「ふわぁ~……」
(今日も疲れたぁ……)
ぐっと伸びをしながら、彼女――荒木ネオは、暗くなった空を見上げた。深い群青色に染まる夜空には、小さな星がぽつり、ぽつりと数少なくも綺麗に輝いている。雲のない、澄んだ夜空。吹き付ける春の夜風が、少し痛く肌を突き刺す。吐き出した息は僅かに白く曇って、吹いた夜風に攫われていった。
(本当、部長の飲み会好きはどうにかならないのかなぁ……)
彼女はつい先刻まで一緒にいた上司達の姿を思い出し、無意識に肩を落とした。ついさっきまでどんちゃん騒ぎをしていた喧騒が鼓膜に張り付いて、未だに頭の中が煩わしい。観念して音楽でも聴こうかと、イヤフォンを探して鞄に手を突っ込むが、残念なことに、そこに目当ての物はなかった。……そういえば昨日、ゲームする時に使って、そのまま寝ちゃったんだっけ。起きたら遅刻寸前だったから、あのまま忘れてきちゃったんだろう。最悪だ。
「あーあ」
自棄になったように落胆を声に出し、肩を落とす。寂しい一人言を拾う人は、ここには誰もいなかった。夜道を歩きながら、やはり思い出すのはついさっきまでの出来事。
飲み会が楽しくないかと言われれば、どちらでもないし、誘われるのも参加するのも、別に構わないのだ。部長が絡み酒であろうが先輩が下戸であろうが、自分にはあまり興味がない。そりゃあストレスは溜まるけれど、自分は新人だし仕方がない……と、思う。彼等の自慢話も愚痴も、最近は上手く聞き流せるようになって来たし。そもそも、そんな些細なことは我慢出来るのだ。我慢出来る、けれど──。
「毎度毎度っ、流行りの曲ばっかり歌わされるのはツラいのよぉ……っ!」
思わず出た本音に、彼女は足を止める。行き交う人々が突然叫び出した彼女に驚いた顔をして、我関せずと言わんばかりに遠巻きに通り過ぎて行った。……そんな周囲の反応は、熱が上がった彼女には全く見えていないのだけれど。ギリ、と握りしめた拳が音を立てる。悔しさが目一杯に心を満たした。
(私が好きなのはアニメソングなのっ! ゲームソングなのぉっ! 流行りの曲ばっかり聴いて覚えて、歌わされて……! しかも本人たち曲名以外よく知らないから微妙な反応だし!? そりゃあ、流行りの曲も嫌いじゃないけど、やっぱりどうせ歌うなら好きな曲歌いたいじゃないっ!)
心の中で暴れる本心が万一にも口をつかないよう、必死に抑え込む。それでも微量の声が漏れているのは、それだけ悔しいからに他ならない。
アニメソングやゲームソングは未だ疎遠にされることが多い。この国は国内外問わず人気な作品も数多く輩出しているはずのアニメ大国なのに、どうしてなのか。否定する人たちの感覚がネオにはわからないが、それをどうこうする気はネオには全くなかった。
彼女自身も曲の元を聞かれれば答えるものの、進んで歌う事も布教することもしない。どんなに『知らない事』をもったいないと思っても、自分の好きなものを他人に押し付けるようなことはしたくないし、人の感じる好き嫌いは大切にするべきだと思う。
でも、たまにはこっちだって好きなものを歌いたいし、思いっきり踊りながら歌ってみたい。下手くそでも何人かで物真似とかして、複数人で盛り上がりたいのだ。──そう、考えれば考えるほど願望は大きくなり、ネオの中で否応なしに肥大化していく。さっきまでの繕った自分が腹立たしくなって仕方がなくなってきた時には、既に感情はキャパシティーを大幅に超えていた。
「あぁ~!もうっ、むしゃくしゃするぅ~!」
バッと手を上にあげ、全力で空を殴り上げる。手応えなんて全くないが、積もり積もったストレスはそんなちっちゃな事でも飛んでいくような気がした。けれど、やはり量が量である分、完全な発散にはなり得なかった。
(明日は休みだし、何処かカラオケでも入って、パーッと発散しようかなぁ!)
一人は寂しいけれど、こうなったら自棄だ。そもそも友達にすらアニメ好きな事を言っていないのだから、簡単に誘うことも出来ないし。しかも、こんな夜に連絡するなんて迷惑以外の何物でもないだろう。
(いっその事、初めて一人カラオケデビューしちゃおうかなぁ)
勇気がなくてずっと入れなかったけれど、この際頑張ってみるのもいいかもしれない。そんな思いが彼女の心を満たした。――その時だった。
──♪♪~♪……。
「……?」
風に乗ってどこからともなく聞こえて来る音色に、自然と体が振り向いた。聞き覚えのあるメロディは存外耳に馴染んだもので。無意識に意識諸共、引き寄せられてしまう。音を頼りにふらりと足を向ければ、そこにはオレンジ色の旗が春の風に靡いていた。
「あにそん、ばー……」
(ヒーロー?)
店の店名……だろうか。秋葉原などでよく見かける女の子キャラクターが描かれた旗を、まじまじと見つめる。
(こんなところにアニソンバーがあったなんて)
都合が良過ぎるのではないか、と自分の運の良さに驚きつつも、周囲を見渡す。狭い通路は少しばかり足を竦ませてしまう。しかし、この先から音が聴こえるのは確かなのだ。
「ど、どうしよう……」
入ってみたい好奇心と、二の足を踏んでしまう自身の心にぽつりと問いかける。――その時だった。通路の扉の一つが重々しく開き、ふとお客さんらしき男性二人組が肩を並べて満足げにしながら通路から出て来たのだ。後ろで店員であろう女性の声と共に、黒い扉が閉まっていくのが見える。ネオは、咄嗟に身を潜め、彼等を凝視した。強かに酔っているらしい彼等は、どこか有頂天な様子で駅の方へと歩いていく。しかし、その表情はキラキラと輝いており、とても眩しく見えた。
(……いいなぁ)
思わず見えなくなるまでその背中を目で追ってしまえば、自分の心は更に引きつけられてしまう。――あの扉の向こうに、一体何があるのか。あまりにも楽しそうに去っていく彼等に、そんな疑問が脳裏を過った。
(……よしっ)
緑と白のコンクリートの壁に挟まれた、少し狭い通路。その先へと、ネオは徐ろに足を踏み出した。抜き足、差し足、忍び足……。出来るだけ音を立てず、先程の扉の前にまでやってくる。……人見知りな彼女にとって、此処まで来るのは相当な勇気がいるのだ。そして、この扉を開けるのには更なる勇気が必要なわけで。
緊張に竦む心を抱えながら、震える手で扉へと手を伸ばした。防音設備のせいだろうか。重く、分厚い扉に、今にも逃げ出したくなってしまう。
「お、お邪魔しまーす……」
か細く口にした声は、開いた隙間から漏れる音にかき消された。――刹那。目の前に広がる光景に、彼女は息を飲んだ。
聴こえてくる音楽。店内に見える見慣れたグッズの数々は、彼女にとってはかなり馴染みのあるものばかり。思いもしていなかった光景に、竦んでいた心は否応なしに高揚する。見開いた蜂蜜色の瞳に輝きが広がっていく。頭の上に括ったツインテールは、興奮にふわりと揺れた。
(あ、あれもこれも! 全部見たことある……。あっ、これ、確か今流行ってるやつだ! こっちは限定版! 凄い……!)
感嘆が胸中を満たし、恐怖心は既に影も形もなかった。興奮に染まる視界で店内を見渡していれば、不意に一人の女の子が駆け寄ってきた。紫がかった青髪をリボンで後ろに一つに束ねたエメラルド色の瞳をした彼女は、メイド服を着てにっこりと可愛らしく微笑んでいる。揺れる髪がまるで長い花びらのように揺れて、とっても可愛らしい。……が、アニソンバーってメイドさんが常駐しているものなのだろうか?
衝撃的な光景にしばし考えてみるが……ネオは考える事を放棄した。彼女はこういった場所に来るのは初めてであった。
「いらっしゃいませ~!」
「あ、あの、一人なんですけど……」
「おひとり様ですね。ご来店ありがとうございます! お席はカウンターで大丈夫ですか?」
「は、はいっ」
にこやかにハキハキと話す店員に、たどたどしくも頷き返せばどうぞと店内へ案内される。彼女の背を追いながら、今度はゆっくりと店内を見渡した。白と黒の壁に、タイルの床。木造の床に合う茶色のテーブルとオレンジ色の椅子が並んでいる。小綺麗でオシャレな店内は、意外にも老若男女問わない人たちがみんなで盛り上がっている。ある人は曲に合いの手を入れたり、ある人は隣の人達と話をしたりと、店内はどこも笑顔に溢れていた。
(すごい熱気……!)
所々で聞き覚えのある単語が飛び交うのを聞きながら、ゆっくりと案内された席へと腰を下ろす。小さな椅子はバーの象徴のようで、ちょっとドキドキとしてしまう。ふと、店員さんがこちらを見つめている事に気が付いた。辺りを見回しているのがバレたのか、店員である彼女はネオに向かってにっこりと笑みを浮かべると、先程と同じようにハキハキと話し始めた。
「このお店は、アニメソングやゲームソングなんかが好きな人たちが集まるお店なんですよ。私もアニメやゲームが大好きで。あっ、私は“ちぐさ”っていいます! 千の種って書いて、千種って読むんです!」
「あっ。えっと、ね、ネオです」
「ネオさんっていうんですね。よろしくお願いします~」
(気さくな店員さんだなぁ)
彼女の愛嬌のある柔らかい笑みと声に、張り詰めていた緊張が緩んでいく。少し視線を下げると、彼女の胸元に書かれたネームプレートを見つけた。平仮名で書かれた、“ちぐさ”という可愛らしい文字が目に入る。手書きなのだろう。ふわふわと花が咲くような雰囲気を飛ばしている彼女──千種に似合った可愛らしい、少し丸くなった文字だ。年の近い女性がいた事に安堵したネオは、度数の低いカクテルを頼むと店の雰囲気に身を任せた。
――そこからは驚くほどスムーズだった。千種から受け取った飲み物を口にしながら振られる話に応えたり、突然マイクを渡されては咄嗟に歌ったり。リクエストに応えて拍手を貰った時は、とてつもなく嬉しかった。彼女が店の雰囲気に馴染むのに、そう時間はかからなかった。
「久しぶりにいっぱい歌ったぁ~!」
マイクを机に置きながら、グッと伸びをする。もう既にここに来る前の喧騒は記憶の片隅にすらなく、この店に染まりきっていた。
(やっぱり好きな曲を思い切り歌えるのは嬉しいな)
次はどんな曲が流れるのだろうか、と胸を躍らせて、カクテルを流し込む。
「ネオさん、お歌上手なんですね!」
「そ、そう? そう言われると嬉しいなぁ」
ぱちぱちと拍手をしながら興奮気味に告げる千種に、思わず顔を赤らめてしまう。「ありがとう」と返せば、次の曲が流れだした。……こんなに手放しで褒められたのは、いつぶりだろうか。接客の為とは言っても、やっぱり少し嬉しくなってしまう。カクテルを流し込み、僅かなアルコールが身体を回るのを感じながら、ふと思う。
(……そういえば)
「千種ちゃんは歌わないの?」
「あ。私、あんまり歌上手じゃなくって……」
「そうなんだ」
しゅん、と悲しそうに肩を落としながらも、小さく笑う千種。カラオケは楽しいのが一番だとは思うものの、無理矢理歌わせるのはなんか違うように思えて、ネオはどう返したらいいのか迷ってしまった。「そんなの気にせず、一緒に歌おうよ!」と声をかけられればいいのだろうけれど、長年培った人見知りがそうはさせてくれない。代わりにと最近のアニメの話を提供すれば、二人でそれはもう盛り上がった。何より千種はリアルタイムで見ているとの事で、その情熱は非常に高かった。そしてそんな充実した時間は呆気なく過ぎていき、気がつけば時計の針は日付を越えていた。終電が近い事を思い出し、ネオは名残惜しくもお会計を口にした。
「それじゃあ、私はそろそろ。また来ますね!」
「はい! お待ちしています~」
千種の声を背に、店を後にする。夜も老けた空を、ぼんやりと見上げる。相変わらず小さな星が爛々と輝いていたが、先程見た時よりも綺麗に輝いているように見えたのは、気のせいだろうか。数時間前よりも清々しい気持ちが胸の中を漂っている。心地いい帰り道は、ここ数年で一番だろう。
「楽しかったなぁ~!」
こんなに楽しんだのは、社会人になって初めてかもしれない。
(また近々行きたいなぁ)
新しい楽しみを見つけたことに心を踊らせながら、ネオは駅の方へと歩き出した。夕方、まだ賑やかだった通りはいつの間にか息を潜め、ゆったりとした時間が流れている。時々、同じように駅を目指す人々が先に行くのを見送りながら、ネオは駅とは反対側へと視線を向けた。
「あ、」
ふと、大きな建物の上部が視界に映る。コンクリートで作られた縦に長い壁は、ドミノのようにバラバラな背丈をして円を作るように建っていた。その中心部には、まるでプラネタリウムのような建物のまあるい上部が見えており、異様な威圧感を持っている。
……ネオが生まれ落ちた時から既にそこに存在していた、“その建物”。名物と言っても過言ではない象徴の一つだが、国民全体の暗黙の了解で“近くには寄らない方がいい”と言われている建物の一つであった。ネオも例外なく、そう教えられている。一体何があるのか。大人は教えてはくれないが、特に気になる物でもなかった。そこに行く予定がある訳でもないし、近くに寄ってみようと思う程の好奇心すら、ネオは持ち合わせていない。結果、その建物は彼女の中で“未知の領域”の一つであった。
しかし、こうも遠目からでも見られるその建物は、思った以上に巨大らしい。無機質でうんともすんとも言いそうにない建物は、遠くからでも人っ子一人、入れそうにない雰囲気を醸し出している。
(確か“エアベース”っていうんだっけ)
――高い、高いコンクリートの壁。まあるい上部すらも、正直趣があるとは言えない。
(ここに居る人達ってきっと、お偉いさんばっかりなんだろうなぁ)
それこそ、ネオ達のような庶民には縁もゆかりも無いくらい。遠い遠い、雲の上の人。それが羨ましいかといえば、特にそうではない。何気なしにそう感じただけだ。あるとすれば『科学の力で、地球のエネルギーを作っている』とか『人体実験をしている』なんていう、噂の真偽の方で。
(……まぁでも、噂は噂だし)
きっと勝手に周囲の人間が尾ひれ背びれを付けて、いつしか話がこんなにも大きくなったのだろう。何かがあるなら、ニュースかなんかで取り上げられるだろうし。そう、自身の中で結論を出したネオは、視線を切って帰路を急ぐことにした。
――ヒュンッ。
「……えっ」
店と店の間。丁度アカセンを抜けようかという寸での場所で、一瞬にして頭上を過ぎった影に、ネオは慌てて上を見上げた。しかし、そこには何も無く、さっきと特に変わらない星空が広がっている。街灯が増えた事で少し見づらくなっているが、それが影の正体になるとは思えない。
「……今の、何だったんだろう」
(何かが飛んで行ったような)
物なのか人なのかは分からないが、結構大きなものだったと思うのだけれど。そう見当をつけ、辺りを見回すが、その“正体”の姿は全く見えない。僅かな疑念は残るものの、今のネオに探し回る気力は残っていない。きっと何かの見間違いだろうと結論付けて、ネオはその場を後にした。