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千田さん家の裏口は、異世界への入口
千田さん家の裏口は、異世界への入口
たかつど
異世界ファンタジー冒険・バトル
2025年05月24日
公開日
1万字
連載中
 最初に言っておこう。異世界に召喚されたからといって、すべての冒険が命がけで、涙と血にまみれているわけではない。むしろ、時には――そう、千田さん家のように――異世界は歩いて五分の場所にあったりするのだ。

第1話

 最初に言っておこう。異世界に召喚されたからといって、すべての冒険が命がけで、涙と血にまみれているわけではない。むしろ、時には――そう、千田さん家のように――異世界は歩いて五分の場所にあったりするのだ。


 鳥内瑠散(とりうち・るちる)がその日、少し焦げた鮭の切り身を皿にのせてため息をついたのは、全ての始まりだった。


「また焦げた……!どうしてだよ、もう……」


 母は仕事で不在。妹のミチルはテスト勉強中で構ってくれない。コンビニ弁当にはもう飽きた瑠散は、己の手で夕飯を作ろうと奮起したのだったが、結果は炭色の魚の残骸である。


 そこへ、玄関のチャイムが鳴った。ピンポーン、と軽やかに。


「……誰だよ、こんな時間に」


 扉を開けると、そこには隣に住む千田さんが立っていた。なぜか今日は金色のローブを羽織り、手には杖を持っていた。どう見ても魔法使いである。


「あなた、鮭がうまく焼けないんですってね?」


 第一声がそれだった。


「え、ええと……はい?」


「なら、うちに来なさい。異世界に召喚してあげるわ」


 普通なら、変なおばさんの妄言で終わるところだろう。しかし、千田さんの家はこの辺ではちょっと見ない豪華だ。昔から奇妙な噂があった。夜中に屋根の上で猫が空中浮遊しているとか、ポストから火が出たとか、二階の窓から覗いていたのが人間じゃなかったとか。要するに、千田さん家は昔からちょっと“おかしい”。


 そして、瑠散は鮭に絶望していた。


「……行きます」


 こうして、彼はスリッパのまま、異世界に向かうこととなった。


 千田さんの家の玄関を抜けると、そこは―― 魔法の広間 だった。宙に浮かぶシャンデリア、うねうねと踊る絨毯、口を利く植木鉢が「ようこそ」と彼を歓迎する。


「ここ、普通に異世界じゃん……!」


 千田さんは言う。


「ここは“千田界(ちだかい)”。私が築いた異世界よ。鮭が上手に焼けるようになるまで、少し修行してもらいます」


「焼き魚の修行で異世界!?」


 だが、それは序の口だった。

 地下には迷宮(ダンジョン)があり、鮭の焼き加減を司る火の精霊が棲んでいるという。隠し部屋ではトースターが魔法具として進化を遂げており、タイマーに意思がある。なぜか猫の姿をした剣術師が住んでおり、鍛錬の合間に毛づくろいをしていた。


 それでも、心配は無用だ。帰りたくなったら、千田さん家の裏口から出ればいい。そう、歩いて五分で家に帰れるのだ。

 ただし、焼き魚が焦げていたら、また召喚されるという呪い付きで。


 異世界“千田界”に来て三日目、鳥内瑠散は焦げない鮭の焼き方を学ぶどころか、火の精霊に追いかけられ、絨毯に飲み込まれ、トースターと口論していた。


「俺はただ、表面がパリッとして中がふっくらの鮭を焼きたいだけなんだよ!!」


「それが一番難しいんじゃああああ!!!」

 ――と、叫んだのは浮遊トースターのトトスである。彼は明らかに疲れていた。精神的に。


 その日、久々に裏口から現実世界へ戻った瑠散は、肩を落として歩いていた。ほんの五分なのに、なんだかすごく遠かった気がした。


 そして、家の角を曲がったとき。


「ふーん、千田さん家、行ったのね」


 そう言って現れたのが折茂(おりも)さんだった。


 折茂さんは近所でも有名な“何でも知ってる謎の女性”である。年齢不詳。日傘を差しながら、いつも庭でミントティーを淹れている。誰に教わったわけでもないのに、海外の占星術に詳しく、毎月の満月には「今日は危ない日ね」とだけ呟いて買い物に出ない。


「な、なんで知ってるんですか……?異世界のこと……」


「知らないわけないじゃない。あそこ、私の実家よ」


 ――この折茂さん、何者!?


「あなた、今は“初級召喚者”ね。千田界では“お魚クラス”と呼ばれてる」


「魚……?」


「大丈夫。私も最初は“こんにゃく”だったから」


 謎の階級制度に混乱する瑠散に、折茂さんはにっこりと笑った。


「そうね。せっかくだし、あなたに紹介しておくわ。師匠を。上手に鮭を焼くには、火を“理解”しなければならないの。火を支配する者、つまり――」


 ぱたん。折茂さんは、手にしていた日傘を軽く地面に突いた。


 すると、空気がぱしりと弾けたかと思うと、住宅街の真ん中に古代ギリシャの神殿のような扉が現れた。


「開けたら、すぐ“炎の塔”よ。中には、私の師匠であり千田界の火の守護者――ゾクヤケシャ様がいるわ」


 瑠散は思った。

 なぜこんな重要キャラを、近所の人が勝手に紹介してくるんだ。

 だがもう、異世界召喚とはそういうものだと理解し始めていた。



 ゾクヤケシャ様のもとへ向かうべく、「炎の塔」の第一層に足を踏み入れた鳥内瑠散は、思いのほかのどかな空気に面食らっていた。


 天井は高く、あちこちに浮かぶ火の玉たちはまるで提灯のように赤く揺れており、どこからかカレーの匂いが漂ってきた。


「……異世界でカレー?」


 鼻をくすぐるスパイスの香りに導かれるまま、瑠散は塔の中央にある、赤い布の敷かれたピクニックスペースにたどり着いた。


 そこには一人の女性が座っていた。年の頃は三十代。長い黒髪を後ろでゆるく束ね、エプロン姿で三つの小さなお弁当箱にご飯を詰めていた。


「あら。あなた、新入り?」


 ふと顔を上げた女性は、にこやかに微笑んだ。だがその背後では、三人の子どもたち――全員が炎をまとう小さなモンスターと楽しげに追いかけっこをしている。


「え、あの子たち、火ついてません!?あぶないですよ!」


「大丈夫よ、うちの子、もう耐火スキル持ってるから」


「子どもが!?」


「ええ。火の精霊たちもすっかり懐いてるわ。長女のヒガシが生後九ヶ月のときに召喚されてから、だいぶ経つもの」


「え、ちょ……!?」


 彼女の名は周東 香澄(しゅうとう・かすみ)さん。三児の母であり、千田界に召喚されてもう八年目。

 異世界育児歴八年目。熟練の“火弁当術師(ひべんとうじゅつし)”である。

「なんで召喚されたんですか……?」


「そうね……確か、次女の誕生日にキャラ弁を失敗して、サンドイッチがオオタニ侯爵に似たのが原因だったと思うわ」


「だれ!?」


「貴族よ、千田界の。子どものお弁当に顔を模されたのが耐えられなかったらしくて、怒って呪文詠唱しちゃって。気づいたらこっちに来てたの」


 その語り口は、まるでスーパーで野菜が安かった話をするかのように平坦で、優しく、たまにユーモラスだった。


「でもね、ここの食材は本当に素晴らしいのよ。ほら、これが“火炎トマト”。熱すると逆に甘くなるの」


 彼女は器用にそれをスライスし、小さなおにぎりに添えた。


「君……強いな」


 思わずこぼれた言葉に、周東さんは笑った。


「そんなことないわよ。ただ、子育てってどこでも大変なのよ。異世界だろうと現実だろうとね。でも……」


 その視線は、今まさに火の精霊に乗って飛び跳ねている次男の背中へと向けられていた。


「ここにいると、ちょっとだけ日常が特別に感じられる。たとえば、ご飯が焦げなかった朝は、もうそれだけで奇跡みたいに嬉しくて」


 その言葉に、瑠散の胸の奥がきゅっとなった。

 ――そうだ。

 自分も、ただ焦げない鮭が焼きたかっただけなのに、いつの間にか火を操るだの、塔を登るだの、話がややこしくなっていた。


 だが今、目の前で楽しそうに笑う母子の姿を見て、ほんの少しだけ、異世界にいる理由がわかった気がした。


「よかったら、お弁当どう?今朝、焼いたのよ。鮭」


「――食べます!!」




 炎の塔は、ただの塔ではなかった。

 幾層にも分かれたその内部には、修練の部屋、儀式の間、料理研究所、八木節ホールなど――多様で奇妙な空間が存在していた。そして、その中にひときわ異質な部屋があった。


 「うわっ、やっば……っ!」


 瑠散は床にぽっかり開いた穴に気づかず、足を踏み外した。


 ごおおおん――と重い音がして、空間がねじれたかと思うと、彼はふわりと柔らかい何かの上に落ちていた。ふかふかした、毛のような、でもどこか温かみのある……


「――貴様、背中に乗るとは無礼千万な」


 瑠散は飛び跳ねた。自分が乗っていたのは、体毛を艶やかに整えた猫だった。


 ただの猫ではない。


 その背は一直線に伸び、腰には刃を収めた小太刀を帯びている。鼻先には白ひげが揺れ、紫色の瞳がきらりと光った。


 猫が、ゆっくりと頭をもたげる。毛並みは漆黒、金の瞳は人間より遥かに冷静な光をたたえていた。


 背には小太刀。額には折れ耳。目の下には、うっすらと武士道のしるしのような傷。


 「吾輩の名は、ネコムネ・タマ次郎。千田界“毛刃流”最後の継承者である」


 「……ね、猫が喋った……!? ていうか剣道し


 「剣道ではない。剣術だ。道とは甘さ。術とは峻厳……心して学べ」


 ネコムネはにゅるりと背を伸ばし、柄に前足をかけた。


 カチリ、と鞘から少しだけ抜かれた刀身が、部屋の空気をピリリと裂く。


 ネコムネはくるりと体をひねって起き上がり、背筋を伸ばして座った。どこか道場の師範のような佇まいである。ひげをしゅっと舐め、しっぽを整えながら、鋭い一瞥を瑠散に送る。


 「おまえ、"お魚クラス"を授かりし者だな?」


 「え、まぁ…」


 「ならば次の段階に進むため吾輩のトラップ部屋、この“毛刃試練”を乗り越えねばなるまい」


 そう言うやいなや、ネコムネはぴょん、と空中を跳び、あらゆる角度から瑠散に木の棒を投げ始めた。左から、右から、上から! どれも猫の毛で巻かれていてフカフカしているが――


 「わ、わっ! 何だこれ!」


 「反射神経と、空腹時の判断力を試す。おぬし、さきほど“焼き鮭が食べたいな~”と心で思ったであろう?」


 「な、なんで分かるんだよ!」


 「吾輩の耳は飾りではない。……ふむ、まだまだ雑念が多い。腹が減ったならば、斬れ」


 ネコムネが前転しながら放った木刀の最後の一本には、小さなが鮭が結びつけられていた。

 「“己の空腹を断ち切る心こそ、火と鮭の中心”」


 「それ、誰の名言だよ!」


 「うちの先代――“おこげの虎”の遺訓である」


 瑠散は半ば呆れながらも、飛んできた鮭つきの棒を避けずに真正面から受け止めた。そして握り、深く呼吸をした。


 ――斬るものなど、なかった。ただ、感じ取るだけだった。


 炎の香り、鮭の湯気、自分の指先の熱。


 すると、部屋の中にぽん、と小さな火の光が生まれ、それはふわりと鮭を包み込んだ。


 ネコムネはにっこりと――いや、猫だから分かりづらいが、たぶん笑っていた。


 「合格だ、炎の少年」


 その声と共に、床に浮かび上がる光の円。トラップ部屋の出口だ。


 瑠散が光に吸い込まれる直前、ふと後ろを振り返ると、ネコムネはまた一心不乱に自分の後ろ足の毛づくろいをしていた。


 「剣術も、毛づくろいも、手入れこそ命だからな……」


 「……うん。ありがとう、ネコムネ師範!」


 光に包まれながら部屋を出る間際、瑠散はふと振り返った。


 そこには、柔らかく身体を丸め、ひたすら後ろ足の毛づくろいに没頭するネコムネの姿があった。あの鋭さはどこへやら、まるでただの猫だった。


 「剣も毛も、放っておくと乱れるからな……ではまた、少年」


 光が閉じる。


 その日、瑠散はひとつ、“焼く”ことの本質に近づいたのだった。





「炎の塔」の最上階。そこには静かな緋色の広間が広がっていた。空気は静まりかえり、ただひとつ、真紅の火が中央で揺らめいている。そこにいるはずのゾクヤケシャ様の姿はどこにもなかった。


「……試練って、どう始まるんだ?」


 瑠散がそう呟いたその瞬間、火がぱっと花火のように弾け、代わりにそこに立っていたのは――


「待ってましたー!」


 軽快な声と共に、火の中から現れたのは、おしゃれなワイドパンツにフリルブラウスを着こなした若い女性だった。片耳に揺れる炎のピアス、ヘアスタイルは完璧な外ハネ。まるで表参道のカフェから転送されてきたようなオーラを放っている。


「はじめまして、荻野 香凜(おぎの・かりん)です。ゾクヤケシャ様の代理でーす。今日のコーデのテーマは“燃える恋と焼き魚”。よろしくね!」


「代理!?ゾクヤケシャ様は!?」


「今、温泉行ってるの。火山の。神様でも疲れるんだって。あと、私の方が“火とファッションの融合”って意味では上だから、たぶん問題ないかなって」


 問題がありすぎる。


 だが、瑠散が口を開くより早く、荻野さんはパチンと指を鳴らした。


「じゃ、“完全なる鮭焼き試練”をはじめまーす!」


 周囲の空間がぐにゃりとゆがみ、気がつけば瑠散は巨大な溶岩プレートの上に立っていた。周囲には火の精霊たちが円を描き、うねうねと踊りながら熱を送ってくる。


「まずはこれ、鮭の切り身。千田界特産の“クリムゾン・サーモン”。脂が多いから、油断するとすーぐ焦げるよ」


「どうやって焼くんですか!?」


「心で。」


「……は?」


「あなた、火を“使おう”としてるでしょ?違うの。“火にお願いする”の。あなたの鮭が“食べごろ”になるように、“一緒に焼いて”もらうの」


「火に!?お願い!?」


「そう、お願い。火って、実はすごく気分屋なの。でも、きちんと向き合って、気持ちを伝えたら、協力してくれるんだよ?」


 荻野さんはまるでヘアセットのコツを教えるように優しく言った。


「まず、自分の中の焦り、迷い、恥ずかしさ――全部、炎に預けてみて。鮭に集中して。鮭と会話して」


 瑠散は目を閉じた。

 彼の周囲を火の精霊が舞う。

 ジュウ……という音が静かに響き、空気に鮭の香ばしい匂いが立ちのぼった。


 “焦げるのが怖い”


 “うまくいかなかったら、誰かに笑われる気がする”


 “だけど、本当はただ、誰かに美味しいって言ってほしい”


 瑠散の心の声に、火の精霊たちがふわりと集まった。赤く、やさしい光に包まれながら、鮭の表面がカリッと色づいていく。


「……できた」


 荻野さんが微笑んだ。


「うん、いい火加減。香りもばっちり。“真の焼き手”の鮭だね」


 試練の広間が、光と香りで満たされた。

 その瞬間、荻野さんの背中からふわりと炎の翼が広がる。


「おめでとー!“お魚クラス”から“火と和解した者(サーモン・ハーモナイザー)”に昇格だよ!」


「なんか称号がじわじわ来る!」





 それは、千田界で年に一度だけ開かれる、栄誉ある祭典。


 その名も――


「千田グルメ選手権」!


 勝者には「神食の称号」と、千田界のすべての食材を一年無料で使用できる“金のレシピ巻物”が授与されるという。


 さらに今年のテーマは、なんと…


 > 『鮭(サーモン)』


 千田界のどこかで誰かが呪いを込めているのかと思うほど、鮭にまつわる縁が強い。もちろん瑠散も推薦枠で出場が決定した。


「焼くだけじゃない。今日は、世界を美味しさで救う戦いなんだ!」


 気合い十分な瑠散。対するは、名だたる料理魔導士たち……その中でも、特に注目されていたのが――


「お初にお目にかかります。あなたが“炎と対話する少年”ね」


 ぴしりと着た白の調理服に、蒼のスカーフ。ひとつに束ねた髪は艶やかで、まっすぐな瞳が瑠散を射抜く。


 彼女の名は――五十嵐 麗香(いがらし・れいか)。


 “銀の包丁魔女”の異名を持ち、五年連続準優勝。彼女がナイフを握れば、魚は喜びながら身をひらき、野菜は微笑みながら香りを放つと言われる。


 ――ただし、その料理に使う技術は、人知を超えている。


「今年こそ、“あの人”を越えるわ」


 五十嵐さんの目にちらりと宿る執念。

 “あの人”とは、かつてグルメ選手権三連覇を果たした伝説の料理人。今はどこかの温泉火山で休暇中の――ゾクヤケシャ様である。


【第一試合:1対1 鮭バトル】


 試合場は、空中に浮かぶ“風の調理台”。風の精霊が鍋を支え、炎の精霊が火加減を操作、味見は水の精霊という完全中立の審判精霊制だ。


 五十嵐さんは滑らかな手つきで“クリムゾン・サーモン”を開き、香草の魔法をかけたオイルでマリネし始めた。


「ローズ・フレイム、ディルの舞。……いけるわ」


 対する瑠散は、荻野さんから学んだ“炎との対話”をベースに、“想いを込めて焼く鮭”を披露。周東さんからもらったお弁当の包みを懐から出す。


「みんなの味を、僕なりに――やってみます!」


 炎が踊り、香りが広がる。


 そして……


 五十嵐さんは鮭の香草ミルフィーユ巻き 溶岩ソースがけを、

 瑠散は愛情たっぷり焼き鮭弁当・異世界風を完成させた。


 審判精霊たちはひとくち、またひとくち……そして、目を見開き、空中でフルスピンを決めた。


「「う、うまーーーーい!!」」


【審判結果】


 味の深み:引き分け


 火加減:五十嵐優勢


 感情の余韻:瑠散、圧勝



 そして、発表された結果は――


 > 同点優勝!


「まさか……子どものお弁当風でここまで戦えるなんて」


 五十嵐さんは、一歩だけ近づいて、静かに言った。


「あなたに敗北したとは思っていないわ。でも……ひとくち食べたとき、あの味に――懐かしい誰かの笑顔を、思い出したの」


「それはきっと、料理に必要なものですよね」


 その言葉に、五十嵐さんはふっと微笑んだ。




 グルメ選手権の終幕から、まだ幾日も経っていないというのに、千田界ではまるで年に一度の大祭のような騒ぎが続いていた。


 「焼き鮭弁当、うちでも出そうかしら」

 「香草ミルフィーユ鮭? あれ再現できるの?」

 「五十嵐様のまな板と瑠散くんのフライパン、展示中です!」


 街角では香ばしい匂いが漂い、子どもたちは鮭パペットを振り回しながら遊び、各家庭では“我が家の鮭アレンジ”選手権が自然発生するほどの盛り上がりを見せていた。


 だが――その裏で、密かに蠢く影があった。


 「な、なんだこの気配……やばい、精進だ。」


 最初に気づいたのは、千田界の門番を務めるオヤジさんだった。

 鼻先をぴくりと動かし、鋭く森の奥を睨んだ。


 そして、木々を揺らして現れたのは――


 袈裟を纏い、つるりとした頭に、静かな笑みを浮かべる修行僧たち。

 その背には巨大な数珠、腰には封印された炊飯釜、手には光る魔力式フライ返し。

 一見平和な精進僧――だが、その実態は、


> 料理泥棒団『精進料理作る団(S.J.C.:Shojin Cuisine)』


 彼らは、“強すぎる味”に取り憑かれたこの世界を正すため、あらゆるレシピと素材を封印しにやってきた、味覚の禁欲戦士たちだった。


 「――ありがたや……素材も味も、煩悩である」

 「この地の料理、過ぎた旨味。拝借いたす」


 目標はただ一つ――

 “金のレシピ巻物”。それは、グルメ選手権の決勝で使われた幻のレシピ、焼き鮭の真髄を記した秘伝書であった。


 瑠散のもとへ向かう彼らを迎え撃つのは、もちろん千田界の料理戦士たち。


 五十嵐さんが一歩前へ出る。


 「あなたたち、何が目的なの?」


 「我らは、味に踊らされた愚者を戒めに来たのだ。肉、油、砂糖、塩分、旨味――それらは食欲という名の魔獣である」


 「でも、鮭は魚ですよ……?」


 「……ギリ、セーフだが……美味すぎるのはアウト!」


 絶妙な線引きに全員が一瞬黙る。


 そこへ荻野さんが手元から炎の竜を召喚!


 「じゃあ、こっちも本気でいかせてもらうね。“食欲という名の魔獣に乗りこなされろ!”」


 召喚された竜が吐いた火で、脂の乗った甘味噌バター鮭が焼き上がる。芳醇な香りがあたりに広がるや否や――


 「煩悩の塊ィィィッ!!」


 泥棒僧の一人が衝撃波を受け、口から湯葉を吐いて倒れた。


 「湯葉でダウンした……すごいな……」と瑠散。


 折茂さんは魔導しゃもじを高速回転させながら突進!


 周東さんは、三人の娘たちを背に“子ども用エプロン結界”を展開。


 「母は、食事で戦えるのよ」


 彼女の言葉に、相手側の僧兵たちが妙に納得した顔になる。


 そんな中、泥棒団の頭領「慈無味(じむみ)導師」が進み出る。


 「最後に問う。なぜ、そこまで味にこだわる? なぜ、料理に心を宿す?」


 その問いに、瑠散はしばし黙し、ゆっくりと答えた。


 「美味しいって、伝える手段なんだよ。

 言葉より前に、“ごはん”で誰かを励ませるんだ。

 だから僕は、味に、心をこめたいんだ」


 その言葉とともに、彼は一枚の鮭を焼き上げた。


 炭火でじっくり火を通し、皮目を香ばしく、脂がじゅわりと音を立てる――

 仕上げにほんの少し、山椒と味噌を添える。


 慈無味導師がそれをひとくち口にした、その瞬間


 「うっ……うま……いや、これはただのタンパク源……だが……この脂の香りと……だし……や、やめられな……ありがたやーーーーー!!!」


 慈無味、堕落、チ~ン。


 倒れ込んだ彼の袈裟からは、隠し持っていた“だし昆布エキス”と“隠し味ノート”が落ちた。


 千田さん家の裏庭では、新たな料理教室が開かれることになった。


 講師は五十嵐さんと荻野さん。時折、ゾクヤケシャ様が炎のおにぎり術を見せに現れ、周東さんの子どもたちも小さな手で野菜を切っていた。


 そしてオヤジさんは、ちゃっかりエプロンを着けて助手に昇格。しっぽをふりふりしながら、参加者たちの味見役を務めていた。


 「やっぱり、心がこもってると、味も変わるんだよなぁ……」


 そう呟きながら、一枚の鮭を焼きながら微笑むオヤジさんの背には、ほんのりと炎の紋章が灯ってた。




 千田さんの1日


 朝。千田界に朝日が差し込む頃――。


 「よ〜っしゃ、今日も張り切っていくよぉ!」


 おばちゃんの声とは思えない、弾けるような元気な挨拶。

 ハチマキをきゅっと締めて、腰に手ぬぐいをぶら下げ、千田さんはすでに玄関でストレッチ中。


 「オヤジさーん、起きてるかい?」


 寝ぼけ顔の小型犬、使い魔(?)のオヤジさんが、のそのそと座布団から出てくる。しっぽをふりながら、大あくび。


 「さ、今日の朝ごはんは特製・焼き鮭定食だよ! オヤジさんの大好物!」


 ぱたぱたと縁側に出て、薪ストーブに火を入れ、魚焼き網で鮭をじっくり焼く。その香りが、裏庭から異世界にまでしみ出すのは千田さん家の名物。


 「ほら見てごらん、この脂ののり。これはご褒美ってもんさね」



 朝の巡回!

ご飯を食べたあとは、魔法のホウキ……ではなく、庭の竹ぼうきにまたがって軽く浮遊。


 「よいしょっと、千田界、異常なーし!」


 軽快な音楽がどこからともなく流れ出す。

 「チャンチャカチャンチャン♪」

 すると、千田さんの服がピカッと光って――


 「魔法おばちゃん千田さん、ハッピ変身、完了!」


 青地に「千田界」と大きく染め抜かれた法被(はっぴ)。

 腰にはしゃもじ型の魔導具、背中には八木節ステレオを背負い、決めポーズ。


 「八木節に代わって、お仕置きよぉ〜!」



 午前の修行!

 村の子どもたち相手に「煩悩ばらい体操教室」を開催。


 「さぁいくよぉ〜! いち、に、や〜ぎ、や〜ぎ!」


 「それ八木節ちゃうやろ!」と瑠散が後ろでつっこむが、千田さんは完全無視で踊り続ける。


 オヤジさんはちゃんとビブスを着て見守り係。おやつに鮭トバをかじっている。



 昼食はみんなでおにぎり作り!


 五十嵐さんと周東さんが来て、食堂が一時“魔法料理研究会”に早変わり。


 「鮭入り混ぜご飯に、しそをぱらっと……ふふ、これぞ“鮭踊る八木節ボム”よ!」


 「名前のクセが強すぎます」周東さんが冷静にコメント。


 午後のトラブル対応!


 近くの異世界ゲートが不調で、火の精霊が迷い込む。


 「ひええっ、魚が焦げるー!」と叫ぶ精霊に、


 「焦げもまた、味わいよぉ〜!」と千田さん。


 手拍子とともに八木節を踊ると、火の勢いがちょうどいい“遠火の強火”に収まり、なんと火の精霊は料理担当として居着いてしまう。


 夕方。千田さんの秘密の時間。


 日が落ちたあと、縁側で、炊きたてご飯と焼き鮭、そしてお味噌汁。


 「うん、やっぱり、これが一番」


 オヤジさんがちょこんと隣に座り、千田さんにもたれかかる。

 その姿を見ながら千田さんは、ぽつり。


「ほんとはさ、とーちゃんがこうやって戻ってくれたら、って……いや、言ってもしょうがないけどね」


 オヤジさんはふと顔を上げ、やさしくしっぽをふる。


 「……へへっ、ありがと。じゃ、明日も踊るか!」


 夜。


 ちゃぶ台の上でちょっとした宴会。


 ゲート向こうから帰ってきた瑠散くんが手土産の鮭グラタンを持ってきたり、荻野さんがふらりと寄って味見したり。周東さんの子どもたちがドタバタ走り回る。


 その真ん中で、千田さんはゆったり笑う。


 「明日も千田界は、元気でいくよぉ〜!」


 まさに、踊って笑って焼き鮭焼いて、

 今日も明るく異世界を守る、魔法おばちゃん千田さんの1日なのでした。





【登場キャラ紹介】


 鳥内瑠散(とりうち・るちる):異世界“千田界”に召喚された高校生。料理が苦手。特に焼き鮭に苦しんでいる。


 千田さん:ちょっと小柄な魔法使い風の可愛いおばちゃん。家そのものが異世界への入り口になっている。鮭にこだわりがある。その内主役になりそうだ。


 トトス:千田界に棲む浮遊トースター。焼き加減にはうるさく、情緒が不安定。


 折茂(おりも)さん:謎の女性。千田界の出身で、何でも知っている。現在は地球で普通の(?)主婦をしている。召喚階級は“こんにゃく”→“バジル”→“火の召喚士”。


 ゾクヤケシャ様:炎の塔に棲む火の守護者。まだ登場していないが、非常にエキセントリックな人。


 周東 香澄(しゅうとう・かすみ)

 火属性の召喚者。三人の子どもとともに召喚された異世界ママ。調理魔法と火属性魔物の扱いに長けており、「育児×ダンジョン攻略」という未開ジャンルを開拓中。常に冷静で、誰よりも頼れる存在。戦闘力は低いが、精神力と生活力は最強。


 荻野 香凜(おぎの・かりん)

 20代になったばかりのファッションと火を司る若き召喚者。ゾクヤケシャ様の代理を務める。火の精霊と感情で会話できる特異な才能を持ち、“炎の美学”を大切にしている。焼き魚の哲学には誰よりも真剣


 五十嵐 麗香(いがらし・れいか)

 千田界随一の美貌と技術を持つ料理人。クールで完璧主義だが、内心は熱く情に篤い。鮭に対しては特に強い美学を持つ。

 料理スタイルは「静の炎」。

 決め台詞は「食べる前から料理は始まっている」。


 オヤジさん:千田家の裏庭にいつの間に住み着いた犬

 植木の手入れをしてくれるので、とても有難い。


 ネコムネ・タマ次郎:千田界“毛刃流”最後の継承者。毛づくろいに夢中になりすぎて侵入した者に気が付かないことが多々ある。


 料理泥棒団︰改心し、現在は「精進しつつ美味しい料理探求団(改名:S.J.D)」として更生中。

 質素を極めながらも、美味しさを探求する姿勢は一流で、むしろ今では千田界の味バランスを保つ存在となっていた。

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