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誇り高き ~婚約破棄から始まる愛の物語~
誇り高き ~婚約破棄から始まる愛の物語~
ゆる
恋愛現代恋愛
2025年05月25日
公開日
4.5万字
完結済
「クライスフィールド伯爵家令嬢との婚約は破棄する。私はこの平民の娘と結婚する」 社交界の華と称されていた令嬢・エヴァリナは、婚約者である侯爵家の次男・レオナルドから突然の婚約破棄を言い渡され、公衆の面前で辱められる。 だが、その裏には彼女の家を没落させようとする陰謀があった――。 失意の中、田舎の別荘で出会ったのは、王宮勤めの下級貴族・アレクシス。 彼との出会いが、エヴァリナの運命を大きく動かしていく。 家族を守るため、名誉を取り戻すため、そして自らの未来を切り開くため。 誇り高き花は、逆境を越え再び咲き誇る――。 裏切った元婚約者には華麗なる“ざまぁ”を。 そして彼女に訪れるのは、誠実な愛と、本当の幸せ。 婚約破棄から始まる逆転恋愛劇、ここに開幕。

第1話 裏切りの夜

 王都の夜は、貴族たちの華やかな宴によって彩られていた。街を行き交う人々のざわめきは昼間の活気とはまた違った趣を帯びており、貴族や裕福な商家の馬車が石畳の道を行き交うたび、ランタンの明かりに照らされた車輪がきらめく。王宮近くにある社交界の中心地、グラン・サロンと呼ばれる華やかな大広間は今宵も多くの貴族たちで賑わい、その扉の向こうでは煌びやかな舞踏会が催されようとしていた。


 エヴァリナ・クライスフィールドは、そんな華やかな夜会の入り口で、自分の鼓動がかすかに高鳴っているのを感じながら、静かに息を整えていた。彼女はこの数年、侯爵家の次男レオナルド・アーヴィングと婚約しており、両家にとっても社交界にとっても、もはや既成事実として認められている仲だ。今日の夜会でも、正式な婚約発表とともに、エヴァリナの婚家としての立場をより揺るぎないものにするはずだった。


 エヴァリナは名門クライスフィールド伯爵家の令嬢である。父であるアンセルム伯爵は王宮でも重臣のひとりと目され、実直かつ有能な人物として信頼が厚い。その一方で、クライスフィールド家はかつて先々代が莫大な寄付を行い、さらに軍備の整備にも資金を投じたことで知られており、王国の財政や政治に対して大きな影響力を持っていた。エヴァリナは幼いころから優雅な立ち居振る舞いと学問に励み、周囲の期待に応えるよう育ってきた。彼女自身も、両親や周囲に不自由を感じさせない品位ある女性であることを常に心がけている。そのためか、エヴァリナは社交界でも「気高い花」と称され、一目置かれる存在だった。


 ──そう、今日までは。


 この夜が、彼女にとってどれほどの試練となるかは、エヴァリナにも想像がついていなかった。彼女が考えていたのは、レオナルドと共に舞台に上がり、婚約が正式に発表される場面のはずだった。それまでの二人の仲は、表面上は穏やかだったのである。


 レオナルド・アーヴィングは侯爵家の次男として生まれ、兄である長男はすでに軍の上層部として頭角を現していた。彼自身は長男ほどの軍才はないが、その代わりに潤沢な家柄と、自身の生まれ持った社交術を駆使し、さまざまな分野で成功を収めているという評価を得ている。彼は美しい顔立ちと軽妙なトークを武器に、上流階級でも華やかな人気者だった。エヴァリナも最初こそその人当たりのよさに惹かれた部分はあるものの、徐々に言動の軽さや、時折の奥底に見え隠れする冷ややかな視線が気になるようになっていた。しかし「親が決めた相手」「両家の利益」という枠組みを考慮し、彼女自身もレオナルドとの結婚を受け容れようとしていたのである。


 舞踏会が始まると、グラン・サロンには豪奢なシャンデリアが光を落とし、金と深紅の装飾が施された壁の間を、曲線を描くように貴族たちが行き交う。笑みを浮かべている者たちの中には、互いに政治的な駆け引きを交わし合う重厚な伯爵や侯爵もいれば、情報収集に余念のない子爵夫人、あるいは近頃台頭してきた商家の令嬢たちも混ざっている。エヴァリナは慣れ親しんだ作法通りに美しく一礼し、同じく伯爵令嬢たちからの挨拶を受けながら、穏やかな微笑みを絶やさない。周囲の羨望や敬意の眼差しに、彼女は今のところ何の違和感も覚えずに応じていた。


 それからしばらくして、夜会も中盤に差しかかったころ、レオナルドが舞踏会の中央に進み出て、皆の視線を受ける形で高らかにグラスを掲げた。エヴァリナは少し離れた位置でその姿を見つめる。彼が今から正式に自分たちの婚約を公表するはずだと信じて疑わなかった。


 レオナルドの声が、広間に澄んだ響きとして伝わっていく。


「皆さま、どうかお集まりください。突然ではございますが、私、レオナルド・アーヴィングは本日、重大な発表をさせていただきたく存じます」


 その言葉に、人々のざわめきが一瞬で静寂へと変わる。アーヴィング侯爵家は王国の中でも有力な家柄であり、レオナルドも広く社交界で知られた若手貴族のひとりである。その彼が改まった口調で何を言い出すのか、参加者たちは耳を澄ました。


「本日をもちまして、私は平民出身の女性──アリシア・ブレモンドと新たに婚約することとなりました」


 その言葉は、エヴァリナにとってまるで胸をナイフで抉られるかのように衝撃的だった。一拍遅れて周囲から驚きの声が湧き起こる。アリシアという名は、今の瞬間までエヴァリナの耳にはほとんど馴染みがなかった。その女性が、この場にいるかどうかさえ不明だ。なのに、レオナルドは堂々と新たな婚約相手の名前を口にし、エヴァリナの存在などまるで最初からなかったかのように告げている。


(これは、一体どういうこと……?)


 エヴァリナの頭は混乱しかけたが、すぐに理性がそれを押し留め、彼女は持ち前の優雅さを保ったまま、ゆっくりとレオナルドに目を向けた。人々の視線も、エヴァリナとレオナルドの間を行ったり来たりしている。明らかに何かがおかしいと皆が感じ取っていた。


 レオナルドはその場の反応を楽しむかのように、わざとらしい笑みを浮かべて続ける。


「私とエヴァリナ・クライスフィールド伯爵令嬢との婚約は、双方の家の都合によるもの……ということでしたが、先日私は、ある事実を知ってしまったのです。クライスフィールド家の財政が危うい、ということを。長年表には出ていませんでしたが、どうやら多額の負債があるのだとか」


 あろうことか、レオナルドは公衆の面前でエヴァリナの家の財政不安を暴露するような形で話し始めた。エヴァリナは大きく目を見開く。クライスフィールド家に莫大な借金などあるはずがない。代々蓄えてきた資産もあるし、父のアンセルム伯爵は贅沢を好む人柄でもない。もちろん多少の支出はあるが、それはどこの貴族家も同じだ。そもそも軍や王宮への寄付はクライスフィールド家の名誉と信用を高めるための投資であり、今更どうこう言われる筋合いはない。


「そのために、私との婚約を利用してアーヴィング侯爵家から資金援助を引き出そうとしていた、と知ったのです。まったく、浅ましい話ではありませんか? 私は気高い家柄の令嬢との結婚を望んでいましたが、そんな思惑に利用されるのはごめんこうむります。そこで、今宵こうして皆さまの前で、正式に婚約を破棄させていただくことを宣言する次第です」


 場内が激しいざわめきに包まれる。平民との婚約を唐突に発表するだけでなく、名門クライスフィールド家を謂れのない不名誉で貶めたのだ。あまりにも過激な内容に、さすがの貴族たちも動揺を隠しきれず、エヴァリナをちらちらと窺う者もいれば、レオナルドを非難する者もいる。だが、レオナルドの父親であるアーヴィング侯爵やその取り巻きたちが、まるでこれを当然のこととして受け止めている様子から、彼の行動は事前に根回しされていたことが窺えるのだ。


 エヴァリナはまるで体の芯が凍りついたような感覚に襲われながらも、ここで感情的になることの危険性を本能で察していた。社交界は醜聞に対して厳しく、取り返しのつかない噂が一度流れれば、たちまち没落へと繋がりかねない。特に今はレオナルドが仕掛ける“場”のど真ん中にいるのだ。ここで取り乱せば、クライスフィールド家はまさに思う壺となってしまうだろう。彼女は震える手をできるだけ隠し、静かに深呼吸をして、人々の前へ進み出た。


「……それが、あなたの正式なご意志なのですね?」


 そう問いかけるエヴァリナの声は、驚くほど落ち着いていた。だが、彼女の瞳には怒りと悲しみが入り混じり、ほんのわずかに潤んでいる。しかし目を伏せることなく、レオナルドを真正面から見据えている。広間の人々は息をのんだ。本人を目の前にして、あまりにも一方的な婚約破棄宣言をされた令嬢が、どう返答するのかを固唾を飲んで見守っているのだ。


 レオナルドは興味をそそられたように肩をすくめて微笑み、少し首を傾げる。


「ええ、もちろんですとも。そもそも、令嬢のように気高く振る舞ってはいますが、実情としては我が家を利用しようとしただけに過ぎないのではないでしょうか? そこまでして貴族としての地位を守りたかった、と言われても仕方ありません。もっとも、真実がどうであれ、今の私はアリシアのように清らかで無垢な女性を伴侶に選びたい。それだけの話です」


 まるで一切の情け容赦もない言葉に、エヴァリナはぎゅっと拳を握りしめる。周囲にいる貴族の中には、彼女に同情する者も少なくないようだった。なかにはレオナルドの行いに露骨に顔をしかめる者もいる。しかし、アーヴィング侯爵やその取り巻きが彼を擁護する態度をとり、また彼の近しい貴族仲間もレオナルドの機嫌を損ねたくないのか、曖昧に笑って傍観しているだけだ。


 エヴァリナは一瞬、言葉に詰まりそうになる。しかし、ここで取り乱すわけにはいかない──その強い思いが彼女の背筋をまっすぐに伸ばさせた。


「そうですか。では、私からもひとつだけ申し上げましょう。クライスフィールド家に深刻な負債など存在いたしません。ですが、あなたがそうおっしゃるなら、それはそれで結構。……私との婚約を破棄するのであれば、どうぞご自由に。もはや私も、あなたのような方を夫に迎えようとは思いません」


 毅然とした態度でありながら、エヴァリナの心中は穏やかではなかった。幼い頃から“適切な結婚”こそが貴族令嬢の使命と教えられ、レオナルドとの縁組こそが両家にとって最高の利益だと言われ続けてきた。彼女自身が望んでいた形かどうかは別として、いずれ自分の家を支える結婚をするのだ、と半ば義務のように受け入れていたのも事実である。その相手から、こんな屈辱的な形で婚約を破棄されるとは、夢にも思わなかった。


 とはいえ、ここで弱音や後悔を口にするわけにはいかない。なぜなら、今この瞬間からすでに、クライスフィールド家に対する悪意ある噂が渦巻きはじめているのが見て取れたからだ。特にレオナルドの背後にいる人々の中には、クライスフィールド家を貶めたい人物が少なくないのだろう。彼女はそれを敏感に感じ取り、社交界での自分の立ち位置を守らねばならないという思いをいっそう強くする。


 レオナルドはエヴァリナの口調に少し意外そうな表情を浮かべた後、すぐに嘲笑混じりの声で応じた。


「それはなにより。では、今宵をもって正式に婚約破棄、ということで。私はこのあと、アリシアを紹介するつもりです。……そうだ、せっかくですからエヴァリナ嬢もご覧になってはいかがです? 彼女の姿を見ると、あなたが醜い嫉妬に燃え上がる姿が見られるかもしれません」


 言い捨てるようにそう言ったレオナルドに、エヴァリナは目を細めて冷たい視線を送り、くるりと踵を返した。こんな場でこれ以上の会話をする価値はない。彼の捨て台詞は、むしろ自分よりも彼自身の品位を下げるものだ、と理性で判断している。今ここで感情をあらわにしてしまえば、相手の狙い通りになってしまうだけだ。エヴァリナは大勢の視線を浴びながらも、凛とした足取りで舞踏会の中央から離れ、人混みを抜けるようにしてバルコニーへと向かった。


 夜の空気は少し肌寒い。けれど、息を詰まらせそうなほど暑苦しい大広間の空気よりはずっとましだった。バルコニーの欄干に手をかけて夜空を見上げると、満天の星々が瞬いている。だが、その美しさを今は感じる余裕すらなかった。胸の奥から沸き上がる悔しさと怒りに、エヴァリナは軽く唇を噛む。


(なんという仕打ちなの……。いくらなんでも、あんな大勢の前で平民の女性との婚約発表なんて。しかも私の家を誹謗中傷までして。何を考えているの……いえ、何を企んでいるの?)


 父や母にこのことを伝えねばならないが、彼らに先に知り合いから情報が入っているかもしれない。こんな形で娘が婚約破棄をされ、それもクライスフィールド家の財政難などという噂を吹聴されているのだから、さぞや心配しているだろう。エヴァリナは家族に迷惑をかけたくない一心でここまで必死に平静を保ってきたが、先ほどのレオナルドの態度と台詞を思い出すと、どうしても怒りがこみ上げてくる。穏やかで品行方正な彼女にしては珍しく、握りしめた拳が小刻みに震えていた。


 しばらく深呼吸を繰り返していると、バルコニーの扉がそっと開き、人の気配が近づいてくる。振り返ると、それはエヴァリナの古くからの友人、カトレア・ロウランド子爵令嬢だった。カトレアは夜会のドレス姿のまま、さっと軽い上着を羽織っている。バルコニーの冷気を多少は気にしているのだろう。


「エヴァリナ、だいじょうぶ?」


 カトレアは真剣な眼差しでエヴァリナを心配している。彼女は幼少期からエヴァリナと同じ家庭教師のもとで勉強をしたり、時には一緒に散歩に出かけたりした間柄だ。性格は活発で正義感が強く、思ったことをはっきり口にするタイプ。社交界ではそういった点を“やや奔放”と評されることもあるが、エヴァリナにとっては気の置けない大切な友人でもある。


「ええ、なんとか……。でも、本当に突然過ぎて、私……」


 エヴァリナはそう言ったものの、すぐに視線を落とした。涙を見せることはできない。ここは王都の中心、バルコニーとはいえ周りに人がいないとは限らないし、いつどこで誰が見ているかわからない。あまりにも露骨に感情を表に出すと、後でどんな噂に尾ひれがつくか知れないのだ。そんな緊張感の中でも、カトレアは彼女の心を気遣い、そっと手を握ってくれた。


「私が聞いたところによると、アーヴィング侯爵家はかなり前からレオナルド様とアリシアさんなる平民の少女を引き合わせていたらしいわ。今回、アリシアさんの家族が貴族から何らかの後援を得ているらしくて、彼女をレオナルド様と結婚させて取り込もうとしているっていう話もある。……でもそれだけじゃなくて、どうもクライスフィールド家を貶めようとする思惑が働いているとも思えるの」


 カトレアは声を潜めながら、手短に情報を伝えてくれる。エヴァリナは驚きと共に、やはり何か裏があるのだと確信した。レオナルドがあれほど堂々とクライスフィールド家の財政危機を口にしたのも、その背後に何らかの利益を得たい誰かがいるのではないか。彼自身が単独でこんな形を思いつき、実行に移すとは思えない。特に、アーヴィング侯爵家とクライスフィールド家の間には、表向きは良好に見えていたが、古くから何かしらの政治的対立があったと耳にしたことがある。


「ねえ、エヴァリナ。あなたはこれからどうするの? すぐにでも誤解を解くために動かないと、変な噂が広まっちゃうわよ」


 カトレアが心配そうに尋ねる。エヴァリナは一瞬言葉に詰まったが、小さく息を吐いた。


「そうね……父と母にも事実を伝えないといけないし、きちんと釈明しないといけない。ただ、それより何より……」


 そこまで言いかけて、エヴァリナはぐっと奥歯を噛んだ。レオナルドが口にした“財政危機”というデマは、放っておけば瞬く間にクライスフィールド家に対する不信感を広めてしまうだろう。それを放置すれば、借金の申し入れや資金援助の願いをしたという誤解が広まり、名門と謳われてきたクライスフィールド家の名声を大きく損ねてしまう。最悪の事態としては、敵対する貴族が「あの家は借金まみれの虚勢だ」と周囲を固め、政治の場においても力をそぎ落とそうとするかもしれない。


 まさに、それこそが“陰謀”の正体だろう。婚約破棄というスキャンダルを利用して、クライスフィールド家を没落へと導くために仕組まれた計画に違いない。レオナルドやアーヴィング侯爵はその駒に過ぎないのかもしれないし、あるいは積極的に加担しているのかもしれない。いずれにせよ、このままやられっぱなしでは済ませられないのだ。


「私が何より許せないのは、家の名誉を毀損されただけじゃないわ。彼らが私を利用しようとした事実、それにいけしゃあしゃあと平民の少女との婚約を発表して見せつけるやり方……悔しいけれど、絶対に仕返ししないわけにはいかない」


 エヴァリナは静かながらも強い決意を口にする。彼女にしては珍しいほど感情を露わにしている姿に、カトレアは目を丸くしながらもうなずいた。


「私に手伝えることがあったら、なんでも言って。あなたがこんな仕打ちを受けるなんて、見過ごせないもの」


「ありがとう、カトレア。まずは両親に報告して、事実関係を整理するわ。おそらく当面は、あのレオナルドやアーヴィング侯爵家がどう動くかを注視する必要があると思う。その間に、私たちの資産がどうなっているか、いっそみんなに知ってもらう方法を考えるのもいいかもしれない……」


 エヴァリナはひとつ深く息を吐いた。今は混乱しているが、やるべきことが山積しているのは明らかだ。王宮内での政治的影響力をどのように維持するか、アーヴィング侯爵家の狙いを探り、必要とあらば手を打つことも考えなければならない。レオナルドの発表で大きく恥をかかされたが、ここで退いてしまえばそのまま没落の道を歩まされる可能性が高い。


「……エヴァリナ?」


 少し目を伏せたまま思考をめぐらせていたエヴァリナに、カトレアがそっと声をかける。エヴァリナは顔を上げ、「大丈夫」と微笑もうとした。しかし、その微笑みはさすがにうまく形にならなかった。夜空に瞬く星々を背に、彼女の瞳は新たな決意を帯びて強く光っている。


「大丈夫。私はクライスフィールド家の令嬢。こんなことでは挫けたりしないわ。今に見てちょうだい……あの人たちの思い通りには、絶対にならないから」


 彼女は自分にそう言い聞かせながら、バルコニーを後にした。胸の奥で煮えたぎる怒りと悲しみ、そして裏切りによるやり場のない想いはあるものの、それでもエヴァリナはクライスフィールド家を守り、侮辱した相手を必ず見返してやるという確固たる意志を固めていたのだ。


 舞踏会の会場へと戻る途中、あちらこちらでエヴァリナを気遣う声や好奇の視線を感じる。いつもは自分に向けられる尊敬や称賛の眼差しが、今は興味本位の侮蔑や憐れみに変わっているのをひしひしと感じる。この一夜ですべてが急転直下で変化するなど、彼女にとっては初めての経験だった。


「……エヴァリナ様、大丈夫ですか? 何かあれば仰ってください」


 いつもは控えめに従うばかりの下級貴族や召使いたちまでも、彼女に声をかけてくる。気遣っての言葉か、それとも事態を早く知りたいという好奇心からくるものなのか、見分けるのは難しい。ただ、エヴァリナは一礼して「お気遣い感謝します」とだけ答えた。今は詳しい話をする段階ではないし、無責任に言葉を濁すと却って尾ひれをつけられてしまう可能性があるからだ。


 レオナルドはさっそくアリシアとやらを会場に呼び込んでいるのか、彼女が戻ってきたころには、シャンパンを片手に人々と談笑している姿が見えた。隣には確かに若い女性が寄り添っている。艶やかな黒髪に大きな瞳をもつ美しい女性だが、まだ勝ち気な部分は見えず、どこか怯えたように視線を落としている。おそらく初めての貴族の場に戸惑っているのだろうか。だとしても、レオナルドの隣に当たり前のように立っている彼女の姿は、エヴァリナにとっては胸を締めつけられる光景だった。


(でも、あなたが悪いわけじゃない。利用されているのかもしれないし……)


 そう思いなおし、エヴァリナは二人に近寄ることなく、そのまま王城の廊下を抜けて夜会の会場を後にした。人々の好奇の視線や囁き声が背中に突き刺さるようだったが、今はただ、一刻も早く落ち着いて家に戻りたい。父と母に報告し、今後の方針を固めることこそ最優先だ。ここで会場に留まり、延々と中傷や皮肉まじりの言葉を浴びせられるわけにはいかない。


 そして馬車に乗り込むとき、エヴァリナははっきりと自覚した。今日という日は、自分の人生の大きな転機になるだろう、と。婚約が破棄されたという事実はもとより、平民との婚約を宣言したレオナルドの行動には、何やら大きな策略が見え隠れしている。さらに、その背景にはクライスフィールド家の“没落”を狙う勢力が潜んでいるのかもしれない。彼女は、これらの疑念をひとつずつ解き明かさねばならない立場にあると強く認識した。


 馬車が揺れ始め、王宮の煌びやかな灯りが遠ざかっていく。エヴァリナの胸はまだ高鳴っている。悲しみと悔しさ、怒りと屈辱──さまざまな感情が渦巻く中で、それでも彼女は静かに目を閉じた。自分自身を強く律し、「クライスフィールド家の令嬢として」誇りを守り抜かなくてはならない。それが、これまで両親から教えられてきた“生き方”なのだから。


 こうして、エヴァリナの“婚約破棄”という悪夢の夜は幕を下ろした。しかし同時に、彼女の新たな闘いが幕を開けた夜でもあった。裏切りの夜をきっかけとして、彼女は自分の運命を自らの手で切り開いていくことになるだろう。どんな困難が待ち受けようとも、気高く、そして決して折れずに前を向き続ける。ここから先に続く日々が、試練の連続であるとしても──エヴァリナはそれを逃げずに受け止める覚悟を決めたのである。





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