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第2話

 ――それから数日後。ネオは仕事を定時から二時間程遅れて上がると、件のアニソンバーへと足を向けていた。

 丁度開店時間に着くだろう、と当たりを付けながら、電車へと乗り込んだ。


 あれから、もう何度顔を出したか知れないほどに、あの店はネオにとって憩いの場となっていた。幸い、彼女の会社は同じ地域にあるので、店まで行くのにそう時間はかからないのだ。しかも、千種に頼めば、あり合わせで夕食も作ってくれるから、ネオは夕食も兼ねて行く事が多くなっていた。


 空腹に鳴るお腹を押さえながら、ネオは街を歩いて行く。見慣れた道を進み、夕から夜へと姿を変える商店街通り――アカセンに出た。活気のあるお店がずらりと並び、漂ってくる美味しそうな匂いに思わず体が引き寄せられてしまいそうになる。特に美味しいと評判の焼き鳥屋さん『メディアシティ』と、香ばしいパスタとピザの香りがする『メモリーズ』の前を通るときは、つい足が止まりそうになってしまう。……匂いだけでつい、涎が出てきてしまいそうだ。


(少し肌寒いし、おでんだけでも……いやいや、今日はあっちで食べるって決めてるんだから)

 我慢、我慢と心に言い聞かせながら、ネオは引かれる後ろ髪を振り切る勢いで先へ足を進める。先ほどよりも大股になっているのは、自分の自制に自信がなかったからだ。

 ぐぅ、とお腹が音を立てるのを何度も聴きながら、人混みを歩いていく。やっと見えて来た店のオレンジ色の旗に、ネオは僅かに安堵した。これで自分を誘惑するものが無くなる。今日は何があるかな、と期待に胸を膨らませ――――ふと背中に重さが加わった。見知らぬ重みにヒュッと喉が引き攣り、恐怖に固まっていれば急にグッと身体を引かれる。

 その力強さに慌てて自分の鞄を抱き抱えた。


「なぁなぁ、そこの姉ちゃん~」

「ッ!?」


 グラリと眩暈を覚えそうな歪んだ声が聞こえ、ハッとする。

(よ、酔っ払いっ?!)

 突然肩を組んできた男性に、ネオの緊張感が一気に高まった。

 知らない人間に話しかけられるどころか、肩を組まれるなんて展開は微塵も想像していなかったのだから、無理もない。むわりと降りかかる酒臭さに顔を歪める余裕も、今のネオにはなかった。彼女の体は緊張に固まり、男から出来るだけ距離を取ろうと無意識に身を捩った。しかし、彼の力強い手からは逃げることが出来ず、ネオは更なる恐怖に身を竦める。


(だ、誰か……っ!)

 震え出しそうな身体を必死に抑えていれば、男はこちらをじっと見つめると急に含み笑いを浮かべた。

 ひげ面の凶悪な強面に、悲鳴が寸でのところまで飛び出た。


「ふっふっふー」


 ――なんて恐ろしい。浮かべられる笑顔がまるで人間界に降臨してきた悪魔のようだと、ネオは心の中で呟く。間違っても口に出したりはしない。口に出してしまえばその先に待っているのは、自らの死だけだ。……そう思ってしまう程、今の状況はネオにとっては死活問題だった。


(に、逃げないと……っ!)

 必死に動かした指先で、鞄の中を探る。携帯を入れていた内ポケットに手を入れ、薄い機器に指先が触れる。と、同時に男はネオの肩に回していた手に更に力を込めた。バレた、とネオの顔が一瞬にして青褪める。


 ――もう無理だ。


 自分の人生はここで終わりなんだ、と泣きながら内心で両親に言葉を綴り始めた。しかし、そんな彼女の反応もつゆ知らず、男は愉しそうにその軽そうな口元を緩めると、ぱっと彼女を解放した。え、とネオの表情が驚愕に変わる。


「急にすまんなぁ~。けど、アンタめっちゃかわええから、とっておきの情報教えたるわぁ~」

「え、」


 突然の独特な訛りに、ネオの思考が止まる。西の独特なイントネーションは、近年のアニメやゲームの世界ではよく聞くものだったが、まさか目の前の男から飛んでくるとは思わなかったものだった。というより、現状と彼の言葉の意図が全くわからない。

 唖然とするネオに男は彼女の肩をバシバシと叩くと、ニンマリと笑みを浮かべた。ゲームに出てきそうな悪役にぴったりのそれに、ネオは再びヒュッと細い息を吸い込んだ。




 そんじゃ、と手をひらりと空で揺らす男。登場も意味不明であれば言動も意味不明な彼に、ぽつりと残されたネオは二度、三度、瞬きを繰り返した。

 何の変哲もない白いTシャツは、雑に動いたことで少しだけ寄れてしまっている。紫色のジャージのようなズボンに、足元は少し潰れた同色のサンダルを引っかけている。後ろに一つに縛った長い黒い髪はぼさぼさになってしまっているが、不潔さはそう感じさせない。千鳥足でフラフラと遠退いていく背中。……理解しがたい状況にその背中を茫然と見ていれば、彼の体が突如傾いた。

 ガンッと派手な音を立てて、壁に頭をぶつける。周りが騒然となり始めた時点で、ネオはようやく現状を理解した。


 突如鼓膜を叩いた関西弁に驚く間もなく、意味不明な言葉を連ねて去って行った男。その背中を見送りながらも恐怖しかなかったネオは、言われた言葉と目の前で起きている酔っ払いの事件に、ただただ困惑するしかなかった。まるでネタが丸見えだった手品師にでも遭遇した気分だ。

 何が何だか、もうよくわからない。


(と、とりあえずお店に入ろう……)

 気分は僅かに削がれてしまったが、混乱する頭では自身の感情を上手く整理することは出来そうになかった。軽くなったネオの体が新鮮な外気に包まれ、緊張諸共掠め取って行く。酔っ払いの戯言であろう男の言葉を思い出す。


『「最近、この辺じゃ見かけへん奴が出歩いとるから、気ぃつけな」』


(……どういう事なんだろう?)

 気にする必要はないとわかっていても、何となく気になってしまうその言葉にネオは首を傾げた。彼女には男に肩を組まれる理由も、あんな事を言われた理由も、全く見当がつかなかったのだ。言いがかりならまだしも、気を付けろ、とは。忠告にも似たその言葉に、ますます意味が解らなくなり、ネオは早々に考えるのを辞める事にした。どう考えても彼は不審者なのだから、言われた言葉の意味を考えた所で仕方がない。……正直かなり怖かったし。警察に連絡しないだけマシだと思って欲しい。

 ネオは震えた心臓を落ちつけながら踵を返すと、もう慣れた通路へと足を踏み入れた。目前に迫る店の扉を開けば、見慣れた空気が彼女を取り巻いた。はじめの頃よりも、手に持つ扉が軽くなったように感じるのは、彼女が此処に少し馴染んできた証拠だろう。店内へと入れば、カウンターを拭いていた千種と目が合った。


「いらっしゃいませー!」

「こんばんは、千種ちゃん」

「あ、ネオさん! 今日も来てくださったんですね!」


 にっこりと笑みを浮かべる千種に、ネオも釣られて笑顔になる。相変わらず、花咲くようなふんわりとした雰囲気を纏う彼女に案内され、ネオはカウンターに腰を下ろした。直ぐに出されるお手拭きを手に取り、メニューを手にしようとして、はたと思い至る。

(……あの人の事、一応報告したほうがいいかもしれない)

 お店の近くだったし、もしかしたらこのお店のお客さんかもしれない。そう考えたネオは、店内に視線を巡らせると、レジの近くに立っているマスターに目を向けた。


 すると丁度煙草を口に添えていたらしいマスターが、ぎくりと肩を震わせた。マスターはどうやら喫煙者だったようで、ネオの視線を追いかけた千種が目敏くその姿を見つけると、じっと見つめた。その視線にマスターが苦笑いを零し、火を付け損ねた煙草が彼の持つ草臥れた箱へと収められる。……どうやら禁煙でもしているようだ。こっそりとした楽しみを奪ってしまった様で、ネオは少々申し訳なく思った。

(何かすみません、マスター)


「いらっしゃい。何かあったのかい?」

「あ、こんばんは。えっと……お店の前でなんですけど、さっき変な人を見かけまして」

「“変な人”?」


 こっそりと煙草の箱を胸裏のポケットに仕舞いながら声をかけてくるマスターに、ネオが躊躇いがちに口を開く。“変な人”という言葉に彼は首を傾げた後、心配そうに眉を下げた。


「絡まれなかった? 大丈夫だったかい?」

「あ、は、はい。特には……」

「そう。良かった」


 真剣な目線で問われ、ネオは慌てて頷く。まさかそんなに心配してくれるとは。完全に彼女の予想外だった。

 マスターはネオの言葉にホッと息を吐くと、視線を外の窓へと向けた。爛々と照らされる夜道を歩く人々を目に映しながら、何かを思うように目を細める。そして数秒後、ハッとしたようにネオに向き直った。まるで何かを思い出したような表情に、今度はネオが驚く。


「一応聞くけど、どんな人だったんだい?」

「え? えっと……髭の生えた三十代後半くらいのおじさんで、後ろで髪を結んでました」

「……もしかして、関西弁だった?」

「あ、はい。吃驚して、あんまり覚えてないですけど、たぶん」

「関西弁の髭面……アイツか」


 ネオの上げた特徴に、大きくため息を吐き頭を抱えたマスターが、苦々しい顔で呟いた。……そういえば此処のマスターとあの男は、同年代くらいだろうか。


「お知り合い、とかですか?」

「あー、知り合いっつーか……まあよくこの辺をうろついているから、顔だけは知ってる程度だよ」

「そうなんですね」


 へえ、と感嘆の息を漏らせば、ニコニコと笑みを浮かべている千種と目が合った。その雰囲気に、彼女自身も面識があるのだろうと思い至る。

(この周辺に居たっていうし、もしかしてお客さんだったのかな?)


「千種ちゃんも会ったことがあるの?」

「はい。あの方は酒飲みで有名ですから……。うちにもたまにいらしてましたし」

「ギャンブル好きのクソオヤジらしいけどな」

「ジュエルのママさん、凄い剣幕でしたもんね」

「あははは……」


 マスターの言葉に千種がにっこりと笑みを浮かべる。どうやらその“ジュエルのママさん”に、かなりの迷惑をかけたらしい。その反応にネオが苦笑いを零す。


 思った以上にあの男性に対して容赦がない言葉の数々に、男性が色々な意味での有名人である事を察する。何をしたのか、少しばかり気になったが、ネオは千種の笑みを思い出して好奇心を呑み込んだ。ひっそりと黒い笑みを浮かべる彼女は、きっと例の男性をあまりよく思っていないのだろう。……ネオとて、下手に藪をつついて蛇を出したくはない。黙っているが吉、だ。


 千種はネオが引き攣る笑みを浮かべていたことに気づいたのか、瞬きを繰り返すといつも通りの柔らかい笑みを浮かべた。いつの間にか持って来ていたおしぼりとコースターを、ネオの前に置く。


「まあでも。そんな危険な人じゃないので、あんまり気にしないでください」

「そ、そうなんだ? じゃあ、今もたまにこのお店にも来るの?」

「先月出禁になりましたよ」

「本当に大丈夫なのっ!?」

「あははは~」


 崩れない、千種の和やかな笑みに、ネオは違う意味で心配になって来た。

(嘘でしょ……!?)

 そう思っても、訂正の言葉は千種どころか、マスターからさえも出てこなかった。つまり、出禁になったというのは冗談でも何でもない、事実なのだろう。……“出禁”なんて言葉は社会人になってからよく聞く事があるものの、実際に誰かがなっているのは見た事がない。それほどレアなものだと思っていたし、今でも思っている。……一体何をしたんだろうか、あの人は。そんな不安を振り切るように、ネオは千種に夕食のパスタとカクテルを注文することにした。笑顔で注文を持ち、去っていく彼女を見送って今度こそ煙草に火をつけたマスター。ぷかりと煙を宙に吐き出すと、彼は徐ろに言葉を口にする。


「まぁ、何かあったら遠慮なく警察を呼んでね。無理だったら俺に相談して。警察に話しとくから」

「だ、大丈夫ですよ! 肩組まれたくらいですし、そんなっ、!」

「良し。今すぐ通報しよう」


 即座に携帯を取り出してニッコリと笑みを浮かべるマスターに、ネオは自分が見事に彼の地雷を踏み抜いてしまった事を悟った。……触らぬ神に祟りなし。ネオはそう呟くと、携帯を弄るマスターから視線を逸らした。千種が持って来てくれたカクテルに手を伸ばす。


 カシスと烏龍茶が混ざり合った濃い色をぼんやりと見ながら、ぐるりと店内を見回す。夕食時という事もあってか、料理を頼んでいる人が多い気がする。とはいえ、やはりバーと名目を打っているからか、早い時間である今日はいつもより人が疎らだ。確かに周りに居酒屋やお食事処が多いので、ここに来るのはもう少し時間が経ってからになるだろう。

(でも、明日は仕事あるし……)

 流石に長居は出来ないな、と自分の滞在時間を決めながら、ネオは自分の携帯を取り出してSNSを開いた。最新の情報が飛び交う中、自分の興味がある物だけをピックアップしていく。

(あ、この新作のゲーム面白そう。へえ、アニメ化もするんだぁ。要チェックしなきゃ)


「ねえ、そこのアンタ」

「きゃっ?!」

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