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拾われた私はシンデレラ?シンデレラは、終身雇用される
拾われた私はシンデレラ?シンデレラは、終身雇用される
ゆる
恋愛現代恋愛
2025年05月25日
公開日
3.8万字
完結済
連勤続きで心も体もボロボロになったOL・麻衣は、ある夜、ついに路上で倒れてしまう。 目を覚ますと、そこは豪華なホテルのベッドの上。目の前にいたのは――異国の王子様!? 「君を終身雇用したい」 突拍子もない提案に戸惑いながらも、麻衣は“観光案内役”として王子・エリオットに期間限定で雇われることに。 だが、仕事のはずがなぜか毎日がまるでデート!? 高級ディナーに豪華なプレゼント、そして甘い言葉の数々。 戸惑いながらも、麻衣の心は次第にエリオットに惹かれていく――。 一方で、ブラック企業からの復職圧力、自分にはふさわしくないという不安。 それでも彼は言う。 「永久就職しないか?」 異国の王子様と平凡なOLの、笑ってときめく溺愛ロマンス。 “終身雇用”の意味が、今日も麻衣をドキドキさせる――。

第1話 運命の出会い

 夜の街は、まるで見えない闇に包まれた迷宮のようだった。昼間とは違い、まばらにしか行き交わない人の姿が、その静寂を余計に際立たせている。ビルの窓からこぼれる明かりは、深夜に差しかかるにつれてどんどん数を減らし、人気のない路地裏には疲れ果てた空気だけが漂っていた。


 そんな中、白井麻衣(しらい まい)は重い足取りでアスファルトを踏みしめていた。勤め先であるブラック企業の過酷な残業を終え、ようやく会社を出たのは日付が変わる寸前。タクシーに乗るお金などとても余裕がなく、仕方なしに駅から十分ほどの道のりを歩いて帰宅する日々を繰り返している。

 夜風は肌寒く、薄手のジャケット越しに疲労と冷気が染み込んでくる。会社を出たときは「今日こそは早く休める」と思ったが、それでも帰宅は深夜。心も体も限界を超えつつあるという自覚はあるものの、明日の仕事のことを考えると気が休まらない。

 「はあ……どうしてこんなに働いてるんだろ……」

 自然と吐き出された溜息は、虚空に消えていく。せめて週末が休みなら、もう少し心にもゆとりが生まれるのに――そんな当たり前の思考すら贅沢に感じてしまうのが今の麻衣の現実だった。


 無意識に自分の足を見下ろす。ここ数日、立ち仕事や移動が増えて、靴を買い替えようかと思いつつ、面倒で後回しにしていた。ハイヒールの先は擦り減り、微妙に傾いている。それでも会社の規定で「きちんとした靴を履くように」と言われている以上、スニーカーに履き替えるわけにもいかないのだ。

 「……靴屋に行く時間も取れないなんて……」

 情けなくなる。しかし、仕事が終わるのはいつも遅い。休める休日は、家で倒れるように寝て終わる。靴を新調する暇などないし、給料も安くはないが、残業や休日出勤の疲れを癒やすためにマッサージや医療費がかさんでしまい、余裕があるわけではなかった。

 そんなことを思い巡らしながら、うなだれ気味に歩いていたそのとき。

 唐突に足元で「パキッ!」という嫌な音が鳴り響いた。

 「えっ……?」

 一瞬、何が起きたのかわからなかったが、次の瞬間、ヒールが大きく傾ぎ、麻衣の身体はバランスを失う。どうすることもできず、その場に倒れ込んでしまった。

 膝と手のひらをアスファルトに打ち付ける。硬い路面の冷たさが全身にしみわたり、痛みとともに頭がぐらりと揺れた。

 「いたっ……なに、これ……」

 折れたヒールが足元で転がっている。無茶な酷使を続けていた結果なのか、あるいは運の尽きか。いつかこうなる気がしていたが、よりによって今日、このタイミングかという不運に泣きたくなる。

 膝をついたまま立ち上がろうと試みるが、全身から力が抜け、思うように体が動かない。いつもなら少しの怪我で済ませられそうなところだが、疲労は想像以上に蓄積されていて、抵抗する気力さえ削り取っている。

 ――もう、限界なのかもしれない。

 麻衣はうっすらとそう思った。頬に触れるアスファルトがひんやりとして心地よい。まるで体温を吸い取られていくようで、意識が少しずつ遠のいていく。

 「……地面、冷たくて気持ちいい……このまま意識が遠のいて……あれ、これって異世界に行くフラグじゃない?……もう、いっそ行っちゃえ……行ってきます……」

 弱々しい声でそう呟くと、瞼が重く下りていく。このまま眠ってしまえば、すべてが終わってしまうのでは――そんな諦念とともに、麻衣は深い闇に落ちていった。


 一方、そんな麻衣の姿を目撃したのは、金髪碧眼の青年、エリオット・レガリア。彼は異国の王子でありながら、日本の街を視察という名目で訪れていた。もっとも、視察といっても真剣な調査や会合というよりは、自由気ままに観光やショッピングを楽しんでいるようなもの。夜の東京は彼にとって、新鮮な驚きと興奮をもたらす冒険の場だった。

 複数のボディガードに囲まれながら、高級車で移動していたエリオットは、ふと道端で人影が倒れているのを見つけて思わず声を上げる。

 「……あれは?」

 車を止めさせ、近づいてみると、そこには靴が脱げ落ちたままの女性がぐったりと横たわっていた。片方のヒールは根元から折れ、まるでシンデレラの靴の残骸が落ちているかのようだ。だが、そのシンデレラ本人も一緒に倒れているとは、エリオットにとって予想外だったらしい。

 「……シンデレラの物語では、靴だけが落ちるはずなのに……今回は、シンデレラ本人まで落ちてるとは?」

 エリオットは皮肉混じりにそう呟きつつ、ボディガードたちに的確な指示を出した。

 「この人を安全な場所に運ぼう。私のホテルへ連れて行って。」

 ボディガードが抱き上げようとすると、エリオットは一歩先に進み、自ら女性を抱き上げる。

 「こんなに軽い……相当疲れてるのか……」

 おそらく栄養も休息も足りていないのだろう。麻衣の頬は青ざめ、呼吸はか細い。エリオットはそんな彼女をいとおしむように見つめながら、車へと慎重に運び入れた。


 それからしばらくして、麻衣はふかふかのベッドの上でまどろむように意識を取り戻す。瞼を開けると、最初に目に飛び込んできたのは、高い天井と眩いシャンデリアの光。次に視界に入ったのは、繊細な装飾が施された家具がずらりと並ぶ、まるで映画のセットのように豪華な部屋の光景だった。

 「……なにこれ?……まじで転生?」

 麻衣は呆然とつぶやきながら、周囲を見渡す。壁紙はヨーロッパの宮殿を思わせるデザインで、床に敷き詰められたカーペットはまるで雲の上にいるかのように柔らかそうだ。ベッドに身を沈めれば、体の疲れも全て吸い取ってくれそうなほど高級感に満ちている。

 「ひょっとして、私、貴族のお嬢様になっちゃった?」

 冗談めかしてそうつぶやいてみるが、自分の腕にチラリと目をやった瞬間、非現実的な妄想は一気に打ち消された。腕には見覚えのある細い管――そう、点滴チューブが繋がれているのだ。

 「……点滴?……って、なにこれ?異世界じゃなくて病院?」

 だが、どこからどう見ても一般的な病院の雰囲気とはかけ離れている。いくら個室や特別室と言っても、こんなに豪華な内装は聞いたことがない。

 「病院にしては……いや、豪華すぎない!?これ、特別室とかいうやつ?」

 麻衣は額に手を当て、状況を整理しようとする。頭はまだぼんやりしていて、連勤の疲れが完全には抜けきっていない。

 「やばい、これ診療代とか払えないやつじゃん……!」

 金銭面の不安が真っ先に頭をもたげる。それもそのはず、ブラック企業といっても給料は平均より少し良い程度で、そこから毎月の家賃や生活費を差し引くと貯蓄はほとんどない。こんな高級ホテルの特別室(なのか病室なのかすら不明)に長居できる財力なんてあるわけがなかった。


 だが、そんな恐怖めいた思考を断ち切るように、部屋のドアがノックされ、そして金髪の青年が入ってきた。まるでモデルのように整った顔立ちに、柔らかい微笑みを湛えている。

 「目が覚めたんだね。気分はどう?」

 その瞬間、麻衣はさらに混乱した。日本語を話しているようだけれど、どこか発音に独特の抑揚がある。何より、見た目がまるで絵本から飛び出してきた王子様のようだったからだ。

 「えっ、なにこのイケメン……天使?」

 そう呟きそうになるのを必死で飲み込み、麻衣はなんとか言葉を探そうとするが、口がうまく動かない。

 「……あの……すみません。ここ、どこ……?」

 ようやく絞り出した問いに、彼は「落ち着いて」と言わんばかりに優しく微笑む。

 「ここは僕の滞在先のホテルだよ。君が路上で倒れていたのを見つけたから、保護させてもらったんだ」

 麻衣の中で断片的な記憶が蘇る。夜道でヒールが折れ、倒れ込んだ。そこで意識が遠のき……それっきり。

 「拾った……というと、なんだか変な言い方ですけど……」

 辛うじてそう返すと、青年はおどけるように肩をすくめた。

 「そうだね。路上に落ちていたから拾った。それだけのことさ。ゆえに、君の所有権は僕にある……って冗談だけど、どう?」

 「はあ? 人を物みたいに言わないで!」

 麻衣は思わず語気を強める。見知らぬ相手の失礼な冗談に、戸惑いとわずかな怒りを抱いたのだ。だが、相手はすぐに「冗談だよ」と返す。

 「冗談なんか……たちが悪いわね……」

 小さくため息をつきながらも、麻衣は自分が命を救われた事実を思い出す。

 「一応、保護してくれたんですよね。……ありがとうございます。衰弱してた状態で路上で寝てたら、確かに命に関わっていたかも……」

 深々と頭を下げると、青年――エリオットと名乗った彼は満足げに微笑む。

 「お礼を言ってくれるなら嬉しいよ。具合はどうだい? まだしんどいなら、ここで休んでいくといい」

 麻衣はベッドに身を預けつつ、あらためて彼の姿を上から下まで観察する。金色の髪、青い瞳、すらりとした体格。高貴な雰囲気を持っているが、どこか親しみやすそうな笑顔を浮かべていて、嫌な感じはしない。

 「……ありがとう。正直、まだ体がだるくて……」

 そう答えると、エリオットは「無理しなくていいよ」と優しく促す。

 「それにしても、どうしてこんなに疲れていたんだ? 何か重い病気とかじゃないだろう?」

 彼の問いに、麻衣は自嘲気味に笑ってみせる。

 「いえ……病気ってわけじゃないんです。ただ、会社が……ちょっと忙しくて」

 「会社? ああ、日本で働いているんだね」

 「はい。毎日残業ばっかりで、休日出勤も多くて……。まあ、俗に言うブラック企業ってやつですね」

 ブラック企業――その単語に、エリオットは怪訝な表情を浮かべた。明らかに不快そうに眉をひそめる。

 「ブラック……? 聞いたことはある。従業員を酷使して、心や身体を壊すほど働かせる会社、だろう? まさか、君がそこに勤めているとは……」

 麻衣は苦笑いを浮かべる。これ以上彼に迷惑をかけたくないと思いつつ、今の会社をすぐに辞められない複雑な事情も胸に抱えている。

 「辞めたい気持ちはあるんですけど、そう簡単にもいかなくて……。生活もあるし、転職ってなると勇気がいりますし……」

 「生活のために命を削るなんて、本末転倒じゃないか。まったく……その会社はおかしいな」

 エリオットの声が一段と険しくなる。彼は少し考え込むような素振りを見せ、それから決意を固めたようにこう言った。

 「そんなクレイジーな会社、辞めてしまえ。……君を雇うよ」

 「はあ? 雇うって……どういうことですか」

 麻衣は思わず目を瞬かせる。彼は言葉通り「君を雇う」と断言したが、その意味がまるでわからない。

 「僕はレガリア王国の第二王子、エリオット・レガリア。日本文化を学ぶために来日しているし、今はそれなりに自由に動ける立場なんだ。だから、君があの会社で無理に働く必要はない」

 王子――確かにそんな単語が頭をよぎったが、まさか本当に王族だとは夢にも思っていなかった麻衣は唖然とする。

 「ちょ……王子って、本当に……?」

 「冗談にしては手が込んでいるだろう? 証明は後でいくらでもできるよ。とにかく、君がブラック企業で壊れるのは見ていられない。僕が君を雇うから、安心して退職したまえ」

 何を言っているのだろう、この人は。麻衣は頭の中がぐるぐると回り始め、めまいすら感じる。

 「やめてしまえって……そんな、明日から無職になるわけにはいかないんですよ。家賃もありますし、ローンだって……」

 「君の費用は、僕が面倒を見る。観光案内役としての給料も払う。それでどうだい?」

 さらりと信じがたい提案をされて、麻衣は言葉に詰まる。いくら何でも話が飛躍しすぎている。確かに、倒れたところを助けてくれたのは感謝しているが、だからと言って「終身雇用」なんて、まるで童話や漫画のような展開だ。

 「……うそ、でしょ。なんで私なんかを雇うんですか」

 困惑気味に尋ねると、エリオットは少し照れたような表情を見せた。

 「うーん……最初に言ったろう? 路上に落ちている君を見て、放っておけなかった。それに、僕は旅先で孤独を感じることが多い。文化の違いもあるし、誰か信頼できる人に傍にいてほしいんだ。君は優しそうだし、誠実だ。最初は冗談まじりに言ったけど、本気で考えてる」

 あまりにもまっすぐな言葉に、麻衣の心はわずかに揺れる。彼の青い瞳には、偽りや打算のようなものを感じられなかった。

 「観光地なんて、ネットやナビで調べればいいじゃないですか。わざわざ私に案内させる意味、あるんですか」

 「ネットやナビで場所はわかるけど、それじゃつまらない。人との会話や、その土地の空気を一緒に感じることに意味があるんだ。僕は男同士で回るのは退屈だし、ボディガードばかりじゃ気も休まらない」

 「……それで、私と?」

 「そう。君となら楽しめる気がするんだ。あと、僕は君に恩を売りたいわけじゃない。むしろ、君の人生を救いたい……そう思った」

 最後の言葉には力がこもっていた。王族としての責任感、あるいは個人的な感情――いずれにせよ、彼は麻衣に対して真剣に「救いの手」を差し伸べているように見える。

 「……でも、あまりにも急すぎます。すぐに退職なんて、会社に手続きとか挨拶とか、いろいろありますし……」

 麻衣が弱々しく言い訳をすると、エリオットは不満げに眉を寄せる。

 「そんな会社を円満に辞められると本気で思ってるのか? どうせ慰留されるか、嫌味を言われるか、退職金を渋られるだけだろう。それならいっそ、黙って去ってしまえばいい。僕がサポートする」

 「黙って……そんなわけには」

 「仮にトラブルになったら、僕の弁護士を呼ぼう。退職金を出さないなら、その分は僕が出す。とにかく君が壊れる前に会社をやめさせたいんだ」

 それをどこか「当たり前だろう?」という調子で言われ、麻衣は言葉を失う。何とも現実離れした提案だが、彼の言葉には一貫した優しさと強い意志がある。

 ふと、麻衣は思う。もし、ここで彼の申し出を断ってブラック企業に戻ったら、自分はまた同じ生活に押し潰されるのではないか――と。倒れるまで働いて、またいつか取り返しのつかない怪我や病気になってしまうかもしれない。そう思うと、目の前に差し出された“救いの手”が、どれほど貴重なものかを感じずにはいられない。

 「……ちょっとだけ、考えさせてもらえますか。いきなりすぎて、頭の整理が追いつかないんです……」

 少なくとも今日は、この豪華な部屋で休み、体力を回復させる。それから冷静になって、ちゃんと考えよう――そう結論づけて、麻衣はエリオットに視線を戻す。

 彼は穏やかに微笑んで頷いた。

 「もちろん。急に押しつけがましい話をして悪かったね。身体を休めるのが先決だ。ドクターが、君にはまとまった休息が必要だと言っていた」

 そう言い残して、エリオットは一礼し、部屋を出ていった。麻衣はふうっと息を吐き、もう一度柔らかな枕に頭を沈める。

 「……ほんとに、どうなっちゃうんだろう……」

 明日からまた会社に出て、残業漬けの日々を続けるのか。それとも、彼の言う通り退職し、観光案内役として働くのか。信じ難い話だけれど、選択は自分に委ねられているようだ。

 思考は混乱の渦を巻き、なかなか答えなど出そうにない。だけど、せめて今夜だけはぐっすり眠れるだろう――そう思うと、疲れ切った意識は再び優しい闇に誘われ、瞼が重く落ちていった。


 翌朝、麻衣はどこかすっきりした気分で目を覚ました。疲れは完全には取れていないが、少なくとも連勤のときより遥かに体調がいい。見れば、点滴もすでに外されているようだ。

 「おはようございます、白井様。体調はいかがでしょうか?」

 部屋に入ってきたのは、白髪混じりのオールバックに、メガネをかけた執事風の男性。上品な笑みをたたえながら、彼女に丁寧に声をかけてくる。

 「ええと、あなたは……?」

 「私はカルロスと申します。エリオット様に仕えている執事でございます。ドクターからは、白井様はもう点滴が不要とのことでしたので、先ほど外させていただきました。ご気分を害されることはありませんでしたか?」

 麻衣は「あ、はい、大丈夫です」と慌てて返す。いつもは見慣れない礼儀正しさに緊張してしまうが、カルロスは終始にこやかなまま、手元のタブレットらしき端末を操作していた。

 「では、朝食の準備をいたしましょう。お召し上がりになれるようであれば、食堂へご案内いたしますが、いかがなさいますか?」

 「しょ、食堂……?」

 ホテルの部屋に食堂があるということは、かなり広いスイートルームか、もしくはレストランフロアが専用貸し切りなのかもしれない。どちらにせよ、麻衣が普段利用しているようなビジネスホテルとはまるで別世界だ。

 (この人たち……本当に王族なんだ……)

 そう思わずにはいられない現実が、じわじわと迫ってくる。

 「エリオット様はすでに朝の散歩に出ておられますので、お戻りになったらご一緒に朝食をどうぞ、とのことでした」

 「わ、わかりました。ありがとうございます」

 カルロスに手を借りてベッドから起き上がった麻衣は、まだ少しふらつきつつも何とか自力で歩けることを確認する。執事の完璧なサポートのもと、簡単に身だしなみを整え、用意されたふんわりとしたワンピースに着替えると、自分の姿に一瞬「誰?」と戸惑った。

 「これ、私が着てもいいんですか……?」

 「ええ、もちろんです。エリオット様のご用意ですので、どうぞお気兼ねなく」

 いつの間にかサイズまで調べられていたのか、ワンピースはちょうどよくフィットしていた。麻衣は恐る恐る廊下に出て、カルロスに先導されるまま食堂へ向かう。

 食堂と呼ばれた空間は、間仕切りのある豪華なダイニングルームだった。テーブルクロスには上質な布が使われ、グラスやプレートが整然と並べられている。香り高いコーヒーとパンの香ばしい匂いに、麻衣の胃が思わず反応した。

 「お腹、減ってたんだな……」

 思わずそんな言葉が漏れる。そういえば昨日はほとんど何も食べていないし、倒れる前もコンビニのおにぎり一個程度だった。

 「おや、もう起きたのか。大丈夫そうで安心したよ」

 振り向くと、窓際に立っていたのはエリオットだった。ラフなシャツにパンツという軽装だが、その立ち姿はどこか貴族的な風格を漂わせている。

 「おはようございます。……えっと、昨日は本当にお世話になって……」

 麻衣が改まって頭を下げると、エリオットは「気にしなくていいよ」と笑顔で受け止める。

 「むしろこれからどうするかが大事だ。君、ブラック企業に戻るのか? それとも、僕が提案した雇用話を考えてくれる?」

 彼はストレートに切り込んできた。その言葉に、麻衣は自然と背筋を伸ばす。

 「正直……まだ迷ってます。そんな簡単には決められませんし、何より会社への手続きもあるし、引き継ぎも……」

 「引き継ぎなんか、どうせ相手は気にしないさ。酷い言い方かもしれないけど、君がいなくなれば次の犠牲者が使われるだけだろう?」

 エリオットの言葉は少し厳しい。だが、それが事実である可能性が高いことも、麻衣は理解していた。

 「……そう、なんですけど」

 もやもやする気持ちを抱えつつ、麻衣は恐る恐る尋ねる。

 「でも、本当に私を雇って何をさせるんですか? 私にできることなんて、事務仕事くらいしかないですけど……」

 すると、エリオットはいたずらっぽく目を細め、にこりと笑ってみせた。

 「まずは観光案内役になってほしいんだ。東京には面白いところがたくさんあるだろう? ネット情報だけじゃなく、地元の人間ならではの視点で案内してもらえると助かる。もちろん、給料はブラック企業よりずっと出すから安心してくれ」

 「……観光案内役……」

 麻衣は自分が東京出身でもなければ、特別観光地に詳しいわけでもない。とはいえ、少なくとも外国人が行きたがるスポットくらいはなんとなく把握している。エリオットが求めているのは、ナビゲーションの精度よりも、“一緒に楽しんでくれる相手”なのだろう。

 「普通なら、プロのガイドを雇えばいいんじゃ……」

 「プロじゃ味気ないし、ガイドブックの暗記を聞きたいわけでもない。僕は君と一緒に回りたいんだよ」

 そう言われると、麻衣としては何か照れくさい。こんなイケメン王子から直球で「一緒に回りたい」と言われるなど、まるで少女漫画のようだ。

 「……わかりました。少し考えさせてください。でも、もしやるなら本気で働きたいです。遊び半分ってわけにはいきませんから」

 「もちろん。僕が望んでいるのは、君が無理をせずに働けることだからね」

 笑顔でそう返すエリオットの表情は、どこまでも穏やかだった。


 こうして、麻衣は倒れていた路上から一転、高級ホテルで王子様(本人いわく“王子”)に助けられるという、非現実的すぎる出来事に巻き込まれた。

 まだ彼の申し出を完全に受け入れるかは決めていないが、“ブラック企業に戻るのは嫌だ”“このまま働き続けたら、今度こそ本当に取り返しのつかないことになるかもしれない”という危機感がある。一方で、“見知らぬ異国の王子に頼るなんて危険では?”という常識的な警戒心も拭えない。

 しかし、疲れ切った心と体は、エリオットの差し伸べる優しさに強く惹かれているのも事実。もし仮に彼が悪い人だとわかったとしても、いまはせめて少しだけこの安息を味わってもいいのではないか――そんな甘い囁きが、自分の中でささやかにうずまいている。

 「……どうして私なんかを……」

 ベッドに戻った麻衣は、ふとそんな独り言をこぼす。けれど、その答えはまだ見つからない。彼女の人生は今、思わぬ方向へと大きく動き出そうとしていた。


 そして、この出会いこそが、後に“シンデレラ本人が路上に落ちている”というエリオットの冗談をも超えた、本当の物語の始まりとなる――。



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