クライスフィールド家の田舎の別荘で静養していたエヴァリナは、王都から届いた不穏な知らせを受けると同時に、アレクシスと協力し合うことを決意して、早々に帰郷の準備を整えた。アーヴィング侯爵家の暗躍によって自分の実家が危機に瀕している可能性がある──その懸念が彼女の心を駆り立て、落ち着いた田舎の風景に名残惜しさを感じつつも、急ぎ王都へ戻る馬車に揺られていた。
数日ぶりに目にする王都の街は、相変わらず人と馬車で賑わっている。遠くに見える王城の尖塔は、どこか冷たい威圧感を放ち、エヴァリナの胸をざわつかせた。婚約破棄の噂が依然として残っているのか、馬車が屋敷の門に近づくにつれ、街角でちらりと令嬢の姿を認めた人々がひそひそと話している気配に気づく。彼女は何も言わず、背筋を伸ばして馬車を降り、父と母の待つ屋敷へと足を運んだ。
1.揺れるクライスフィールド家
屋敷に入ると、そこにはいつになく張り詰めた空気が漂っていた。使用人たちは落ち着かずにそわそわと動き回り、メイド頭がエヴァリナを出迎えに来た際にも、その表情はどこか不安げだ。彼女はすぐに父のアンセルム伯爵がいる執務室へ通されることになった。
執務室に入ると、書類が散乱した机を前に、アンセルム伯爵と母のクラリサ伯爵夫人が深刻な表情で話し合っているのが目に映る。そこにエヴァリナが姿を見せると、母が少しだけ安堵の表情を浮かべ、「よく帰ってくれましたね、エヴァリナ。あなたにはしばらく静養を続けさせたかったけれど、事態が思った以上に逼迫していて……」と低い声で告げた。
アンセルム伯爵は疲れの滲む目元で娘を見つめると、「こちらへ来なさい」と執務机の前に呼んだ。エヴァリナが父の傍へ行くと、机の上には分厚い書簡の束や、貴族会議の議事録と思しき書類が散らばっている。その中には“財政難”“負債”“担保”など、物騒な言葉が赤い線で強調されており、これがただ事ではないということが一目でわかった。
「先日の貴族会議で、我が家が『重大な財政的問題を抱えているのではないか』との疑いをかけられた。確たる証拠もないのに、我が家が軍資金や寄付金の一部を不正に扱った可能性がある、などと愚にもつかない主張が持ち上がっている。実際は何もやましいことなどないにもかかわらず、だ」
アンセルム伯爵が憤りを露わにしながら語る。話を聞いたエヴァリナは、やはり婚約破棄を機に流された中傷が、貴族会議という正式な場にまで波及していることを痛感し、その胸を痛めた。社交界の噂話であればまだしも、公式の場で取り上げられ、しかも負債の不正運用を糾弾されるとなれば、家の名誉だけでなく、政治的立場も危うくなる可能性がある。
「今はまだ“疑惑”の段階ですが、これが真実味を帯びて広がると、クライスフィールド家は王宮での権限を大きく失うかもしれない。最悪の場合、当家が代々積み重ねてきた功績も否定され、伯爵位すら危うい状況に陥りかねない」
伯爵夫人のクラリサも沈痛な表情で言葉を継ぐ。クライスフィールド家は先々代の時代から軍や王宮への寄付や援助を行い、王国に貢献してきた実績がある。それが原因で財政状況が厳しくなったわけでは決してない。むしろ、彼らは長年の資産運用と政務への協力によって、必要な範囲では十分な余力を確保しているのだ。しかし、デマが一旦広まってしまうと、特に財政面の疑惑は証明が難しく、当家に対する信用を一気に蝕んでいく。
「レオナルドが舞踏会で言いふらした“我が家の財政難”が、こうも早く貴族会議へ持ち上がるとは……」
エヴァリナは唇を噛む。やはり、レオナルド・アーヴィングとその父であるアーヴィング侯爵には、狙いがあったのだ。単に婚約破棄をするだけでなく、クライスフィールド家の政治力や家名を徹底的に貶めるために、このような仕組みを用意していたのだろう。アレクシスの密書による報告とも合致する形で、陰謀が表面化しつつある。
「私たちも、徹底的に事実を示すための資料を整えているところです。銀行との取引履歴や、軍への寄付記録の正式書類、さらには会計監査を受けた記録など、すべて時系列にまとめねばならない。とはいえ、貴族会議では表向き“疑念を晴らす”ために召喚すると言いつつ、こちらの資料や証言を受け流すようにあら探しをしてくる可能性がある。相手がアーヴィング侯爵と彼に賛同する勢力であれば、まともに弁明の機会すら与えられないかもしれない」
アンセルム伯爵の声は怒りと悔しさで震えている。誠実な人柄で知られる彼は、これまで公的な場で不正の嫌疑をかけられたことなど一度もなかった。それが今になって、裏工作による誹謗中傷で穢されようとしているのだから、いかに憤慨しているかは想像に難くない。
エヴァリナは不安を抑えながらも、父を励ますように口を開いた。
「お父さま、私もお力になりたいです。王都を離れる前、私が受けた屈辱は、きっとその序章だったのだと思います。アーヴィング侯爵家は、私との婚約破棄を利用してクライスフィールド家を追い落とそうと画策している。……それなら、私たちもそれを逆手に取って反撃しなければなりませんわ」
エヴァリナの決意に、アンセルム伯爵とクラリサ夫人は微かに驚いた様子を見せた。娘はこれまで、どちらかといえば“家のための結婚”という役割を淡々と受け入れようとする、いわゆる“模範的な伯爵令嬢”として育ってきた。その彼女が、こうして積極的に行動を申し出るのは、婚約破棄によって心境が大きく変化した証でもある。
「しかし、おまえが出て行けばまた……無用な噂を浴びせられるかもしれない。あのレオナルドやアーヴィング侯爵に揚げ足を取られる恐れもある」
「構いません。私はもう逃げませんから。……それに、私にはアレクシスという協力者がいます。王宮の内部情報に通じている可能性がある人で、先ほど屋敷へ案内をお願いしました。彼なら、きっと私たちの力になってくれるはずです」
エヴァリナがそう告げると、クラリサ夫人は少し怪訝そうな表情を浮かべた。「アレクシス……とおっしゃるのね?」。もちろん、伯爵家としては慎重にならざるを得ないだろう。下級貴族の名を持つ青年が、なぜこのタイミングでクライスフィールド家を助けようとするのか。その意図を疑うのは当然かもしれない。
しかし、エヴァリナは田舎の別荘で共に過ごした時間を思い返し、彼の真摯な態度や心遣いを信じたい気持ちがある。加えて、秘密裏に受け取った密書によって、アーヴィング侯爵家の動向を知らせてくれたのもアレクシスだ。彼がいなければ、今ごろクライスフィールド家はもっと後手に回っていたことだろう。
「わかりました。彼がどんな人物か、わたしたちも見極めましょう。……今は手段を選んでいる余裕はありません。協力してくれる者がいるなら、力を借りるべきですわ」
クラリサ夫人がそう応じると、アンセルム伯爵も小さく頷いた。こうしてエヴァリナは、両親を説得してアレクシスを正式に紹介し、クライスフィールド家の危機を共に乗り越えるための体制を整え始める。そう遠くないうちに、貴族会議で正式な弁明を求められるのは確実な情勢。彼女はその日のうちにアレクシスを招き入れ、両親と直接話し合う場を設けることにした。
2.不当な非難の数々
エヴァリナが家族と話し合いを続ける間にも、貴族会議や社交界の動きは容赦なく進んでいた。数日後、王城の一角にある議事堂で開かれた定例の貴族会議は、表向きは王国の財政や法令改正などの議題を審議する場である。だが、実際のところは互いの権力争いや駆け引きの場となることも多い。
その日の会議には伯爵・子爵クラスの貴族が多く出席していたが、開始早々、ある公爵家の代理人が「クライスフィールド伯爵家の資産状況について、王宮が追加調査を行うべきではないか」という提案をした。まるで待ち構えていたように、別の侯爵家の家令もそれに呼応し、「婚約破棄の噂も鑑みると、充分に調査する必要がある」と声を上げる。
「わがアーヴィング侯爵家としても、クライスフィールド家には一部疑問を抱いているところがございます。お互いに潔白を証明する意味でも、徹底した調査が望ましいのではないでしょうか」
そう言って堂々と口火を切ったのは、レオナルドの父、エゼル・アーヴィング侯爵その人だった。重々しい衣装を身につけ、いかにも権威を誇示するような態度で、傲岸不遜な面持ちを崩さない。彼の背後には何人もの取り巻きが控えており、彼らもまた賛同するようにうなずいている。
「クライスフィールド家は先代、先々代に渡って王宮への寄付を行ってきたことで知られておりますが、近年は軍の増強もあり、かなりの出費がかさんでいるはず。なにやら財源が限界に達しているといった噂も囁かれているようで……このまま曖昧にしておくのは、王国のためにもよくないと考えますが、いかがか」
エゼル侯爵の口上に対して、一部の議員たちは「もっともだ」と声を上げ、別の者たちは落ち着かない様子で視線を交わしている。明らかに裏で根回しをしていたのだろう、数人の議員が次々に「クライスフィールド家はきちんと説明責任を果たすべき」と主張し始め、議事堂内には嫌な緊張感が走る。かといって、そこにはっきり異議を唱えられる人物が少ないのも事実だった。名門と呼ばれてきたクライスフィールド家ではあるが、同じく力を持つアーヴィング侯爵家を敵に回すのは誰もが避けたいという事情がある。
そんな空気の中、アンセルム伯爵は落ち着いた面持ちで席を立つ。静かながらも明確な口調で、自らの潔白を主張し始めた。
「皆さまにおかれましては、クライスフィールド家への疑いがあるとのこと。しかしながら、我が家には先代から続く正当な会計報告書があり、軍や王宮への寄付に関しても正式な記録が残っております。今後、しかるべき手続きのもと、必要書類のすべてを提示させていただくつもりです。どうか、結論を急がず、我が家の説明をお待ちいただきたい」
伯爵の正論に、場内は一瞬静まる。だが、エゼル侯爵はニヤリと口元を歪め、「では、その書類はいつ提示いただけるのです?」と問いかけた。アンセルム伯爵が「早ければ来週中にも」と答えると、エゼル侯爵はわざとらしく溜息をつく。
「それはずいぶんと悠長に聞こえますね。もしや、内容を取り繕うための時間が必要というわけではないでしょうね?」
すかさず周囲から冷笑が漏れる。案の定、誠実に対応しようとすればするほど、揚げ足を取られてしまうのだ。アンセルム伯爵は動じずに「いかなる書類も正式な手続きを踏まえなければ、証拠能力を認められないでしょう。余計な疑念が生じないよう、準備を進めるのは当然です」と返すが、エゼル侯爵は意味ありげに肩をすくめるだけだった。
結局、この日は「クライスフィールド家には後日書類を提出させ、その内容を検証する」という形で議事が終わったが、周囲の雰囲気は“やはり何かあるのでは?”という疑惑が色濃く漂ったままだ。エゼル侯爵とその取り巻きは、計画通りに事を進めているという手応えを得たのか、会議を後にする際も意気揚々として見えた。
3.レオナルドの影
この日、エヴァリナは会議には参加せず、別の場所でアレクシスと共に情報収集をしていた。王宮の回廊や行政局に顔を出し、こまめに話を聞くことで、裏で誰が何を企んでいるか探ろうという算段だ。下級役人として顔の利くアレクシスが同行しているため、通常であれば立ち入りが難しい書庫の一部も閲覧許可が得られた。そこでエヴァリナが発見したのは、王宮の財務局がまとめた“軍への寄付金リスト”だった。
「ここには、クライスフィールド家が何年にどれだけ寄付をしたかが記録されている……ああ、先々代の頃から続いていますね」
埃をかぶった古いファイルをめくりながら、アレクシスが低い声で言う。エヴァリナも横から覗き込み、「確かに私たちの家紋が記されています。寄付の時期も明記されている……」と呟いた。だが、翻って見ると、アーヴィング侯爵家の名は一切載っていない。もちろん、それだけで不正を示すものではないが、アーヴィング家があれほど軍の増強に口を出しているにもかかわらず、記録に名前がないのは少し奇妙でもある。
「この資料だけで決定的な証拠にはならないかもしれませんが、少なくともクライスフィールド家が財政難を隠しながら寄付を強行している、というような事実は見当たりませんね。あなた方の家はあくまで余裕の範囲で寄付をし、王宮に貢献してきたことがうかがえます」
アレクシスの分析に、エヴァリナは少し希望を感じた。こうした公式資料をしっかりと整理して提示すれば、根拠のない疑いを晴らすことができるだろう。とはいえ、彼らが望んでいるのは“真実”ではなく“クライスフィールド家の失脚”である以上、資料を出しただけでは不十分だ。どこをどう曲解されるか分かったものではない。
二人は書庫を出るとき、廊下の端で待ち構えていた人物にぎょっとした。そこに立っていたのは、レオナルド・アーヴィングである。王宮に足繁く通っている彼は、偶然かどうか、この場所でエヴァリナたちを見つけ、近寄ってきたのだ。かつての婚約者だったエヴァリナを見つめる瞳には、嘲笑めいた色が宿っている。
「やあ、エヴァリナ。こんなところで何をしているのかな? まさか、例の疑惑を晴らそうと必死になっている……なんてことはないよね」
嫌味たらしく口角を吊り上げたレオナルドに、エヴァリナは激しい嫌悪感を覚えながらも、冷静に言葉を返す。
「おかしな言いがかりをつけられている以上、こちらとしても事実を証明する準備をするのは当然ですわ。……あなたこそ、どうしてこんなところに? 新しい婚約者の方とやらはどうしましたの?」
「アリシア? ああ、彼女はあまりこういった場所に馴染まないから、今は自宅で淑女教育を受けているところさ。それよりも、僕は父や上層部との連絡をするために王宮に来ているんだ。最近、いろいろと動きが激しくてね。……ところで、その隣の下級貴族らしき男はだれかな? まさか、君の新たな連れ合い、というわけではないと思うけど?」
レオナルドのあからさまな皮肉に、エヴァリナはかっと血が上りそうになる。それを抑えるように、隣のアレクシスが一歩前に出て、丁寧な口調で答えた。
「私はアレクシス・フェルナンドと申します。王宮の行政局に属する下級役人の身分ですが、クライスフィールド伯爵家が誤解を受けている状況を改善すべく、微力ながらお手伝いさせていただいております」
「ふうん。余計なことに首を突っ込んだりして、後々痛い目に遭わないといいけどね。……ああ、これは君を脅しているわけではないよ。ただの忠告さ」
レオナルドの唇から発せられる言葉には、嘲笑と冷酷さが滲んでいる。エヴァリナは睨み返すように彼を見上げ、「あなたの忠告など、聞く耳を持つつもりはございません」と言い放った。すると、レオナルドは面白がるように肩をすくめる。
「そうか。……まあ、婚約者だったころの君はもっと従順で、可愛げがあると思っていたけれど、こうして歯向かってくるのも悪くないかもね。あの舞踏会からずいぶん変わったじゃないか。そうやって強がっている姿も、なかなか魅力的だと思うけど?」
「っ……!」
あまりの無神経さに、エヴァリナは言葉を失う。彼にとっては、婚約破棄やその後の状況など、すべて“退屈しのぎ”程度にしか感じられないのだろうか。自分の行動がどれだけ相手を傷つけ、家を危機に晒したかを全く理解していないように見える。あるいは、分かっていても意図的に嘲弄しているのかもしれない。
「さあ、用事があるから失礼するよ。エヴァリナ、また会おう。……次はもっと面白い場面で顔を合わせられるといいね」
レオナルドは不気味な笑みを残し、王宮の奥へと立ち去っていった。エヴァリナはその背を見届けながら、胸に燃え上がる怒りと悔しさを噛み締める。あの軽薄な態度の裏に、どれだけの悪意や計算が隠れているのか。彼とその父、そして取り巻きたちが本格的にクライスフィールド家を追い詰めようとしていることは疑いようがない。
「……大丈夫ですか、エヴァリナ様」
アレクシスが気遣う声をかけてくる。エヴァリナは苦い笑みを浮かべ、「ごめんなさい、取り乱しそうになってしまって」と小声で詫びた。彼は静かに首を振り、「無理もありません。私も、彼の振る舞いには憤りを感じます」と言葉を返す。その瞳には、エヴァリナに対する同情だけではなく、レオナルドへの強い敵意の色が垣間見えた。
4.真相を暴くための準備
レオナルドとのやり取りを経て、エヴァリナの心には闘志がさらに燃え上がっていた。クライスフィールド家に理不尽な非難を浴びせ、“財政難”という虚構をでっち上げようとするアーヴィング侯爵父子とその一派。その陰謀を暴き、清廉潔白な家だということを公に示さねばならない。そうしなければ、いつまでも屈辱と不安に苛まれ続けるだろう。
エヴァリナは屋敷へ戻ると、アンセルム伯爵やクラリサ夫人、そしてアレクシスと共に作戦会議を開いた。まずは事実証明のために、あらゆる公式書類や取引記録を精査すること。そして、相手の仕掛けに対して受け身でいるだけでは危険だということが、全員の共通認識となっている。
「アーヴィング侯爵家は、我々が提示する書類をいずれ“偽造”や“改ざん”だと主張するかもしれません。そうなると、ただ膨大な書類を見せるだけでは不十分でしょう。公正な第三者、たとえば会計監査や、王宮の行政官の中でも信頼のおける人物に検証してもらうことが必要になると考えます」
アレクシスが提案すると、アンセルム伯爵はすぐに反応した。
「そのとおりだ。幸い、わたしにもかつて軍務で共に働いた仲間がいて、今は王宮の内務監査官として要職に就いている者がいる。彼なら、余計な政治的思惑に左右されず、正当な判断を下してくれるかもしれない。彼に働きかけるのはどうだろう?」
「ぜひお願いします。あくまで公式の手続きを踏んで、彼のような方の協力を得られれば、アーヴィング家も簡単には茶々を入れられなくなるはずです」
アレクシスの言葉を受け、アンセルム伯爵はすぐに手紙をしたためる準備を始めた。元軍仲間という信頼関係があれば、完全に封殺されるリスクは低いだろう。もちろん、アーヴィング家がそれを阻止しようと動く可能性もあるが、まずは一歩を踏み出さなければならない。
そして、もう一つ大切なのは、アーヴィング家が仕掛けている陰謀の“核心”を突き止めることだ。ただ貴族会議での言いがかりだけではなく、彼らはどこかで“確たるデマ”を作り出し、証拠らしきものを捏造しようとしているのではないか。そう考えたエヴァリナは、アレクシスに向き直り問いかけた。
「……あなたが前に言っていた、王宮内部の情報提供者。彼やその仲間から、アーヴィング家がどのように動いているのか、さらに詳しく探れないかしら。何かしらの偽証や不正な書類づくりの計画があるかもしれない」
「実は、わたしもすでに問い合わせをしており、近いうちに返事が来るはずです。アーヴィング家と組んでいる可能性のある貴族や官吏たちの名前を洗い出すつもりですが、そういった裏工作の実態が明るみに出れば、一気に形勢を逆転できるでしょう」
アレクシスの頼もしい言葉に、エヴァリナは小さく息をつき、心の中で小さな安堵を得る。自分が一人だったら、ここまで積極的に動くことはできなかったかもしれない。父と母、そしてアレクシスと力を合わせれば、必ずやこの陰謀を打ち砕くことができるだろう。その確信が、彼女を支えていた。
5.穏やかなひとときの裏側
とはいえ、クライスフィールド家での日常がすべて暗いわけではない。エヴァリナとアレクシスは、公務や調査の合間に、わずかな時間ながらも対話を重ね、心を通わせる機会を得ていた。例えば、夕食後に執務室で書類をまとめ終えたころ、お互いに疲れを感じたら、窓の外に広がる夜景を眺めながら紅茶を飲んだりする。そんな穏やかな時間が、彼女にとっては今の唯一の癒やしだった。
アレクシスは、王宮に出入りするかたわら、クライスフィールド家の会計書類や寄付記録の整理を手伝ってくれている。数字や書類の扱いに慣れているらしく、エヴァリナが苦戦するような細かい資料の対照にも、根気強く付き合ってくれる。その誠実な姿勢は、彼女にとって大きな心の支えだ。
「アレクシス……あなたはどうして、そこまでしてくれるの?」
ある夜、二人きりで書類の山を片付けている最中、思わずエヴァリナが問いかけた。彼はペンを走らせる手を止め、少し考え込むような表情を浮かべる。そして、ほの暗いランプの明かりの中で、静かに口を開いた。
「王宮の行政局で働いていると、いろいろな噂や不正を見聞きすることが多いんです。とくに力を持つ貴族が裏で密かに画策する陰謀を、立場上、見て見ぬふりをしなければならないこともある。正直、そんな世界に嫌気がさすことがありました。……でも、クライスフィールド伯爵家のように、真っ当に王国に貢献している方々がいるのに、それを踏みにじられるのを黙って見過ごすなんて……わたしには耐えられなかったんです」
その言葉の端々には、アレクシス自身の苦悩が滲んでいるように思えた。彼はきっと、下級役人という立場で、王宮での権謀術数を間近に見てきたのだろう。アーヴィング侯爵のような強大な権力者の不正や奸計は、往々にして闇に葬られる。自分の身の安全を優先し、権力者に迎合する道を選ぶ者が多い中、アレクシスは正義感を捨てずにここまで来たのかもしれない。
「そう……。あなたにも、辛いことがあったのね。ありがとう。あなたが協力してくださるおかげで、私はもう一度、戦おうという気力を持てています」
エヴァリナの素直な感謝の言葉に、アレクシスは微かに笑みを浮かべる。まるで、長い間踏み込めなかった領域に、二人の心が一歩だけ近づいたかのような、そんな空気が流れた。書類の山に囲まれた薄暗い執務室という場所が、どこか温かい安息の場になりつつあることを、エヴァリナは感じる。
(いつか、この騒動がすべて解決したら……わたしはどうなるのだろう?)
ふとそんなことを思い描いたとき、エヴァリナの胸はわずかに高鳴る。婚約破棄によって傷ついた心は、まだ完全に癒えたわけではないが、確かに以前の自分とは違う生き方を模索している実感がある。その先に、彼との特別な関係があるかもしれない、と考える自分がいることに気づき、少しだけ戸惑いも覚える。しかし、今はその想いを深く考える余裕はなかった。クライスフィールド家を守るという使命のほうが、ずっと大切で切実だからだ。
6.決戦への布石
そうして準備を進めるうち、王宮の行政局から正式に「クライスフィールド家の財政状況を検証するための委員会が発足した」との通達が届いた。これは、アーヴィング侯爵らが提案していた“財政難疑惑”を正式に取り扱うという意味であり、ある意味では好機ともいえる。なぜなら、この委員会の場できちんと書類と証言を示し、第三者の検証を受ければ、クライスフィールド家の潔白を確定させることができるからだ。
ただし、その委員会にアーヴィング家と結託した者が多数含まれていれば、どんな証拠を提示しても“却下”や“保留”という形で引き延ばされかねない。最終的には「不透明な部分がある」という曖昧な結論に持ち込まれる危険すらある。そこで、アンセルム伯爵は早速、かつて軍務で共に汗を流した内務監査官──名をクリストファー卿といった──へ正式に依頼を出すことを決めた。彼が委員会に参加できるよう、王宮内の人脈を通じて根回しを行い、準備を進めるのである。
一方、アレクシスも独自に“アーヴィング家が収集している噂や計画”についての情報を集め続けていた。王宮の中には、権力闘争に巻き込まれたくないがゆえに沈黙を貫く者も多いが、アレクシスのように水面下で正義を求める者も少なからず存在するらしい。彼らとの連絡を通じて、アーヴィング家がある政治家や高官、さらには商家の有力者たちを抱き込もうとしている事実が、断片的に浮かび上がってきた。
「どうやら、彼らは“クライスフィールド家が軍への寄付や資金提供を装いながら、裏では私腹を肥やしている”という偽のシナリオを作ろうとしているようなんです。しかも、その手口はかなり巧妙で、いつの間にか“クライスフィールド家が賄賂を受け取っていた”という話にすり替わっていく可能性もある」
アレクシスが話す内容に、エヴァリナは戦慄を覚えた。寄付や援助を行っている側のはずなのに、それが賄賂と逆転した形で捏造されるというのは、あまりにも悪質だ。しかし、それが成功すれば、クライスフィールド家に深刻なダメージを与えられるのは確かだろう。何より、人々の間に「火のないところに煙は立たぬ」という心象が芽生えれば、それだけで十分に家の信用を崩壊させることができる。
「なんて卑劣なやり方……。放っておけば、わたくしたちは何もかも失ってしまうかもしれない。絶対に止めなくては」
エヴァリナの瞳には怒りと決意が宿る。もう逃げるつもりはない。婚約破棄という屈辱を経て、さらに家が追い詰められている現状に対し、彼女は正面から立ち向かう覚悟を固めていた。アレクシスはそんな彼女の表情を見て、小さくうなずく。
「幸い、クリストファー卿が委員会に参加できる見込みが高いようです。彼は公平な判断を下すことで知られていますから、アーヴィング家の陰謀を防ぐ要となるはず。あとは、わたしたちがいかに迅速に確かな証拠をそろえられるか、ですね」
「そうね。それに、どこかにアーヴィング家が用意している“偽の証拠”が隠されているのなら、それを暴く手だても考えなくては。……レオナルドと彼の父は、自分たちだけが安全な場所からこちらを叩き落とそうとしている。そんなやり方を許していては、王国の未来だって危ういわ」
エヴァリナはそう強く語る。かつては“クライスフィールド家の令嬢”としてしか生きてこなかった自分が、今や家の名誉を守るためとはいえ、積極的に行動し、王宮の陰謀まで暴こうとしていることに、ひそかな驚きと手応えを感じていた。彼女はもう、あの裏切りの夜の悲しみに沈んでいるだけの存在ではない。自らの意志で戦うと決めた、新しい自分として歩み始めているのだ。
7.嵐の前触れ
こうしてエヴァリナが王都に戻ってから、それほど日は経っていないが、クライスフィールド家を巡る情勢は刻一刻と変化している。アーヴィング侯爵が主導する“財政難疑惑”はじわじわと貴族社会に浸透し、社交界ではクライスフィールド家を敬遠する声もちらほら聞こえ始めた。表面上は“静観”を装っている貴族も多いが、実際には「危ない橋は渡らない」と考える者たちが、クライスフィールド家との関わりを少しずつ避けつつあるのだ。
そんな中、エヴァリナ自身に対する風当たりも変化している。かつては「気高い花」と称され、憧れや尊敬の眼差しを向けられていたが、今や「婚約破棄された不運な令嬢」「家が没落するかもしれない令嬢」という、哀れみや好奇の視線を注がれる立場になりつつある。以前の彼女なら、それだけでも胸が締めつけられていたかもしれないが、今のエヴァリナはその視線を冷静に受け止められるだけの強さを身につけはじめていた。
(昔のわたしなら、こういう噂に心を痛めて、一人で抱え込んでしまったかもしれない。でも、もう違う。今はこの家を守るために立ち上がると決めたのだもの)
エヴァリナはそんな決意を胸に秘め、日々、アレクシスと資料整理や情報交換に奔走する。もうすぐ、王宮で正式に“クライスフィールド家の財政を検証する委員会”が開かれ、その場で彼女たちは家の正当性を証明しなければならない。そこが一つの正念場となるだろう。
一方で、アレクシスが気にかけているのは、レオナルドやエゼル侯爵が水面下で何らかの“決定打”を用意しているのではないか、という点だ。アーヴィング家に協力している貴族や官吏の中には、裏口から偽造した書類を手に入れたり、証人を買収したりして、委員会の場でクライスフィールド家を陥れる計画が進んでいるとの噂がある。
「どこかの段階で、彼らは“確たる証拠”として、わたしたちが全く知らない捏造文書や捏造証言をぶつけてくるかもしれません。そうなったら、一気に不利になる可能性が高い。……事前にそれを突き止めておかなければ」
アレクシスはそう言いながら、王宮関係者との密かな会合や情報交換を続けていた。彼が「これ以上は命の保証がないかもしれない」と覚悟を示すような場面もあり、エヴァリナはその危険性に胸を痛めながらも、彼の意志を尊重し、一緒に戦う道を選んでいる。
8.嵐の夜明けへ
そして、いよいよ委員会開催が間近に迫ったある晩、アレクシスが興奮した様子でエヴァリナのもとへ駆け込んできた。よほど急いでいたのか、息が乱れている。
「エヴァリナ様……! やはり、アーヴィング家は極めて悪質な手段を使うつもりです。わたしが確かめたところ、“クライスフィールド家が軍の武器開発費を横流ししている”という偽の書類が作成されようとしています。そこには、伯爵家が裏取引で巨額の賄賂を受け取った証拠がある、と……!」
「なっ……そんな馬鹿な……!」
エヴァリナは驚愕し、思わず立ち上がる。軍の武器開発費を横流し、賄賂を受け取ったなどという荒唐無稽な話は、まともに考えれば信じられるものではない。だが、それが“公式書類”の体裁で委員会に提出されるとすれば、疑惑を呼ぶに十分なインパクトを持つだろう。アーヴィング家側が「これこそが動かぬ証拠だ!」と高らかに主張すれば、どれだけ真っ向から否定しても、民衆や他の貴族たちには真偽を確かめようがない。
(まさに“どこかに火の手があるから煙が立った”と、人々は思ってしまうでしょうね。そんな根拠のない書類でも、大声で騒げば社会は簡単に惑わされる……)
エヴァリナは身体の奥が震えるのを感じた。怒りと不安が入り混じり、頭がくらくらする。だが、そこを踏みとどまり、今は冷静に対処するしかない。
「……それが提出される前に、どうにか阻止する方法はないの?」
「わたしが得た情報によると、その捏造文書はまだ作成段階だそうです。アーヴィング家と繋がっているある官吏が、王宮の文書作成部署で極秘裏に仕上げているらしい。完成前に手を打てば、あるいは証拠を押さえられるかもしれません」
アレクシスの言葉に、エヴァリナは迷いながらも決意を込めて頷いた。既に危険な域に踏み込んでいるが、ここで尻込みしてはすべてが台無しになる。クライスフィールド家が潔白だと証明するためには、敵が捏造しようとしている“爆弾”を先に握り潰さねばならない。彼女は強く拳を握り、アレクシスを真っ直ぐに見つめる。
「わたしたちでその官吏を探し出し、捏造文書を押さえましょう。……どんな手段があるにせよ、もう後には引けないわ」
こうして、エヴァリナはついに敵の陰謀の核心へと迫る覚悟を固めた。レオナルドとエゼル侯爵が仕組んだ落とし穴を逆手に取り、クライスフィールド家の正当性を示すための証拠を掴む──それこそが、婚約破棄から始まった苦難の連鎖を断ち切る道であり、新たな希望への扉を開く鍵となるだろう。
夜の闇が深まる王都に、静かに嵐の前触れが漂う。エヴァリナは胸の奥で渦巻く怒りと悔しさを燃料に、強く前を向いた。いかに相手が権力を持とうと、卑劣な手段で大切なものを奪われるわけにはいかないのだ。彼女の新たな闘いは、いよいよ佳境へと足を踏み入れようとしていた。