この谷に満ちる雨と風は、神の夢の“なごり”。やがて、声を取り戻すときが来るでしょう。」
と言って、クルタは去って行った。
ルカは小さくうなずいた。
胸の奥に熱のようなものが残っていた。
言葉の重み、語ったことの余韻。
それが、眠りかけた何かを起こしてしまったような──恐ろしさと、希望。
ハーリィがルカのそばに歩み寄り、そっと肩に手を添える。
「大丈夫、ルカ。夜は深くなったけど……今はまだ“夢の底”。夜明けは、もう少し先。」
遠く、谷の風が木々の梢を揺らす音がした。
その音は、どこか“鼓動”のようでもあった。
***
翌朝、ルカたちは村を発とうとしていた。
そこにクルタが再び現れる。朝日の明かりで顔の皺が浮かぶ。
「この村の外じゃ、神話は物語ですらない。
だけどね、君みたいな子がいれば……言葉はまた、神を起こすよ。」
彼女はそっとルカの手を取った。
そして小さな包みを手渡してくる。
クルタが手渡した小さな包みには、古びた織布が収められていた。
それは、かつて誰かが紡ぎかけたままの、言葉の断片。
──「風が雷を呼ぶとき、沈黙は終わりを告げる」という一節。
「この詩片は、“神が最後に残した夢の名残”です。
風と雷が共鳴すれば、言葉は再び、世界を満たすでしょう。」
クルタの声は、朝靄のように優しく、けれど確かに響いた。
「そしてこれは、次の場所への手がかりになるでしょう。“スクレイプ街”を訪ねなさい。」
そう言って、クルタは微笑んだ。
ルカは織布を胸に抱くようにして受け取り、そっと頷いた。
「ぼくが……続きを語れるか、わからないけど。」
「いいのさ。語ることは、問いを重ねることでもある。
答えは風の中にあるかもしれないし、君自身の中に育つかもしれない。」
村の人々が静かに集まり、手を振っていた。
口を開くことはないが、そのまなざしに込められた想いは、ひとつの祈りのようだった。
やがて、ルカとハーリィは村を後にする。
足元の道は、昨日よりもはっきりと輪郭を帯びている。
霧が晴れ、光が差し始めた山道を、彼らは再び歩き出す。
風が吹く。それは、背中を優しく押すような追い風だった。