エヴァリナ・クライスフィールドが馬車に揺られて王都を離れ、クライスフィールド家所有の田舎の別荘へ向かったのは、婚約破棄からちょうど数日後のことだった。彼女の心に積もる思いは様々で、王都を出る間際まで複雑な感情が渦巻いていたが、しばらく田舎で静養するようにという両親の勧めに従い、ひとまず仕事に没頭している父と、社交界の情勢を見守る母に後事を任せて、王都を後にする決断をしたのである。
王都から遠く離れたクライスフィールド家の別荘は、青々とした牧草地帯や、なだらかな丘陵に囲まれた穏やかな土地にある。もともとは先々代の伯爵が狩猟や休養のために建てたもので、壮麗というよりは質素で落ち着いた造りの屋敷だ。庭には果樹園や庭師が手入れをした花壇が広がり、館の裏手には小川が流れている。静かな環境であることが何よりの魅力で、都会の喧騒から離れて心身を癒やすには最適の場所と言える。
エヴァリナは屋敷に到着すると、まずは彼女付きの侍女の手を借りながら、自室になる部屋の窓を開け放った。高原の爽やかな風が吹き込み、軽く揺れたカーテンから明るい光が差し込んでくる。思わず目を細め、心にこびりついていた重苦しさを洗い流そうと深呼吸をした。
(……空気が、きれい)
王都の舞踏会で味わった屈辱や、周囲の好奇の視線、婚約破棄の動揺から続く心の痛みは、そう簡単に消えるわけではなかった。しかし、清々しい風と鳥のさえずりがかすかに聞こえてくるこの場所でなら、少しずつ自分を取り戻せるかもしれない、とエヴァリナは感じた。部屋の調度品は長らく使われていないせいか、いくらか埃っぽいが、元はしっかりした装飾がされており、伯爵家の別荘らしく上品な趣がある。窓辺の椅子に腰掛け、周囲を見回すだけで、王都での苦しい記憶がほんの少し遠のいていくような気がした。
それでも、完全に忘れ去るわけにはいかない。婚約破棄の一件は、クライスフィールド家の誇りを深く傷つけた。表向きの理由は「財政危機によってアーヴィング家を利用しようとした」というレオナルドの言い分だったが、父・アンセルム伯爵や母・クラリサ伯爵夫人の調査によれば、それには全く根拠がなく、むしろ何らかの裏工作がなされているという線が濃厚だという。いずれにせよ、王都に戻れば再び社交界の厳しい視線に晒されるだろう。だからこそ一旦この地で落ち着き、自分の心の整理をする必要がある──エヴァリナはそう自分に言い聞かせていた。
屋敷の執事や侍女たちは、伯爵令嬢の来訪を歓迎しつつも、エヴァリナの疲れた様子を見て察したのか、過度な質問は控えて控えめに接してくれている。もともと別荘に常駐している従者は多くはなく、必要最低限の人数だ。彼らは彼女が幼いころから時折訪れていたのを覚えており、懐かしむように優しく接してくれる。エヴァリナはその気遣いに感謝し、重い胸を抱えながらも微笑を返していた。
翌朝、エヴァリナはゆっくりとした朝食を終えると、庭へ散歩に出ることにした。慣れ親しんだ庭だが、かれこれ数年は訪れていなかったため、どんな花が咲き、どんな木々が実をつけているのかを確かめたいという思いがあった。日の光にきらめく緑の芝生が柔らかく、初夏の風が頬を撫でていく。草花の香りがほのかに漂い、鳥のさえずりが軽やかだ。
庭の奥にはかつて彼女が兄や妹と一緒に遊んだ小道がある。そこを抜けて行くと、森の手前に広がる小さな池があり、夏になると水辺には赤い花や紫色の花が咲くのを覚えていた。エヴァリナはゆっくりと小道をたどる。すると途中で、誰かがこちらに背を向けて立っているのが見えた。ダークブラウンの短髪に、落ち着いた色合いの上着。彼はエヴァリナが見かけたことのない若い男性で、背丈は高め、しかしどことなく細身に見える。庭師や使用人の姿ではないように思えた。
見覚えのない人影を認めたエヴァリナは、少しだけ警戒した。ここはクライスフィールド家の私有地であり、勝手に入れる場所ではない。それとも父や母が何かの用事で使者を派遣したのか──そう思いつつも、彼女は控えめに声をかけることにした。
「失礼ですが……どなたかしら?」
すると、その男性は驚いたように振り向いた。金色にも見える茶色の瞳が印象的で、まだ若いながらも端正な顔立ちをしている。だが、一瞬見せた表情には戸惑いと、わずかな警戒心が宿っているように思えた。それも束の間、すぐに丁寧な笑みを作って頭を下げる。
「これは失礼しました。まさか、こちらの敷地の中でどなたかに声をかけられるとは……。私はアレクシス・フェルナンドと申します。王宮の事務職のひとつを拝命している下級貴族の身分です。実は、先日こちらの森を少し下見する用事がありまして……伯爵家のご許可をいただいているとは伺っておりますが、まさかご当主のお嬢様がいらっしゃるとは存じず、大変失礼いたしました」
そう言って、アレクシスは深くお辞儀をした。言葉遣いは非常に丁寧で、王宮勤めというのも嘘ではなさそうだ。けれど、どうしてクライスフィールド家の敷地内、しかもこのタイミングで? エヴァリナは心の中に疑問符を浮かべながらも、まずは自分も名乗る必要があると感じ、穏やかな態度を崩さずに答える。
「わたくしはエヴァリナ・クライスフィールドです。この屋敷の当主、アンセルム伯爵の娘ですわ。アレクシス様がこちらにいらっしゃること、父は事前に聞いていたのかもしれませんが、私には詳しい話が伝わっておりませんでした。失礼ながら、どのようなご用件で……?」
エヴァリナがそう尋ねると、アレクシスは少し言い淀んだ様子を見せた。だが、すぐに困ったような微笑を浮かべて口を開く。
「王宮から、クライスフィールド伯爵様のご協力を仰いで、この辺りの地形や森林資源について調査をするように、と指示がございまして。ご存じのように、クライスフィールド家はかつて軍への寄付や、地方の整備にも大きく貢献なさっておられる。それで、ここ数年で王国全体の地図を更新する計画があり、その一環として各地の森の状況を確認しているのです。私はその使いとして、こちらに滞在しているのですが……伯爵令嬢はご存じなかったのですね」
アレクシスは申し訳なさそうな声でそう述べると、エヴァリナは一瞬考え込む。確かに、父は王国の軍事や行政にも関わっているため、このような調査を受け入れても不思議はない。王宮が今、地図や領地の管理に力を入れているというのは、かねがね噂で聞いていた。ただ、あまりにも時期が重なりすぎている、と彼女は感じた。つい先日の婚約破棄騒動があったばかりだというのに、下級貴族とはいえ王宮勤めの若者がクライスフィールド家の別荘に滞在しているのだから、何か裏があるのかもしれないと疑ってしまう。
しかし、アレクシスの表情に邪な様子はなく、むしろエヴァリナに対して極力礼節を尽くしていることが伝わってくる。彼女はひとまず疑念を胸の奥に押し込み、控えめに微笑んだ。
「いえ、お仕事でしたら遠慮なくなさってくださいませ。こちらに来るとは知らなかったというだけですので。でも、その……わたくし自身はあまり気にしませんから、もし滞在中に何か困ったことや必要なことがあれば、執事や侍女に遠慮なくお申しつけください。父や母に連絡を取りたい場合も、速達の手配ができますわ」
「ご配慮ありがとうございます、伯爵令嬢。……エヴァリナ様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
アレクシスはおずおずとそう言い、エヴァリナは少しだけ戸惑った。社交界では「令嬢」「ご令息」といった敬称が通常であり、名前を直接呼ばれることは婚約者や親しい間柄でない限り、あまりない。しかし、田舎の別荘で過ごす間くらいは堅苦しい作法から解放されたいという思いもあり、彼女はやや照れながらも控えめに笑みを浮かべて応じる。
「ええ、かまいませんわ。ここでは私もあまり“令嬢”として振る舞うつもりはございませんもの」
その言葉に、アレクシスは明るい笑顔を見せた。実直そうな彼の表情に、どこかほっとした気持ちを抱くエヴァリナ。まさかこの田舎の別荘で、こんな形で新たな人と出会うとは思っていなかったが、不思議と悪い印象はない。むしろ、王都で傷ついた心にほんの少し風が通ったような、そんな感覚すらあった。
それからエヴァリナは、その日の午後を屋敷の図書室で過ごした。窓際に置かれた古い机で手紙を書こうとするが、なかなか筆が進まない。王都にいる母や友人カトレアに宛てて、無事に到着した旨と近況を報告したいのだが、婚約破棄からまだ日が浅く、その話題をどう扱うべきか整理がついていないのだ。王都は今、クライスフィールド家の噂で持ちきりだろうか。あるいは、話題好きの貴族たちが次のゴシップに移り気を取られているのか。そんなことを考えると、筆を動かす気力が失せていく。
(あれから、レオナルドとアリシアのことはどうなっているのかしら。レオナルドは平民の女性との婚約を堂々と宣言したけれど、それについて社交界はどう受け止めているのだろう。わたくしが王都にいない間に、さらなる変化が起きているかもしれない。父と母は私に心配をかけないよう、あえて詳しく知らせないようにしているのかも……)
思考が暗くなってしまいそうになるのをこらえ、エヴァリナは書物に視線を移した。この図書室には先々代の伯爵が集めた古い書物や地図、歴史書が所蔵されている。表紙の色あせた本を手に取ってみると、辺境の森や川のことが記されており、その挿絵には何やら神話の生物らしきものも描かれている。子どもの頃、ここで時間を忘れて本を読んだことを思い出し、少し懐かしくなった。
すると、ノックの音がして扉が開き、侍女が顔を出す。
「失礼いたします、エヴァリナ様。アレクシス様が屋敷に戻られましたが、お茶の用意をとのことです。もしご一緒に召し上がるのであれば、応接室にお運びしますが、いかがなさいますか?」
彼が屋敷に戻ったのならば、調査の続きを終えて一息つきたいのだろう。わざわざエヴァリナに「ご一緒に」と申し出てくるということは、アレクシスもそう望んでいるのかもしれない。彼女は少しだけ迷ったが、ここはお互いに顔を合わせて簡単な挨拶や情報交換をするのも悪くないと思い、頷いた。
「では、お言葉に甘えて。応接室でお願いできますか?」
侍女が出て行った後、エヴァリナは書斎の椅子から立ち上がり、軽く身だしなみを整えた。鏡を覗いてドレスのしわや髪の乱れを確認し、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。見ず知らずの男性とはいえ、同じ屋敷に滞在しているのだし、今後も顔を合わせる機会があるだろう。ならば、お互いに変な誤解をしないよう少しでも打ち解けておいたほうがいい。
応接室は大きな窓が開放的で、外の木々から降り注ぐ緑の光が心地よい場所だ。古風なソファが向かい合わせに置かれ、中央のテーブルには花瓶に活けた野の花が飾られている。アレクシスは先に到着していたらしく、控えめな姿勢で室内の調度を眺めていたが、エヴァリナが入室すると「失礼いたします」と立ち上がって軽く会釈した。
「お待たせしました、アレクシス様。今日は森の調査に出かけていたとか……?」
「ええ、少し遠くまで足を延ばしてみたのですが、驚くほど豊かな土地ですね。木々の状態が非常によくて、伐採などを行わずとも自然のまま保たれている場所が多い。実際に現地を見てみると、王都から想像していた以上に恵まれた環境だとわかりましたよ」
アレクシスはにこやかに語るが、その視線はどことなく探るようでもあった。まるで、目の前にいる伯爵令嬢の内心を計りかねているように。エヴァリナはその含みを感じ取りながらも、微笑を浮かべて彼の言葉を受け止めた。
侍女が紅茶と軽い菓子を運んでくると、二人はソファに腰を下ろした。外の光に照らされた応接室は、王都の社交界のような華やかさとは無縁の落ち着いた空間で、エヴァリナの心に少し安堵をもたらす。ぎこちない沈黙が流れそうになったが、先に口を開いたのはアレクシスだった。
「こうしてお茶をいただくのは、実は久しぶりです。王都での仕事は慌ただしく、まともに休息を取ることもままならないので……。こちらの別荘は静かで、本当に癒やされますね」
「そうでしょうね。王都で働く方は、いつも忙しそうに見えますから」
エヴァリナがそう返すと、アレクシスは少し笑みを含んだ瞳で彼女を見つめ、「ええ」と頷いた。その仕草はどこか上品だが、貴族としての格式ばった雰囲気というよりは、人柄の素直さを感じさせるものだ。彼女は自然と、「この人はどういう来歴なのだろう」と興味を抱き始めた。
「……先ほど伺いましたが、下級貴族として王宮でお仕事をされているのですね? 地図や領地の管理に関する事務を担当されているのでしょうか?」
問いかけると、アレクシスはうまく言葉を選ぶようにして答えた。
「正確には、王宮の行政局の下級役人という立場です。領地の調査や書類整理など、いわゆる雑務が主ですね。でも今回のように地方に出て、各家が所有する森や川の状態を確認する仕事も任されるようになりました。私としては、王都にずっと閉じこもっているより、地方を訪れて実際に目で見るほうが性に合うのですが……なかなか一筋縄ではいかないですね」
その言葉には、単なる愚痴とは異なる、何か深い思いがこもっているようにも聞こえた。エヴァリナは彼の瞳を覗き込み、もう少し詳しく尋ねてみたい気持ちになる。彼がどうして王宮で働くようになったのか、あるいはどうしてこの別荘に調査に来る役目を担うことになったのか。だが、それを問い詰めるのはあまりにも失礼かもしれない。彼女自身も、まだ婚約破棄の件で心の傷がいえず、余計な詮索をするのは気が引けた。
(でも、もう少し話してみたい。何か、あの嫌な出来事を忘れさせてくれるような、そんな気がするわ)
そう思ったのも束の間、アレクシスのほうから思わぬ言葉が返ってきた。
「……エヴァリナ様。こんなことをお訊きするのは不躾かもしれませんが、あなたはなぜ、こんな時期にこの別荘へ? 王都では、クライスフィールド家が大きな出来事に巻き込まれたという噂を耳にしましたが、わたしのような立場の者が詳しく伺うのも憚られる話かと……」
その問いに、エヴァリナは思わず息を詰まらせた。そう、当然ながら噂は王宮の下級役人の耳にも届いているのだろう。貴族の婚約破棄が大きなスキャンダルになるのは、王都でも日常茶飯事……とまでは言わずとも、目新しい噂としてすぐに広まるものだ。おそらくアレクシスも、聞きたくて聞いているというよりは、接するうえでの配慮として触れたのかもしれない。
エヴァリナはカップを置いて、小さく息を吐いた。胸が少し痛むが、逃げるような態度を取りたくはなかった。
「……そうですね、あまり隠しても仕方ありませんから。先日、レオナルド・アーヴィング侯爵家の次男が、新たに平民の女性と婚約を発表しまして……その際に、わたくしとの婚約を一方的に破棄したんです。しかも、あたかもクライスフィールド家が財政難で援助を求めようとしていた、と吹聴したものですから……少し、心身ともに休息が必要だと家族からも勧められ、この地に来ているのです」
静かな語りではあったが、その言葉の一つひとつに苦味が滲んでいるのは、エヴァリナ自身にもわかった。王都を去る直前まで、婚約破棄の波紋がどれほどのものになるか考える余裕もなかった。だが、こうして口に出すと、より一層現実を突きつけられる気がする。周囲から見れば、華やかな王都での婚約破棄という“面白い見世物”にしか過ぎないだろう。アレクシスも、そうした興味本位で尋ねているのだろうか──彼女は少しだけ不安になった。
ところが、彼の反応は意外なほど真摯だった。アレクシスは険しい表情を見せ、苦しげに目を伏せる。
「そんな酷いことが……。わたしも噂程度には耳にしましたが、まさか実際にここまで一方的な話だったとは思いませんでした。アーヴィング侯爵家というと、王宮でも一定の影響力を持っている家柄ですし、そう簡単に反論するのも難しい面があるのかもしれませんね」
「ええ……でも、わたくしとしては受け入れ難い話です。家の名誉にも関わりますし、何より個人的にも納得がいきません」
そう語るエヴァリナの声は、わずかに震えていた。思い返すたびに怒りや悔しさ、そして裏切られた悲しみが呼び覚まされる。だが、アレクシスが真剣に耳を傾けているのを感じ、彼女は自然と少し心が軽くなるのを覚えた。
アレクシスはテーブルの上に視線を落とし、何かを思案するように唇を結ぶ。そして、決心したようにエヴァリナを見つめた。
「……お辛いでしょうに、こうして言葉にしてくださってありがとうございます。わたしには何も力になれることはないかもしれませんが、少なくともあなたが心を落ち着けるまでの間、こちらで穏やかに過ごせるように、できる範囲でお手伝いさせてください」
「手伝い、ですか?」
「たとえば、庭の散策にお付き合いするとか、あるいは森の調査でわたしが見つけた興味深いものをお見せするとか……。わたしも一人で黙々と仕事をするよりは、誰かと話し合いながら進めるほうが好きなんです」
遠慮がちに微笑むアレクシスの姿は、エヴァリナには新鮮に映った。彼女が今まで接してきた貴族の男性たちは、もっと誇り高く、時には傲慢な態度をとる者が多かったからだ。特にレオナルドのように、表面の愛想は良くとも心の奥底では何を考えているかわからない相手もいた。それを思うと、アレクシスの素直な提案にはどこか救われるような思いがある。
「そうですね……わたしとしても、あなたがお仕事の邪魔にならない範囲であれば、ぜひご一緒させていただきたいわ。ここに来たのは心を癒やすためでもあるし、もし森の中で綺麗な花や景色を見つけられたら、少しは気分も晴れるかもしれませんもの」
こうして、二人はお互いに少しずつ打ち解け始めた。エヴァリナはまだ完全に心の傷が癒えたわけではないが、アレクシスの素朴な人柄や柔らかな言葉に触れるうち、王都での出来事を忘れられる時間が増えていく。夕暮れ時、アレクシスは自分の仕事部屋に戻り、書類をまとめると言って部屋を後にした。エヴァリナはその背中を見送りつつ、心にぽっかりと空いていた穴がわずかに塞がっていくのを感じた。
翌日、エヴァリナは朝食後に外へ出て、アレクシスとともに別荘周辺の森を少し歩いてみることにした。森の入り口には小川が流れ、そこを渡る丸木橋からは水面がきらきらと輝いて見える。足を進めるたびに足元の落ち葉がさくさくと音を立て、木漏れ日が彼女のドレスの裾を照らす。鳥のさえずりや風のざわめきだけがBGMとなる、静かで穏やかな時間。王都の騒音や舞踏会の喧噪がいかに彼女を疲れさせていたかが、今になってよくわかる。
アレクシスは森に入るや否や、慣れた手つきで周囲の木々や地形を観察し、「ここは湿度が高いですね」「この木はまだ若いのにしっかり根付いている」などと、興味深そうにつぶやきながら歩いている。エヴァリナには専門的な知識はないが、彼の言葉を聞くうちに、森が持つ豊かな生命力を感じ、どこか嬉しい気持ちになってくる。
「地図をつくるとき、こうした微妙な地形の起伏や水源の位置が重要なんです。地図はただ場所を示すだけじゃなく、土地の性格を知るためにも使われますから」
そんなふうに語るアレクシスの横顔は生き生きとしていて、先日応接室で見た柔らかい笑顔とはまた違う魅力があった。エヴァリナはその様子に目を細め、彼がこうして仕事に誇りや喜びを感じているのだと察する。王都での地道な事務作業だけではわからない、現地調査ならではの醍醐味があるのだろう。彼女は改めて、アレクシスに興味を覚え始めた。
森の少し奥へ入ったところで、木々の切れ間から見える青空が広がり、丘の上に出た。そこは雑木林がまばらに続く小さな高台で、一歩踏み出すと一面に咲き乱れる野花の群生が目に飛び込んでくる。淡いピンクや青、白、黄色……春から初夏へ移るこの季節、色とりどりの花が小さく揺れ、まるで絨毯のようだ。
「わあ……こんなに綺麗な場所があったなんて」
思わず息を呑んだエヴァリナに、アレクシスは微笑んで「ここは地形図では少し平坦に描かれていて、あまり注目されてない場所なんです。けれど実際に来てみると、こんな見事な花の野原になっていたんですよ」と胸を張る。どうやら早朝に一人で調査していたとき、偶然この場所を見つけたらしい。
「人があまり踏み入れていないからこそ、自然のまま残っているのでしょうね。……こんなにも美しい光景をわたくし、王都では見たことがありません」
エヴァリナはふと足を止め、野花を眺めながら深呼吸した。冷たく新鮮な風が頬を撫で、胸いっぱいに爽やかな香りが広がる。もし婚約破棄という醜い争いごとがなければ、こうして大自然の中で心を洗われるような体験をする機会もなかったかもしれない。もちろん、屈辱や苦しみは消えないが、それでも今は、この美しさを純粋に享受したいと思った。
アレクシスは小さなメモ帳を取り出し、地図に書き足すためのメモを取っている。どうやら熱心に仕事を進める合間にも、エヴァリナを気遣って話しかけてくれる。そのやり取りはぎこちなくも微笑ましく、彼女の心を少しずつ解きほぐしていった。
「エヴァリナ様。よろしければ、少し木陰で休みませんか? 歩き疲れたでしょうし、飲み物でもどうぞ」
彼が持ってきた水筒を差し出すと、エヴァリナは「ありがとうございます」と受け取り、口をつける。ほのかなハーブの香りとほんのりした甘味が混じった水に、思わず顔を上げた。
「これは……?」
「家の侍女さんにお願いして、ハーブを少し入れてもらいました。あなたが疲れを感じないようにと、気を配ってくださったみたいです。わたしもこういう味は初めてですが、さっぱりしていて美味しいですね」
そんな何気ない会話を交わすうち、エヴァリナは自分でも驚くほど穏やかな気持ちになる。婚約破棄の出来事がまるで別世界のことのように思えるほど、ここにはのどかな時間が流れていた。しかし、そうだからこそ、ふと頭をよぎる不安もある。アレクシスはいったい、どのような立場でクライスフィールド家の別荘に滞在しているのか。本当にただの下級貴族としての地方調査に来ているのか。それだけが気がかりで、彼女はまだ素直に全幅の信頼を置くには至っていない。
少し休んだあと、二人は別荘へ戻ろうと森の道を引き返した。帰り道、アレクシスはあまり多くを語らず、自分の調査や王宮での仕事について触れたのみだった。エヴァリナも深く問いただすのを躊躇して、そのまま屋敷に到着する。そこでは執事や侍女が出迎えてくれ、午後にはまた別々の時間を過ごすことになった。
それから数日、エヴァリナとアレクシスは、朝から昼過ぎにかけて森や周辺の散策をすることが習慣になった。時には別荘の果樹園へ足を運び、そこに咲く花や育ち始めの果実を一緒に眺めたり、敷地内にある池で涼を取ったりして過ごす。夜はお互いの部屋で過ごすことが多いが、それでも夕食時には顔を合わせ、ささやかな会話を交わした。いつしか二人には、ごく自然な友情のような絆が芽生えていた。
とはいえ、エヴァリナには常に頭の片隅に王都や婚約破棄の問題がこびりついている。彼女はこまめに母や父に手紙を書き、近況を報告したが、返事は多忙を理由に簡単な内容が多く、具体的にどのような動きがあるかははっきりと知らされていない。それがむしろ不安を煽る原因となり、夜更けにベッドで目を閉じても、なかなか寝付けない日々が続いた。
そんなある朝、エヴァリナが散策に出ようと部屋を出たところで、アレクシスが廊下を急ぎ足で歩いているのを見つけた。いつもは穏やかな雰囲気を漂わせている彼だが、その時ばかりは何か焦りや動揺を感じさせる表情だ。彼女が声をかけようとすると、アレクシスは一瞬ためらった後、意を決したようにエヴァリナのもとへ駆け寄った。
「……エヴァリナ様、少しお時間をいただけますか。あなたにお伝えしなければならないことがあります」
いつになく真剣な瞳に射すくめられ、エヴァリナの胸は高鳴る。まるで、これまで隠されていた彼の本質が表に出てきたかのような圧力を感じつつも、彼女は「わかりました」と答えた。アレクシスはあたりを見回し、使用人たちがいないことを確認すると、廊下の先にある小さな書斎へと彼女を誘う。
書斎に入り、扉を閉めると、アレクシスは落ち着かない様子で視線を宙に泳がせた。エヴァリナが椅子に腰掛けるのを見届けると、彼も対面の椅子に座り、そのまま低い声で切り出した。
「この数日、王都から私宛に密書が届いていました。差出人は、ある貴族筋の方です。ですが、その内容にはあなたやクライスフィールド家に関する情報が含まれていて……。どうやら、アーヴィング侯爵家が裏で動き始めた可能性があるんです」
アレクシスの言葉に、エヴァリナの表情が一変する。彼が持ち込んだ文書は、王宮の内部情報に通じた誰かからの警告であるらしい。その概要はまだ彼女には伝わっていないが、聞き捨てならない内容であることは間違いない。彼女は息を飲み、手を胸元で握りしめた。
「王都で、具体的に何が……?」
「噂によると、クライスフィールド家の財政難をさらに誇張して広めようとしている動きがあるようです。具体的には、あなたの婚約破棄を利用して“クライスフィールド家が破滅寸前の経済状態にある”という風説を拡散させる計画が、アーヴィング侯爵家の一部と結託した勢力によって進められている、と。その目的は……」
そこまで言ったところで、アレクシスは言葉を切り、苦しそうに唇を噛んだ。エヴァリナは喉がからからに渇くのを感じる。やはり、レオナルドたちは彼女を傷つけただけで満足せず、クライスフィールド家そのものを潰そうとしているのだろうか。婚約破棄の際にあの場で感じた嫌な予感は、やはり現実のものとなり始めているらしい。
アレクシスは意を決したように続ける。
「……この噂を広め、実際にクライスフィールド伯爵家の資金繰りが悪化しているという“証拠”をでっち上げることで、伯爵家の信用を失墜させようとしているようです。もしそうなれば、あなたのご家族は政務に関わる権限も大幅に削られ、最悪の場合には莫大な負債を背負わされたと誤解されたまま、没落の道を歩まされるかもしれません」
「なんてこと……」
エヴァリナは身体から力が抜けそうになるのを感じた。やはり敵は、自分を社会的に抹殺しようとしているわけではなく、クライスフィールド家全体をターゲットに据えているのだ。婚約破棄というスキャンダルは、あくまでその第一歩に過ぎなかった。彼女は悔しさに唇を震わせながら、アレクシスを見つめる。
「それをあなたは、どうしてわたくしに教えてくださるの? アーヴィング侯爵家やその取り巻きたちを恐れる必要はないの……?」
すると、アレクシスは少しだけ視線を外した後、低く静かな声で答えた。
「……わたしは王宮の下級役人ではありますが、ある方の紹介でこうした内部情報を入手できる立場にあります。それがどういう経緯なのかは、今すぐにはお伝えできません。ですが、あなたの家が不当な圧力によって失脚するのは、本意ではない。それだけは確かです」
エヴァリナはアレクシスの言葉に混乱しながらも、そこに嘘はないと感じ取った。彼の瞳には複雑な決意や葛藤が混ざり合っており、単なる好奇心や打算でこんな話をするのではないという誠実さを感じる。彼が「秘密がある」と言っているのも納得できた。もしかすると、彼自身もまた王都の政治的勢力に囚われ、立場的に自由に動けない事情があるのかもしれない。
やがて、エヴァリナは震える声で言った。
「ありがとう、知らせてくださって。父や母にもすぐに伝えなければ。わたくし、ここでのんびりしているわけにはいかないわ。もう少し滞在して傷を癒やすつもりだったけれど、そうも言っていられない……」
そう、ここに留まって自然の中で心を癒やしている場合ではない。クライスフィールド家が危機に瀕しているなら、伯爵令嬢として何かしら手を打つ必要がある。以前のエヴァリナなら、父の指示を待つだけだったかもしれない。だが、婚約破棄という裏切りを経験し、初めて自分の意思で行動しようという意欲が芽生えていた。
アレクシスは彼女の決意に触れ、微かに微笑んだあと、真剣な眼差しを向けて言葉を続ける。
「王都に戻るのであれば、あなたが安全に移動できるよう、わたしも同行したいと思います。ここでの森の調査は、あと数日もあれば十分ですし、伯爵家のために少しでもお役に立てるなら、わたしとしても本望です」
「でも……あなたの立場が危うくなるのでは?」
「覚悟はしています。それよりも、あなたが一人で帰って危険に晒されるほうが……わたしは嫌です」
穏やかだったアレクシスが見せる、ほんの少し熱を帯びた視線に、エヴァリナははっと息を呑む。そこには、ただの“下級役人”以上の感情が滲んでいるように見えた。婚約破棄の痛手を受けたばかりの彼女だが、その瞳に一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚える。しかし、今はそれを深く考える余裕はない。まずは家を守るために行動しなければならないのだから。
「わかったわ。ありがとう、アレクシス。それなら急ぎの準備をしましょう。わたくしも父に連絡を入れて、できるだけ早く王都に戻るよう調整します」
エヴァリナは立ち上がり、強い決意を宿した瞳でアレクシスを見つめ返した。ほんの数日前まで、婚約破棄の傷を一人で抱え、悲しみに暮れていた自分とはまるで別人のように、彼女は毅然とした態度をとっている。田舎の別荘での静かな日々は、確かに彼女の痛みを癒やしてくれた。しかし今や、クライスフィールド家を守るため、そして自らの誇りを取り戻すために、再び動き出す時が来たのだ。
アレクシスはそんな彼女の様子を見て、微かに安心したように微笑み、「では、必要なものをまとめておきます」と告げて書斎を後にした。その後ろ姿を見送りながら、エヴァリナははっきりと自覚していた。彼はまだ多くの秘密を抱えているかもしれないが、今の彼女にとってアレクシスは頼りになる存在であり、何より婚約破棄によって深く傷ついた心を少しずつ癒してくれる数少ない人でもある、と。
(この出会いが、わたしにとって救いになるのか、それとも新たな嵐を招くのか……)
そんな不安と期待、そしてわずかな胸の高まりを抱えながら、エヴァリナは急いで自室に戻り、支度を始める。王都へ戻れば、また厳しい現実と向き合わなければならないだろう。だが、彼女は逃げない。裏切りの夜を経験した今だからこそ、立ち向かわなければならない。謎めいた青年アレクシスとの出会いと、その秘密を少しずつ知りながら、エヴァリナは新たな一歩を踏み出そうとしていた。