突然後ろから話しかけられ、思わず飛び上がってしまう。
落としかけた携帯を寸での所でキャッチして慌てて振り向けば、目の前でゆらりと海のような色をした髪が揺れた。見慣れない色に、意識が止まる。
長い髪の持ち主を見上げれば、赤いハイネックに紺色のスーツのような服を着た女性と目が合った。
キリリとした目をした彼女は、ネオを見下ろしたまま立っている。膝上のタイトスカートが彼女のスタイルの良さを出していた。――完全に光の属性だ。根暗とは程遠い、まるでどこかのアニメのヒロインにでも抜擢されそうな人だ。
惜しげもなく漂う『これぞ出来る女!』という強いオーラに、残念ながら一般人であるネオは一瞬にして挙動不審になった。人見知りを甘く見ないで欲しい。
「え、ええっと、」
「あたしはアイル。天王慈アイルよ。アンタ、名前は?」
「えっ、あ、ね、ネオですっ」
「苗字から」
「あ、荒木ネオですぅ……!」
言葉の端々から強い圧力を放つ女性――天王慈 アイル(てんのうじ あいる)のオーラに、ネオはもう泣きそうだった。
(さ、逆らえない……!)
さっきの事といい今といい、どうして今日はこんなに絡まれるのか。強面の悪魔に、強気のヒロイン。……両方とも疑いようもない強キャラだ。どちらにせよしんどい事には変わりなかった。彼女の威圧感に涙で歪む、視界。困惑と混乱にぷるぷると震えていれば、パスタを作り終えたであろう千種がお皿を手に運んできてくれた。
ことりと置かれた料理に、強制的に沈黙が切れる。グッドタイミングな彼女に、縋りたくなる気持ちを抑え込み、ネオは「ありがとう」と礼を口にした。
しかし、千種は逆にネオの様子とアイルの姿に混乱しているようだった。客なのか、ネオに何か用があって来ただけなのか。そんな困惑が伝わったのか、アイルはネオの隣に腰を下ろすと、千種に視線を向けた。問答無用だと言わんばかりの行動に、ネオも千種も目を瞠る。
「あ、えっと……おしぼり等、お持ちしますね」
「あたし、お酒駄目なんだけど、何かソフトドリンクとかないかしら?」
「あ、はい。ありますけど……」
「それじゃあ、適当にお願い出来る?」
「は、はいっ! かしこまりました!」
アイルの言葉に千種は圧倒されたのか、早々にぺこりとお辞儀をすると小走りで走り去ってしまった。目の前に置かれたお皿を見つめ、ネオは息を飲む。
(こ、これは……!)
「某杜の都にある、“不思議なイタリアン料理店”に出てくるやつ……!」
「……何よ、その長い名前」
「アイルちゃん知らないの!? 名作に出てくる天才シェフが作った料理だよ!」
「へ、へぇ。そう」
(まさか実物が見れるなんて……!)
確かに実際に現物があるとは聞いていたけれど、それを取り扱っているお店に今まで出会えたことがなかったのだ。甘く煮詰められたトマトの香りがオリーブの匂いに包まれ、漂ってくる。上に乗っているツナとアンチョビが証明に照らされ、キラキラと光っている。盛り付け方も、完璧だ。
山の頂点からたらりとソースが流れ落ちてパスタの中へと入っていくのを、ネオはどこか別の世界の事のように見つめていた。だが、良い匂いに込み上げてくる食欲が喉を鳴らし、空腹が刺激される。――しかし、隣には自身の客人らしい人物。ここで齧り付くなんて失礼なことはできないだろう。
伸びそうな手を抑えつつ、隣から感じる視線にネオは恐る恐る問いかけた。
「そ、それでえっと。わ、私何かしちゃいました……?」
「食べながらでいいわよ」
「アッ、ハイ」
ピシャリと言い放たれた言葉に甘んじて、反射的にフォークを持つ。人の話を聞きながら食べるなんて通常ならするべきではないのだろうが、彼女が良いというのならそれでいいのだろう。
いただきますと両手を合わせて、パスタにフォークを突き刺した。柔らかい麺がクルクルとフォークに巻かれていくのを見て、少しだけ現実世界に帰って来たような気がした。そんな心境に気づいたのか、アイルはネオから視線を外すと、言葉を紡いだ。
「アンタ、あの場所に居たでしょ?」
「あの場所?」
「二週間くらい前の話よ。エアベースが見える所」
(エア、ベースの……)
アイルの言葉を頭の中で反芻して、二週間前の記憶を思い出す。……確かに通った気がするが、“近く”と言われるほど近場だっただろうか。そもそもあの建物が大き過ぎるので、“見える所“と言われてもかなりの広範囲な気がする。彼女の案外曖昧な言葉に、ネオは眉を下げた。
「確かに見ましたけど……でも、そんなに近くなかったと思いますよ。ええと、何かありましたか?」
「別に。気になっただけよ」
「えぇぇ……」
無意味に聞かれたかと思えば、フイッと視線を逸らされ、思わず不満そうな声を上げてしまう。子供みたいかもしれないが、それよりも今現在起きた出来事の理由がわからなかった。
(何か……変な人、かも)
フォークに巻き付けたパスタを口に運ぶ。バターがしっかり絡まっていて、酸味のあるソースと一緒に口内を満たしていく。ほふ、と熱い息を吐けば、トマトの甘味が口内に広がっていった。これは……凄く美味しい。
偶然材料があったからと受けてくれたけれど、メニュー化してくれればいいのにとネオは胸中で呟いた。しばらく咀嚼してこくりと飲み込む。横にいるアイルを盗み見て、お皿へと視線を戻した。……しっかし。
(すっごい綺麗な人だなぁ……)
顔もびっくりするほど整っているし、スタイルもいい。携帯を弄る爪もネイルはしていないものの、磨かれていて綺麗だし、髪もちゃんと艶があって手入れがされているのがわかる。貴重な時間とお金と努力をかけて仕上げられた完璧な姿に、ネオは知らず知らずのうちに目が離せなくなっていた。……ああ、羨ましい。
「何?」
「あ、い、いえっ」
「何よ。気になるじゃない」
じっと見すぎたのか、アイルに眉を寄せて不機嫌そうに問いかけられた。ネオが慌てて首を振るが効果はなく、逆に強引に距離を縮められてしまう。目と鼻の先に見える端正な顔に、ひくりと口元が引き攣った。――……美形は近くで見ると何とも言えない迫力がある。少し視線をずらしつつ、逃げられない状況下に心臓を震わせた。……悪いことを考えていた訳ではないとはいえ、やはり色々と勝手に人を評価するのは失礼になるだろう。あまり自分の容姿に触れられたくない人もいるだろうし。けれど、他に上手い言い訳が思いつかないのも事実だった。怒られるのを覚悟しつつ、ネオはゆっくりと言葉を選びながら口にする。
「あ、あのっ、えっと……か、かわいいなぁって、思って」
「は?」
「す、すみません、ジロジロと勝手に。ごめんなさい」
アイルの一言にネオは一瞬にして謝罪を口にした。ペコペコと何度も頭を下げ、少しでも怒られないようにと願っていれば、ふと彼女の反応が全くない事に気がついた。目の前から感じる、硬い雰囲気に今度こそ泣きそうになる。
(そ、そんなに怒らせちゃったのかな……)
ついさっき聞いたばかりの“出禁”という言葉がネオの脳裏を過ぎる。……それだけは嫌だ。出禁なんてされたら、それこそ一日中泣く自信がある。
目下の楽しみが無くなるのは、どうしても回避したい。込み上げる恐怖に苛まれながら、ゆるゆると視線を上げていく。だんまりなままの彼女を盗み見て――ネオは制止した。
「な、何言ってるのよっ」
ハッとした彼女が慌てて取り繕うような言葉を吐き捨てるが、もう遅かった。ほんのりと赤い頬に、ネオの心が高揚する。指を膝の上で合わせるアイル。怒られることしか考えていなかったネオは、彼女の意外な反応に面食らってしまった。
(も、もしかして、照れてる……?)
「ふ、ふふっ」
「何笑ってるのよ」
「ううん。私、アイルちゃんの事、もっと怖い人なのかなって思ってたから……」
「どんなイメージよ」
「えっと……“デキる美人キャリアウーマン”?」
「まあ。否定はしないわ」
交わされる会話に、再び視線を逸らされる。直ぐに機嫌を悪くさせてしまったかと心配になったが、少し尖った口元に、彼女が拗ねているだけだと理解する。……存外、彼女は愛らしい反応をするようだ。本人は無意識かもしれないけれど。
堪らずクスリと笑みを零せば、キッと鋭い視線が飛んできた。慌てて笑みを引っ込めて、再びパスタを食べ始める。その間に千種がアイルの頼んだ飲み物を持ってきた。どうやら考えに考え抜いた末、無難なお茶にしたらしい。
緑茶をきゅっと飲みつつ、彼女は何か千種に注文すると、そのまま無言で携帯端末を弄り始めた。黙々とした時間が流れ始める。
(……あれ)
さっきの勢いは何処へやら。一気に静かになった彼女に、ネオは首を傾げた。少しだけ仲良くなれたと思っていたのだけれど、どうやら気のせいだったらしい。最初のインパクトがインパクトだっただけに、彼女の動向が気になってしまう。ネオは最後の一口をしっかりと飲み込むと、ご馳走様でしたと両手を合わせてアイルを振り返った。
未だ端末を弄る彼女に、ネオは視線を宙に投げた。必死に話題を探す。……こういう所が彼女をお人好しと言わせる要因なのだが、本人は全く気づいていない。
「えーっと、アイルちゃんは何の歌が好きなの?」
「歌?」
「うん。アニソンとか、ゲーソンとか。好きなんでしょ?」
「……まあ、嫌いじゃないけれど」
パタン、と伏せて置かれる端末。あまり気乗りしていないのか、先程よりも小さな声。しかし無視されていないという事は、多少は興味を引いていると思ってもいいだろう。向けられるルビー色の瞳を見つめ返せば、僅かにその瞳が泳いだ。少し申し訳なさそうな視線は、単純に”好き“というには少し不安定なように見える。
(どうしたんだろう?)
「“けど”?」
首を傾げ、言葉を反芻することで問い掛ける。苦い顔をしたアイルは逡巡の後、諦めたようにため息をついた。それは何時しか見た覚えのある表情をしており――。
「……アタシ、苦手なのよ。歌うの」
「えっ!? そうなの?!」
返された言葉に瞬きを繰り返す。
(何でも出来そうだと思ってたのに……っ!)
まさか歌うのが苦手だったなんて、完全に予想外だった。驚愕に声を上げるネオに、アイルは不機嫌そうに口元を尖らせた。頬杖をついて、睨むように目を細める。その視線に思わずヒュッと喉が引き攣った。……美人の不機嫌顔は本当に心臓に悪い。
怒られる前にとパチリと両手を合わせて、ネオは頭を下げた。あまりの勢いの良さに今度はアイルが細めた目を見開く番だった。
「ごめんね、アイルちゃん!」
「別に、気にしてないわよ」
「でも……」
「そんなに言うなら、お詫びとしてこれを歌ってくれればいいわ」
「えっ?」
「歌、上手いんでしょう?」
突然の切り返しに、ネオは思わず声を上げた。一体何がどうしてそうなるのか。混乱が頭を占める中、機嫌が直ってきたらしいアイルが「さっき千種から聞いたわ」と付け加え、更に驚く。……まさか自分の知らぬ間にそんな事が伝えられていたなんて。
別に隠していた訳では無いものの、こうも大っぴらにされたら恥ずかしくて仕方がない。しかし、アイルの案を突っ返せる勇気は、ネオにはなかった。
怖々とした気持ちを抱えながら、アイルから差し出されたデンモクを覗き込む。いつの間に検索をかけたのか。そこに書かれた文字は、自分からしても親しみがあるものだった。寧ろカラオケに行けばよく歌うような曲。自身の反応から察してか、アイルは満足げに笑うと迷うことのない手つきで曲を転送した。
ピピッと音が鳴り、転送完了の文字がデンモクに表示される。……ここまで来たらもう逃げられない。千種から渡されるマイクを手に取り、気を取り直す。――こうなればもう自棄だ。
「お、お粗末様でした……」
「何言ってんのよ。悪くなかったわよ」
歌いきってマイクを置いたネオは、流れるように頭を下げた。しかし、彼女からかけられた言葉は存外優しいもので。軽い拍手をするアイルに、ネオは心の底から安堵した。
初めて見たアイルの笑みは彼女の端正な顔を存分に発揮しており、こちらが照れてしまう。それからはアイルがリクエストし、ネオが歌う、という構図が繰り広げられた。デュエットソングの際にマイクを握らされたアイルが嫌々そうに口を開いた瞬間、あの千種が驚きにグラスを落とすという事故があったが、それは今は置いておこう。
そんな楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、気が付けば予定よりも大幅に遅れた時間が目についた。
「やばっ、もうこんな時間っ! ごめんね、アイルちゃん。私、先帰るね!」
「そう。気をつけて」
「また話そうね!」
ネオはそう告げると、千種にお会計を頼んで慌ただしく店を後にした。
人混みを駆け抜ける。少し冷えた空気が火照る頬をゆったりと撫でる。――ふと、人ごみの向こう。入り組んだ路地に一際高い背をした男性の後ろ姿が見えた気がして、思わず立ち止まり、振り返る。
……背の高い人はよく見かけるけれど、あんなに綺麗な赤髪は見た事がない。生まれてこの方、髪を染めたことの無いネオはそれに感心しながらも終電時間が刻々と迫っていることを思い出して、再び歩き出した。早歩きで駅に向かえばギリギリ滑り込む事が出来た。
規則的に揺れる電車に揺られながら、ネオは空を見つめる。相も変わらず無機質な壁に囲まれたドームが、爛々と光る野外ライトに照らされていた。