友人から紹介されたDさん(仮名30代男性)を取材した話です。
彼は、製造関係の某大手企業の営業部で働いており、東南アジアを中心に海外出張に行く事も多いそうです。
そんなある日、ベトナム・ホーチミン市へと向かうことになりました。現地の企業と打ち合わせを済ませた後、一泊する予定でいました。
会社からは「宿泊費は上限までならどこを選んでも構わない」と言われており、彼は日本から出発する前に、ネットで‶とあるホテル〟を予約しました。
画面に映るそのホテルは、外観は金の装飾にガラス張りのファサード。ロビーはまばゆいシャンデリアに彩られ、高級感と清潔感が漂っている。更に、3~5つ星といった高評価がいくつも並び、何より料金が予算内だったことが決め手でした。
「これなら疲れも癒せそうだな」と、彼は小さく頷きました。
しかし、予約サイトのページには、ひとつだけ妙なことが引っかかったそうです。
どれだけ下にスクロールしても、日本語のレビューだけが一件も見当たりませんでした。
(まあ、たまたま日本人がいないだけか)
深く考えず、彼はそのホテルを予約しました。
ホーチミン市内の日中は湿気を含んだ風が、バイクの排気と一緒に肌に纏わりついてくるそうです。
街の至る所でクラクションが鳴り、建設中のビル群の間を無数のバイクが縫うように走っていました。
しかし、彼の宿泊するホテルは、その喧騒から少し外れた古いエリアにありました。
タクシーを降りた彼の目の前にあるのは確かに写真通りの荘厳な建物でした。外壁は金色に塗られ、ガラス張りのエントランスが太陽を反射してまぶしく光っています。
けれども、なぜか玄関先から妙な匂いを感じました。
風に乗って漂ってきたのは、まるでプラスチックを溶かしたような鼻に残る刺激臭でした。
Dさんは、思わず立ち止まり深呼吸しました。すると、一瞬のうちにその匂いは風とともに消えてしまったそうです。
フロントでチェックインを済ませ、彼はエレベーターで宿泊階へと向かった。
〝ゴン〟という金属音と共に扉が開いたが、降りた先の廊下は思いのほか、静か……
天井の照明は点いているのですが、まるで霧の中にいるように光が拡散して、廊下の先が霞んで見えます。
歩く足音も、衣擦れも、壁に吸い込まれるように響かない。耳が詰まったような閉塞感がありました。
そして、廊下の空気は妙に重く、Dさんの足は次第に重たくなります。
部屋に入った瞬間、その〝重さ〟は、さらに強くなったそうです。
じっとりと湿ったベッド、薄暗い照明。身体を横たえると、シーツが微かに波打つような感触がありました。
(虫でも入ってるのか?)
掛け布団の下を確認しても何もいない。ただ、背中にはいつまでも布の下からじわりと伝わるムズムズした感触が残っていたのです。
空調は稼働しているはずなのに、室内のジトッと肌に纏わりつく熱気が抜けません。
(もう寝るか)
身体は仕事の疲労で重く、早々にベッドに横になったDさんは、エアコンの微かな唸り音を子守唄に、いつしか眠りに落ちました……。
深夜。喉が焼けるように渇き、彼は目を覚ましました。
全身が汗でぐっしょりと濡れていました。
(暑い!空調が壊れてるのか?)
汗が肌を這う感覚が気持ち悪く、彼はふらつく足でバスルームへ向かいました。
電気を点けると、白い蛍光灯が一瞬点滅してから明るさを取り戻します。
顔を洗おうと、蛇口を捻ったその時!
〝バシャッ〟
ヌルヌルとした赤黒い液体が飛び出しました。
滴る音は〝水〟ではなく、どこか濃度のある〝ドロッ〟とした音だったといいます。
Dさんは、反射的に顔を反らしたのですが、唇の端にかすかに触れた〝その液体〟からは、血のような鉄と苦味が入り混じった味がしました。
「……っ!」
思わず液体を吐き出し、鏡を見た瞬間、
〝コン〟……〝カン〟〝カン〟!
鈍くて低く、鼓膜の裏をノックされているような感触だったそうです。
その音に含まれる振動に、背骨の芯が冷たく凍るような感覚が走りました。
その時のDさんは、全身に冷や汗をかいていたそうです。目眩を感じながら鏡をじっと見つめると、内側の〝曇りガラスの奥〟に、うっすらと女のような影が見えたような気がしました。
気づけば、彼は部屋を飛び出していました。
ホテルの廊下は、なぜか照明が一つも点いていない完全な〝無音の闇〟でした。
(フロントへ逃げなきゃ!)
Dさんは、壁を手で探りながら、エレベーターの場所を思い出そうとしました。
しかし、いつまで歩いても、角を曲がっても、目的の場所に辿り着けません。
ふと気づくと、床が僅かに傾いているような気がしました。
歩いているのに、身体が引っ張られているような地面が緩やかに〝沈んで〟いくような錯覚。
そして、その時でした。
後ろから、かすかな衣擦れの音が聞こえてきます。
耳を澄ますと〝それは〟一定のリズムで近づいてくるのです!
彼が、ゆっくりと振り返ると、そこには青白いヒトガタの光がありました。
その光を纏うように、日本の死装束を連想させるような服装の長い黒髪の女が、無表情で立っていました。
その女は、ゆっくりと、しかし確実に彼のほうへと歩いてきます。
奇妙な事に、女からは足音がしないのです。よく見ると足元が床と接していないようでした。
Dさんは一目散に逃げ出そうとしました。
しかし、体が動きません!
足首に〝冷たい指のような〟感触がしました。
ゆっくりと足元を見ると、そこには、彼の腰に両腕を絡めてしがみつく、もう一人の青白く光るボロボロの服を着た女がいたのです。
もう一人の女の指は、氷のように冷たく、その顔は泥のように崩れ、瞳が穴のように空いていたといいます。
そこで、彼の記憶は、ぷつりと途絶えました。
……気がつけば、Dさんは廊下に寝転んでいました。
照明は、ボンヤリと点いており、周囲に誰の姿もありません。
部屋に戻った彼は、朝まで一睡もできずに震えていたそうです。
後日。
取引先のベトナム人男性と食事の場で、Dさんは恐る恐るあのホテルの話をしました。
すると、相手の表情が強張ったのが分かりました。
「あそこは……あまり、泊まるべき場所じゃないですよ」
「どうしてですか?」
「昔、建設中に何人も事故や過労で亡くなったと聞きました。その原因は、よく分かっていないらしいです」
言葉を濁す彼の目は、どこか遠くを見てるようでした。
この出来事から数日後。何故かDさんの足首に、爪跡のような赤い痣が、突然出来ました。
特に痛みは感じませんでしたが、2ヶ月くらい消えなかったそうです……。