黒く塗りつぶしたような闇の夜が明け、朝の光が王都の街に差し込む頃。クライスフィールド家の居館では、エヴァリナとアレクシス、そしてアンセルム伯爵とクラリサ伯爵夫人が集い、これから始まる“審判の場”へ向かう準備をしていた。その日の正午、王宮の一角で開かれる「財政疑惑検証委員会」において、クライスフィールド家は正式に弁明し、自らの潔白を証明する最後の機会を得ることになる。一方で、アーヴィング侯爵家はあらかじめ捏造した“偽の証拠”を用意し、クライスフィールド家を完全に没落させる算段を整えているはずだ。
この数日間、エヴァリナとアレクシスは懸命に働き、王宮の闇に潜む捏造の証拠を先んじて押さえ込もうと動いていた。アーヴィング侯爵の配下として暗躍する官吏たちが、水面下で捏造文書を作成しようとしている――そんな情報を得た二人は、夜中まで奔走し、協力者たちと共に証拠の在り処を突き止める。そして、ついに前夜、捏造を画策していた中心人物の官吏が保管していた“謎の文書”を押収することに成功したのだ。
エヴァリナがその文書を受け取ったとき、そこには恐ろしい内容が並んでいた。
――さもクライスフィールド家が軍の武器開発費を不正に流用し、賄賂として私腹を肥やしていたかのような細工、宛先や印章の偽造、不正な会計処理の痕跡を捏造した書類……。
しかし、これらは専門家が検証すれば一目瞭然で偽造だと分かる。かつ、アーヴィング家の関係者がどうやってそれを作り出そうとしたのか、その繋がりも示唆する決定的な証拠が、文書の余白に残されていたのだ。細心の注意を払って捏造したつもりでも、わずかな手違いが命取りになる――この真実を確保したことで、クライスフィールド家は窮地を脱するだけでなく、逆にアーヴィング侯爵家を失脚へ追い込む切り札を手に入れたと言える。
もちろん、彼らがそれをあっさり認めるはずもない。今日の委員会では、アーヴィング侯爵家の主導で“クライスフィールド家こそが不正を働いた”という立証を図り、偽の文書を提出しようとするだろう。だが、エヴァリナとアレクシスは先回りして偽造文書を押さえたうえ、専門家と王宮の内務監査官であるクリストファー卿による厳重な検証を受ける手筈を整えている。もはや、アーヴィング家には逃げ場がない――今日こそ、婚約破棄から始まった長き戦いの幕を下ろすときだ。
1.王宮に集う人々
その日、王宮の大広間から少し離れた場所にある会議用の特別室は、委員会の開催を待つ貴族や王宮関係者で朝から慌ただしくざわめいていた。名目上は「クライスフィールド家の財政疑惑を検証するための委員会」だが、実際はアーヴィング侯爵派とクライスフィールド伯爵派の直接対決の場になることは明白である。
会議開始に先立ち、アーヴィング侯爵の息子であるレオナルドが、取り巻きたちと共に廊下を歩く姿を見かける者たちも多かった。華やかな装いに包まれたレオナルドは、あいかわらず自信に満ちた笑みを浮かべている。どうやら父の用意した“偽の証拠”をもって、クライスフィールド家を奈落の底に落とす気でいるらしい。
「はは、あの“気高い花”とやらが今さらどれほど足掻いても、もう遅い。僕らが用意した決定打があれば、彼女たちは弁明の余地もないはずさ」
レオナルドのそんな囁きを聞いてしまった若い貴族たちは、互いに顔を見合わせ、戸惑った表情を浮かべる。彼らの中には、エヴァリナが社交界で築いてきた名声を知る者もおり、「本当にそこまで悪質なことをするのか」と胸の内でざわついている者もいた。だが、レオナルドが父の威を借りて得意げに振る舞う姿を見ると、誰も下手に意見できないまま、ただ成り行きを見守るしかなかった。
一方、エヴァリナはアンセルム伯爵、クラリサ伯爵夫人、そしてアレクシスや従者たちを伴い、静かに会議室へ向かう。事前に周到な準備を済ませたとはいえ、最後の場面で何が起こるかは分からない。彼女は胸の奥に緊張を抱きつつも、まっすぐ前を向いて歩を進めた。扉の前には、すでにクリストファー卿をはじめとする公正な立場の者たちが待機しており、エヴァリナを見て穏やかに会釈してくれる。それだけで、彼女は一歩勇気をもらえる思いだった。
2.委員会、始まる
やがて委員会の開始を告げる鐘が鳴り、クライスフィールド家とアーヴィング家を含む諸侯、そして監査官や王宮の高官たちが席に着く。半円形に配置された卓の正面には、アンセルム伯爵とエヴァリナらが立ち、彼らに対して問いを投げかけるのがアーヴィング侯爵を含む“告発側”という形であった。あくまで公正な場を装うために議長役を担う高官もいるが、実際にはアーヴィング家が裏で糸を引き、場の空気を自分たちに有利に運ぼうとしているのは明らかだ。
最初に口火を切ったのは、やはりエゼル・アーヴィング侯爵。重厚な衣装をまとい、大仰な態度で弁を開く彼の姿には、獲物を追い詰めた捕食者の余裕すら感じられる。
「諸君、ご存じのように、我がアーヴィング家は以前からクライスフィールド伯爵家が王国の軍事費を不正に流用し、莫大な利益を得ている可能性があると疑念を持っていた。もちろん、わたくしは何も根拠のない中傷をするつもりはない。だがここに、“クライスフィールド伯爵家が不正を働いた”ことを示す文書の存在が確認されたと報告を受けている」
それを合図に、レオナルドが得意げに立ち上がって偽の書類――はずのもの――を差し出そうとする。ところが、その瞬間、彼の周辺がざわめいた。書類を運ぶはずだった官吏が、いつの間にか姿を消していたのだ。会場にいる者たちがあたりを見回しても、その官吏の姿は見当たらない。エゼル侯爵も怪訝そうに眉をひそめ、レオナルドに視線を送る。
「どうした、レオナルド。あの書類はまだか?」
「い、いや、おかしいな。確かに手渡したはずなんだが……」
レオナルドが焦りを滲ませる。そのやり取りを見ながら、エヴァリナは心の中で息を詰め、あくまで落ち着いた面持ちを保ち続ける。そう、この官吏こそが、昨晩アレクシスたちと共に“捏造文書”を作成していた現場から押さえた張本人なのだ。彼は不正が露見する寸前に逃れようとしたところを捕らえられ、王宮に事実を自白する寸前まで追い詰められている。今ごろ別の場所で、クリストファー卿の部下たちによって厳正な取り調べを受けていることだろう。
「……では、その書類とやらはどこにあるのです? ただの噂や臆測だけで他家を糾弾することは、王国の法に反すると存じますが」
そこへ冷ややかな声を挟んだのは、今回の委員会で公平性を担保するために出席している内務監査官のクリストファー卿だった。長年軍務で鍛えられた鋭い眼光で、エゼル侯爵を真っ直ぐに見据える。もともとアンセルム伯爵の古参の戦友でもある彼は、軍の規律と正義を何よりも重んじる人物として知られており、アーヴィング家の横暴を決して容認しない姿勢で臨んでいる。
「そ、それは……今、手元にない。少し手違いがあったようだ。だが、我が家の情報筋が得た報せによれば、クライスフィールド家が長年にわたり賄賂や不正取引で私腹を肥やしていたという事実は――」
「それならば、ぜひ“その証拠”を今ここでお示しいただきたい。噂だけを並べ立てるのであれば、我々は公正な検証を行えない」
クリストファー卿の切り返しに、エゼル侯爵は表情を硬くする。それでも必死に取り繕おうと、「書類はすぐに届くはず……」などと呟くが、一向にそれが運ばれてくる気配はない。まるで舞台劇の小道具を忘れた役者のように、アーヴィング父子の焦りは明らかだった。
この様子を見ていたアンセルム伯爵は、静かに立ち上がり、深く一礼してから口を開く。
「諸公におかれましては、どうか冷静にご判断いただきたい。クライスフィールド家が疑いをかけられている“財政難”や“不正行為”は、いずれも根も葉もないデマに過ぎません。わたくしどもは、このたびすべての会計記録や寄付履歴、さらには軍や王宮からの受領記録を整理し、監査官のクリストファー卿にも確認いただいております」
そう言ってアンセルム伯爵は、自らの補佐役を務める若い事務官に合図した。事務官が手にした分厚い書類の束には、クライスフィールド家が代々行ってきた貢献や資金の流れ、さらに王宮と軍の監査官が承認した公的記録までもが含まれている。
「もし、わたくしどもが本当に不正を働いていたのであれば、こうした公式の監査記録との不整合が生まれるはず。だが、そのような事実はまったく確認されていない。先ほど、アーヴィング侯爵は“決定的な証拠”があるとおっしゃいましたが、それが一向に出されない以上、こちらとしても何も申し上げようがありません」
エゼル侯爵は苛立ちを押し隠せなくなったのか、思わず卓を叩いて立ち上がる。
「貴様……本当に白々しい! そちらこそ裏で書類を改ざんし、証拠隠滅を図ったのではないか。われわれは決して騙されんぞ!」
その怒声に、委員会の場がざわめく。だが、今やアーヴィング家の側に立って声援を送る者は少ない。なぜなら、さきほどのレオナルドの様子からして、どうやら“決定的な証拠”が行方不明になっているらしいことは明白だからだ。騒ぎを大きくするほど、かえって自分たちの苦しい立場を晒すことになる。
ここでさらに畳みかけるように、今度はエヴァリナが一歩前に進み出た。その背筋は凛と伸び、かつての婚約破棄の屈辱を糧に成長した彼女の輝きを、室内にいる誰もがはっきりと感じ取る。
「アーヴィング侯爵様。そしてレオナルド様――あなた方は、先日の舞踏会でも私を公の場で侮辱し、クライスフィールド家が財政難だと触れ回りました。貴族会議でも同様に、私たちが不正を働いた証拠を持っていると主張しています。しかし、その証拠はどこにあるのかしら? ご提示いただけないのであれば、ただの虚偽申告ではなく、名誉毀損に当たると思いますが」
はっきりとした口調で言い切るエヴァリナ。その瞳は、レオナルドをまっすぐに見据えている。かつては婚約者という立場だった相手に、堂々とここまでの言葉を投げかける姿に、周囲の人々も胸を打たれる。彼女が味わった屈辱、そしてその後に味わった苦悩を思えば、この場で反撃する勇気は容易ではなかっただろう。
レオナルドは何か言い返そうとするが、言葉が出てこない。虚偽文書を用意した官吏がいなくなった今、どう弁明しても不自然な言い逃れにしかならないからだ。そこへ追い討ちをかけるように、扉が開いて一人の男性が姿を現した。クリストファー卿の部下である王宮の監査官で、その背後には青ざめた顔で手錠をかけられた官吏が連行されている。
「ただいま、捏造の文書を作ろうとしていた事実が判明しました。こちらの官吏より、“アーヴィング侯爵の命令で偽の証拠を作成していた”という供述が得られております。すべて詳細に記録しましたので、委員会の皆様にご覧いただきます」
その言葉が室内に響いた瞬間、エゼル侯爵とレオナルドはまるで雷に打たれたように凍りつく。観衆や他の貴族たちも大きくどよめき、一気に場内の雰囲気が変化した。カッと血走った目で官吏を睨みつけるエゼル侯爵は、「貴様、それはデタラメだ!」と怒号を飛ばすが、官吏は震える声で「事実です……」と繰り返すばかり。
クリストファー卿は厳かな口調で言い放つ。
「アーヴィング侯爵。先ほどまであなたが主張していた“決定的な証拠”とは、どうやらこの“捏造文書”のことのようですね。これは重大な犯罪行為です。無実の貴族を陥れるために虚偽の証拠を作成し、国家を騙そうとした。しかるべき審理を経て、厳罰に処されるべきでしょう」
会場の空気が震え、アーヴィング侯爵とレオナルドを中心に視線が集中する。王宮関係者の間からも、「なんという卑劣な……」「やはり噂は本当だったのか」といった声が上がり始める。もはや彼らに弁解の余地はない。クライスフィールド家を罠にはめようとした陰謀は、自分たちの首を絞める形で明るみに出てしまったのだ。
3.レオナルドの家、失脚す
すぐさま王宮の警備兵が呼ばれ、連行される官吏とともに、アーヴィング侯爵とレオナルドにも事情聴取が行われることとなった。もちろん、いきなり刑に処されるわけではないが、これだけの不正の事実が公に暴かれれば、彼らの権威は地に落ちる。その瞬間を目の当たりにした多くの貴族たちは、ひそかに安堵の溜息を漏らしていた。いつも高圧的に振る舞ってきたアーヴィング家が、まさかこんな醜態を晒すとは――誰もが、頭の中でそう呟いているに違いない。
かくして、レオナルドとその父は失脚への道を歩むことになった。王宮への影響力も剥奪され、家臣や取り巻きたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。賛同していた派閥の貴族たちも、「我々は彼らの不正など知らなかった」と手のひらを返して距離を取るのが目に見えるようだった。もともと力と威圧で地位を固めていた一門が、自らの悪行をさらけ出した格好になったのだから、その反動は計り知れない。
委員会は短時間で終了した。クライスフィールド家の疑惑は完全に晴れ、逆にアーヴィング家が国家への謀反行為を犯そうとしていたという事実が表面化したためである。王宮の高官らも、アンセルム伯爵の潔白を正式に認め、改めて彼とその家族に謝意を示した。軍上層部にも伝達が行われ、クライスフィールド家の長年の功績が改めて評価されることになった。
こうして、婚約破棄から始まった一連の騒動は、クライスフィールド家が勝利を収める形で幕を下ろした。しかし、エヴァリナの胸中には複雑な想いもある。かつては婚約者だったレオナルドが、あまりにも愚かな行為に走った末に没落の運命を辿る――その現実をどう受け止めるべきなのか。彼女は、あの日公衆の面前で受けた屈辱を思い返しながら、今や同じように周囲の視線を浴びる立場となったレオナルドの背中を見つめる。
(あの人がこんな形で失脚するなんて、想像もしていなかった。だけど……仕方ないわ。自らの誇りと、家族の信頼、すべてを裏切ったのは彼ら自身。私がどうこう言う権利は、もうないのかもしれない)
エヴァリナは小さく息を吐き、心の中でそう呟いた。恨みの感情は確かに残っているが、それ以上に、今は“これで終わった”という安堵が大きい。王都を離れ田舎の別荘へ逃げ込んだときには、まさかここまで大きな戦いになるとは思わなかったが、アレクシスや家族、そして仲間たちの支えがあったからこそ、自分はこうして堂々と“勝利”を手にできたのだ。
4.「誇り高き花」の帰還
委員会終了後、クライスフィールド家は社交界の中心に返り咲いた。婚約破棄の“スキャンダル”は、今やアーヴィング家の“不正と没落”という大事件に塗り替えられ、エヴァリナ本人は「誇りを取り戻した伯爵令嬢」として讃えられるようになる。いつもは移ろいやすい噂好きの貴族たちも、彼女の毅然とした態度や、家のために尽力した姿勢を高く評価しはじめたのだ。
ある日の夕暮れ、王都の大通りを馬車で移動していたエヴァリナは、街角で自分を見かけた貴族夫人がにこやかに挨拶を送ってくるのを目にする。少し前までは「あの破棄された伯爵令嬢……」と陰口を叩かれていたことを思えば、その態度の豹変ぶりに苦笑を禁じ得ない。しかし、これが社交界というものだとも知っている。今度はそれに振り回されないよう、自分自身の足でしっかりと未来を見据えていく――そう、改めて心に誓った。
自宅の屋敷に戻ると、クラリサ伯爵夫人が朗らかな笑みを浮かべて出迎えてくれた。夫人自身も、長らく張り詰めた気持ちでいたのだろう、最近はエヴァリナが在宅しているときには、積極的に世間話などを交わすようになった。まるで、かつての穏やかな日常を取り戻したかのようだ。
「お帰りなさい、エヴァリナ。ちょうどあなたに会わせたい方がいるのよ。……入っていただけますか?」
母がそう声をかけると、執事が居間に通したのは、アレクシスの姿だった。いつもよりやや改まった衣装を身につけているが、軽く頭を下げる彼の仕草はやはり素朴で、どこか安心感を与えてくれる。
「アレクシス様が“ぜひご挨拶を”とおっしゃるものだから、お父さまもわたくしもお待ちしていましたの。さあ、ゆっくりお話なさいな。わたくしたちは奥の書斎におりますので、呼んでくださればすぐに参りますわ」
意味ありげに微笑む母に促される形で、エヴァリナとアレクシスは二人だけで応接室に通される。そこは夕陽が差し込む窓辺が美しく、淡いオレンジ色の光が室内をやわらかく染めていた。いつも一緒に書類を整理していたときとは違う、ほのかに緊張感の漂う空気。エヴァリナは少しだけ胸を弾ませながら、アレクシスを招き入れる。
「……今日はどうしたの? わざわざ正式に父と母にも会って……」
すると、アレクシスはまっすぐエヴァリナの目を見つめ、静かな声で切り出した。
「クライスフィールド家の危機が解決した今、わたしは改めてあなたに伝えたいことがありまして……伯爵様にも、そのお許しをいただきたいと思っています」
その瞳は揺るぎない決意を帯びている。エヴァリナは胸がどきりと高鳴り、やがて黙ったまま頷いた。彼女もまた、感じていたのだ。アレクシスへの想いが、単なる友情や信頼を超えて、もっと特別な感情へと変化しつつあることを――この人となら、自分は“家のための結婚”ではなく、本当に心を通わせる人生を歩めるかもしれない、と。
アレクシスは少しだけ息を整えた後、しっかりとエヴァリナの手を取る。
「あなたがレオナルドの裏切りに傷ついた姿を見たとき、わたしは何としても力になりたいと思いました。もともと王宮で働く中で、権力者の横暴に嫌気が差していたわたしは、あなたの誇り高さや優しさに触れ、心から敬意を抱くようになったんです。……最初はただの同情だったかもしれない。けれど、あなたが懸命に家を守ろうと奮闘する姿を見ているうちに、その強さや気高さに惹かれ、次第に恋心へと変わっていきました」
真摯な言葉に、エヴァリナの目尻には熱いものがこみ上げる。彼がいなければ、あの田舎の別荘で立ち直るきっかけを得られなかった。自分に誇りを取り戻してくれたのも、共に陰謀に立ち向かってくれたのも、アレクシスその人だ。好きになるのは当然の流れだったのかもしれない。
「わたしは下級貴族で、あなたのような高貴な伯爵令嬢に見合う身分ではないかもしれません。それでも、あなたがこの先、何か困難に直面したときは、必ずお側で支えたい。……どうか、わたしと一緒に未来を歩んでいただけませんか」
アレクシスの手が、少し震えているのがわかる。きっと、これまでにも勇気を振り絞ってきたが、今が最も大きな“賭け”なのだろう。エヴァリナはそんな彼の心情を想い、今度は自分から手を重ねるように握り返す。
「あなたは、わたくしの家を救ってくれた大切な人……それだけじゃない。あなたの誠実さ、優しさ、そして何より自分の信念を貫こうとする強さに、わたくしも惹かれました。身分なんて関係ありません。わたくしは、あなたと共に生きたいと思っています」
その返事に、アレクシスは驚いたように目を見開いた後、言葉にならないほどの喜びを滲ませて、エヴァリナの手をぎゅっと握りしめる。まるで、長く続いた嵐の夜を抜け、ようやく日が射した朝を迎えたかのような、そんな安堵と幸福が二人の間に満ちていく。
その後、アンセルム伯爵とクラリサ伯爵夫人のもとへ報告に行くと、二人はまるで分かっていたかのように穏やかな笑みを浮かべ、娘の選択を祝福してくれた。もちろん、下級貴族との結婚は社交界では珍しい形かもしれない。だが、クライスフィールド家は政治力や財力だけでなく、人の心を大切にする家柄だ。実直な人柄を持ち、娘を苦難から救ってくれたアレクシスを拒む理由など、どこにもなかった。
5.新たな未来のために
こうして、エヴァリナはアレクシスの告白を受け入れ、正式に結婚を視野に入れた交際を始めることになる。しばらくは王都の政務や家の行事も立て込むが、やがて時期が来たら盛大な婚礼を挙げることを、家族とも相談して決めていく予定だ。かつての婚約――レオナルドとの結びつきが、いかに脆く醜い策略で彩られていたかを思えば、今度こそは心から祝福される幸せな結婚を手にするのだと、エヴァリナは胸を躍らせる。
そこへ飛び込んできたのは、かつてエヴァリナと親しかった友人たちからの祝賀の声だった。特に、一度別荘で彼女を励ましてくれたカトレア・ロウランド子爵令嬢は、何もかもが終わったタイミングで屋敷を訪ねてきて、エヴァリナをぎゅっと抱きしめた。
「エヴァリナ、本当によかったわね! あなたが苦しんでいた頃を知っているから、こうして笑顔を取り戻せたことがわたしも嬉しいの。……それにしても、まさかあのアーヴィング家があっという間に失脚するなんて、驚いたわ」
彼女の口調はやや茶化すようでもあったが、心底ほっとしているのは一目瞭然だ。エヴァリナは「ありがとう、カトレア。あなたが勇気づけてくれたから、わたくしは立ち直れたのよ」と素直にお礼を告げる。カトレアが笑顔で「そう言ってもらえると光栄だわ」と応じる様子は、かつて幼かった頃のままの関係性を思い出させる。そう、彼女はもう“婚約破棄の可哀想な令嬢”ではないのだ。誇りを取り戻し、新たな恋に踏み出した“エヴァリナ・クライスフィールド”として、再び社交界に花を咲かせる――その準備は、すでに整っている。
6.誇り高き花、再び咲く
それからしばらくして、王都では盛大な舞踏会が開かれることとなった。アーヴィング家の失脚騒動が収まったあと、国王が「不穏な空気を払拭し、国を挙げて新たなスタートを切ろう」という意図で催した祝賀の舞踏会である。かつてエヴァリナは、あの屈辱の夜会でレオナルドから婚約破棄を突きつけられ、多くの人々の前で恥をかかされた。その記憶が頭をよぎり、不安がないと言えば嘘になる。
しかし、今の彼女はもう違う。朝早くからドレスを身にまとい、軽く髪をまとめて鏡に映った自分を見つめると、そこには凛とした輝きを放つ一人の女性が立っている。控えめだが上品な装飾が施されたドレスは、伯爵令嬢としての気高さを表しつつも、どこか奔放な意志の強さを感じさせる。それはまさに、試練を乗り越えたエヴァリナの新たな姿にふさわしい装いだった。
「エヴァリナ様、お支度は整いましたか?」
扉の向こうからアレクシスの声が聞こえる。彼は既に支度を済ませ、今日は正式にクライスフィールド家の一員のようにエヴァリナをエスコートする役目を担っている。まだ形式上の婚約発表には至っていないものの、アンセルム伯爵とクラリサ伯爵夫人は二人の関係を公に認めており、社交界でも“遠からず結婚する”という噂が流れ始めているのだ。エヴァリナは微笑を湛えて扉を開き、アレクシスに腕を預ける。
「行きましょう。もう、わたくしは逃げも隠れもしないわ」
そう言ってホールへ向かう階段を並んで下りる二人。その姿を使用人たちはまぶしそうに見つめ、やがて「お幸せに」という声をそっと漏らす。エヴァリナは心の中で“ありがとう”と呟きながら、一歩ずつ足を進めていった。
夜会の会場に足を踏み入れた途端、エヴァリナは多くの視線を浴びる。だが、今度は恥をかかせようという悪意よりも、これまでの彼女の苦難を知る者たちの祝福や憧れ、好奇心を孕んだ視線が多いのを感じる。彼女は少しだけ顎を上げ、しなやかな笑みを浮かべて応える。
(わたくしは、クライスフィールド伯爵家の令嬢エヴァリナ。婚約破棄の屈辱を乗り越え、真実を暴いて家を守り抜き、そして自分自身の幸せを掴もうとしているの。もう、誰に何を言われても構わないわ)
そう思うと、先の舞踏会の苦い記憶に怯える自分はどこにもいなかった。人々の前でさえぎなく振る舞い、アレクシスと共に会場を歩む。その隣で彼は照れ臭そうに笑っているが、エヴァリナからすると、その些細な反応までが愛おしい。
やがて開幕の合図と共に、華やかな音楽が鳴り響き、舞踏が始まる。アレクシスがエヴァリナに手を差し出し、「一曲踊っていただけませんか?」と微笑む。周囲には多くの貴族たちが視線を注いでいるが、エヴァリナは少しも臆することなく、優雅に一礼してその手を取る。
レオナルドのように、“形だけ”を取り繕うパートナーではない。言葉の奥底に偽りや駆け引きは存在せず、あくまで純粋に「あなたと踊りたい」という想いが伝わってくる。それが何より嬉しく、胸をときめかせる。
軽やかなステップでホールを回りはじめる二人を、周囲は羨望と祝福の眼差しで見守る。エヴァリナはふと、アレクシスの肩越しに、かつて自分をあざ笑った令嬢や貴族たちが、今や感嘆の溜息を漏らしているのを認めた。自分はもう誰かの道具でも、“ただの飾り”でもない。自ら選んだ道を歩み、自らの力で未来を切り開く――その喜びが心から溢れてくる。
曲が終わると、アレクシスが小声で囁いた。
「あなたはやはり、とても美しい。……そして何より強い。わたしはそんなあなたを、心から誇りに思う」
「ありがとう。わたくしも、あなたとこうして踊れる日が来るなんて思わなかった。今なら胸を張って言えるの。……わたしはあなたと共に、この王都で、そして家族や友人たちと共に、新しい未来を築いていきたい」
その言葉に、アレクシスは満面の笑みを浮かべ、そっとエヴァリナの手の甲に口づけを落とす。会場の照明が二人を照らし、周囲の喧騒がまるで遠いものに感じられる刹那――彼女は、自分が新たな一歩を踏み出したことをはっきりと確信した。
7.明日を見つめる瞳
こうして、エヴァリナはアーヴィング家との陰謀合戦に終止符を打ち、社交界における名誉も完全に取り戻した。婚約破棄という屈辱的な形で始まった事件だったが、最後には“誇り高き花”の名を、さらに揺るぎないものとして知らしめる結果となったのだ。
家を守り抜いた誇り。痛みを乗り越えた強さ。何より、大切な人を手に入れた幸福――それらが今のエヴァリナに満ち溢れている。まだ道の途中ではあるが、もう二度と過去のように他人の意向だけに流されることはないだろう。アレクシスと共に歩む未来は、きっと自分自身の意志で彩られるものとなるはずだ。
夜会が終わり、馬車に揺られて屋敷へ帰る途中、エヴァリナは窓の外に広がる星空を仰ぎ見た。かつて田舎の別荘のバルコニーで見上げた夜空が、走馬灯のように蘇る。あのとき胸を締めつけていた悲しみが、今ではこんなにも遠い。
隣に座るアレクシスはそっと彼女の手を取り、微笑んだ。
「あなたがこうして笑顔を取り戻してくれて、本当に嬉しい。これからも、つらいことや困難はあるかもしれないけれど、わたしはずっとあなたのそばで支えになります。共に未来を切り開こう」
彼の言葉に、エヴァリナは目を潤ませながら小さく頷く。もう、何も恐れることはない。レオナルドやアーヴィング家の呪縛も解かれ、かつての自分から一歩踏み出した“本当のわたし”として、新たな人生を歩んでいける。
王都の夜に煌めく星々は、まるで祝福するかのように瞬いている。それは、彼女がついに手に入れた自由と愛、そして家族の絆を照らす光。そう感じながら、エヴァリナは静かに目を閉じ、深呼吸した。
(ありがとう、お父さま、お母さま。それから、わたしを支えてくれた皆。わたしはもう、逃げたりしない。クライスフィールド家の令嬢として、誇りを胸に咲き誇ってみせる。……大切な人と共に歩む、わたしだけの未来を)
馬車がクライスフィールド家の正門に到着すると、そこには執事やメイドたちが灯りをともして待ち受けていた。夜の静寂を破ることなく、エヴァリナとアレクシスはしっかりと手を繋いで降り立つ。白い石畳に足を踏みしめた瞬間、新しい人生の幕開けを告げるかのように、風がそっと二人の間を吹き抜けた。