「そんな事が、あるんですねぇ」
私はそう呟きながら、パソコンのモニターに映る牧野百合絵さん(仮名40代)の顔を見つめた。
彼女は、SNSを経由して私に体験談を送ってくれたのですが、その内容が興味深いものでした。
直接、詳しい話を聞いてみたくなった私は、何とかお願いしてリモート取材をさせてもらったのです。
北陸地方のとある山中。杉の木に囲まれた小さな集落の外れに、一軒だけポツンと建つ大きな屋敷があります。今回紹介するのは、その屋敷で起こった彼女の体験です。
牧野さんは地元の家政婦紹介所に勤めておりました。
そんなある日、紹介所より仕事の依頼があったそうです。
「A子様邸に、来週からお願いできますか?」
紹介所の担当者が言った「A子様」は、八十代の女性で、長年息子さんと二人で暮らしていました。
しかし、息子さんが仕事の都合で、東海地方の支社へ半年ほど出向することになり、一人になる母親の世話役として家政婦を依頼してきたそうです。
「山奥で不便ですが、お屋敷は綺麗だし、A子さんは優しい方ですよ」
担当者の言葉通り、A子さんは人当たりがよく、朗らかな笑顔を浮かべては「今日はありがとうね」と牧野さんに声をかけてくれました。
古い造りながらも、その屋敷の内部はきちんと手入れされていて、木の床は磨き上げられ、障子の紙も新しいものに張り替えられていたそうです。
基本的に牧野さんは、月曜日から金曜日の8時~20時までが 勤務時間で、土日は別の家政婦さんが担当する事になってました。
勤務が始まって一ヶ月ほど経った金曜の夜。業務を終えた牧野さんは、A子さんと居間で談笑しながら、淹れたての煎茶をすすっていました。
夜の屋敷は静かで虫の音さえ遠く、聞こえてくるのは時計の針の音だけでした。けれど、19時45分を回った頃です。
〝カーン〟……〝カーン〟……
突然、2階の方角から、金属を叩くような乾いた音がしました。
驚いた牧野さんは、ビクリと肩を動かしたそうです。
まるで、鍋の底を棒で叩いているような、不規則な音。その響きはどこか湿っていて、乾いた鉄よりも、ぬめりのある金属を連想させる音だったといいます。
「今、2階から何か聞こえませんでした?」
牧野さんは、A子さんに尋ねましたが、彼女は笑いながら首を振りました。
「聞こえないねえ。私も耳が遠いから」
しかし、牧野さんには、その笑顔が、どこか作り物のような硬さが滲んで見えたのです。
「多分、ネズミか何かだと思いますけど見てきますね」
本当は怖かったのですが、責任感が強い牧野さんは重たい足取りで二階へ向かいました。
階段を上がるたび、足元の板が小さく軋みます。金属音(?)がしていた方の部屋——息子さんが使っていたという洋間の前に立つと、それまで甲高く響いていた音は、かすかな余韻のような「カン……カン……」という音へと変わっていました。
それは、まるで〝誰か〟が遠ざかるように打ち続けているか、あるいは打っていた〝存在そのもの〟が、今まさに、この世界から消滅していこうとしているかのような、ひどく細く頼りない音に聞こえました。
「まだ、鳴ってる……」
彼女は息をひそめ、耳を澄ませました。ドアの向こうから、かろうじて微かな金属の打音が聴こえていました。
しかし、それは風がどこかで何かを鳴らしているようにも思えたし、鼓膜の奥で自分の記憶が響かせているだけのようにも感じられました。
胸の奥で鼓動が高鳴る。
(もし、本当に誰かが、中にいるのだとしたら?)
躊躇う指先を無理やり動かして、彼女はドアノブに手をかけました。
〝ギィ〟と扉を押し開けた……瞬間、音はピタリと止んだのです。
部屋の中は静まり返っていました。
人の気配はどこにもありません。窓は閉まっており、カーテンも揺れていませんでした。
けれど、確かに、ドアを開ける直前まで〝あの音〟は、この部屋の奥から聞こえていたはずでした。
その不自然な沈黙と空白が、逆に牧野さんを怯えさせました。
(誰かが、ここにいた?)
そう思って視線を室内の隅々まで巡らせるが、家具の配置も乱れておらず、特に変わった様子はありません。
唯一の違和感としては、足元のフローリングが異様に冷たく、妙に湿っている気がしたそうです。
(きっと風が何かを揺らしたのかも)と、強引に自分に言い聞かせながら、彼女は静かにその部屋を後にしました。
その後、A子さんは「帰っていいよ」と言ったが、彼女の後ろ姿は、なぜか仄かに震えていたように見えたといいます。
(もしかして、A子さんには〝あの音〟が聞こえてたんじゃないのかしら?)
牧野さんは、そう思いましたが、確証は得られませんでした。
それからしばらく経った頃、土日の担当であるベテランの家政婦が体調不良となり、新人のB子さん(仮名)が、ヘルプで来ることになりました。
しかし、紹介所からの指示で、心許ない新人のフォローとして、牧野さんもその週末に屋敷へ赴くことになりました。
日も暮れた土曜の18時頃。Aさんは検査入院で病院に泊まることになり、B子さんは付き添いとして、迎えの看護師達と一緒に屋敷を出ていきました。
牧野さんは、応接間の掃除をしていました。
蝋燭のような古いスタンドライトが灯る部屋には、木の家具がきちんと並び、棚の上にはA子さんの亡くなった旦那様の若かりし頃と思しき写真立てが飾られていた。
その時です。
「お茶入れたから、こっち来てー」
いきなり、居間の方から若い女の声がしました。明るく、そしてどこか抑揚が古風に聞こえたそうです。
彼女は、思わず「すぐ行くから、待ってて」と反射的に返しました。
が、次の瞬間〝ある事〟に気づきました。
A子さんは病院。B子さんも付き添って出て行ったきり。屋敷の中には、確実に〝誰もいない〟のです。
応接間の空気が一気に冷たくなるのを感じました。猛吹雪のような、刺すような寒気が皮膚に纏わりついたそうです。
そして、再び居間のほうから声がしました。
「まだなの!?今、そっちに行くからね!!」
——その声は、さっきよりも明らかに強く、どこか苛立ったような調子に聞こえました。
まるで、彼女の返事を待たずに動き出したかのように、足音はしないのに、声だけがジワリと近づいてきます。
その〝何か〟は、もうドアの向こうまで来ている気がしました。
「……足が勝手に動いてました。応接間の窓から靴も履かずに、走って逃げて」
その後、牧野さんは、屋敷の玄関先でB子さんが帰るのを待ち、戻ってきた彼女に震えながら事情を説明したと語ってくれました。
警察が呼ばれ、お巡りさんが屋敷中を調べたが、侵入者の形跡はなかったとのことです。
ただ、居間のテーブルの上に、一客だけ湯呑が置かれていました。温かさは既に失われていましたが、うっすらと茶渋が残っていました。
それは、誰が飲んだものだったのか?
不可解なのは、その湯呑は牧野さんはもちろん、B子さんも出した覚えが無いという事でした。
翌週の月曜日。牧野さんは「急に身内の介護をすることになった」と嘘を言って、強引に紹介所を辞めたそうです。
そこまで話し終えた牧野さんは、私にこう言った。
「あの時、〝私を呼ぶ声〟を聞いてなければ、まだ家政婦を続けてたかもしれません。もしも、応接間に声の主が来るまで残っていたとしたら、私は、〝この世〟にいられなかった気がするんです。自分の存在全部を〝あの世〟に持っていかれてたんじゃないか?って。今でも思い出すと背筋がゾッとします」
山に囲まれたA子さんの屋敷では、今も〝得体の知れない誰か〟が「お茶入れたよ」と声をかけているのかもしれません。