朝の陽ざしが、厚手のカーテンの隙間から差し込み始める頃。まだ眠るには早いような、遅いような、不思議な時間帯に、白井麻衣(しらい まい)はふと目を覚ました。しばらくぼんやりしてから、目の前に広がる豪華な天井の造りに気づき、ここが自宅ではないことを再認識する。
「……そうだ。私は今、あの王子様みたいな人に……」
夢だったらどんなにいいだろう、と思う。しかし、枕元に置かれた自分のスマートフォンや、テーブルの上に揃えられた朝食の準備を見るに、すべては現実の出来事なのだ。
ちょうど昨日、エリオットと名乗る異国の王子から「終身雇用」というとんでもない提案をされ、混乱したまま半ば強引に“観光案内役”としての契約書にサインしてしまった。もちろん「終身雇用」にはまだ現実味がなさすぎて、正式に受け入れたわけではない。あくまで「期間限定の観光案内役」として雇われる形で様子を見る――そのはずだった。
(それにしても、報酬の額には本当に驚いたな……)
ブラック企業でさんざん働かされてきた麻衣からすれば、その金額はまさに破格。だが大金を提示されると同時に、「私みたいな普通のOLを本当に雇う必要があるの?」という疑問が頭をもたげる。実際、東京観光ならばナビもあるし、エリオットにはボディガードや執事のカルロスもついている。麻衣がいなくても不自由はしないはずだ。それでも彼は「君がいなければつまらない」と、まっすぐな瞳で言い切った。
「……私のどこに、そんな価値があるの?」
独り言のようにつぶやいてみても、答えは返ってこない。けれど、エリオットの言葉は嘘には思えず、心のどこかがじんわりとあたたまる感覚があった。ブラック企業で日々、「代わりはいくらでもいる」と言われ続けてきた自分にとって、「君でなければ意味がない」という言葉は甘く、同時に怖いものでもある。期待されるのは嬉しいが、いつ裏切られるとも限らない――そんな不安を拭いきれないのが、麻衣の正直な気持ちだった。
「白井様、おはようございます」
扉をノックする声がして、執事のカルロスが姿を見せる。完璧に整えられた髪型と、シワ一つないスーツ姿。これぞ海外の映画に出てくる執事、といった雰囲気だが、言葉遣いはとても丁寧で、日本語も流暢だ。
「朝食のご用意ができております。エリオット様は少々外を散歩なさってからお戻りになるとのことですので、ゆっくりなさってかまいませんよ」
「あ、はい……ありがとうございます」
まだ落ち着かない気分でいると、カルロスがテーブルの上の料理を示す。そこには色とりどりのフルーツや焼きたてのパン、そして温かいスープなどが並べられていた。どれもホテルのルームサービスを超えた、まるで高級レストランのブレックファストのようだ。
「本当に……夢みたい」
思わずこぼれた呟きに、カルロスは柔らかい笑みを浮かべ、会釈して退出していく。彼の後ろ姿を見送った後、麻衣はベッドを出て、支度を始める。特にホテル側から「この服を着ろ」とは言われていないが、昨日渡された上品なワンピースに着替える。あまりに似合わないのではないかと気が引ける反面、着てみると生地が柔らかく、体を締め付けるところがなく快適だ。
そうこうしているうちに、エリオットが部屋に戻ってきた。彼は薄手のコートを脱ぎながら、麻衣の姿を見て「おはよう」と声をかける。
「よく眠れた? 体調はどう?」
「ええ、なんとか……おかげさまで。あなたは、お散歩ですか?」
「うん、朝の東京の空気を吸いたくて。夜とはまた違った顔があるんだね。街路樹の色づきが綺麗だったよ」
朗らかな声で答えるエリオットの表情には疲れが一切見えない。王族としての日常に比べれば、まだまだ自由が許されているのだろう。でも、その自由も限られた時間だけなのだと、麻衣は昨日の会話を思い出して胸が少し痛んだ。
「さて、早速だけど今日から本格的に“観光案内役”として働いてもらうよ。初日の目的地は……そうだな、浅草だ」
「浅草……雷門とか浅草寺とか、そういうところですよね」
「そうそう。日本の歴史的な文化に触れてみたいんだ。それに、仲見世通りの土産物も興味あるし。カルロスに車を用意させよう」
麻衣は慌てて首を振る。
「そ、それなら電車のほうがいいんじゃないですか? 観光ならなおさら、下町の雰囲気を直に感じられますし」
「電車、ね……混雑がすごいと聞いたことがあるけど?」
「朝のラッシュは終わった時間ですから、大丈夫ですよ。観光するなら、車よりも実際に歩くほうが楽しいと思います」
エリオットは少し考え込むように顎に手を当て、それから笑みを浮かべた。
「わかった。じゃあ、電車で行こう。君がそう言うなら、そっちのほうが面白そうだ」
麻衣は内心ホッとする。車移動ばかりだと、東京の日常感が伝わらないのではないかと思っていたからだ。こうして小さな意見を尊重してくれるエリオットの態度に、少しだけ安心感を覚える。
東京案内スタート ~浅草編~
午前十時頃、麻衣とエリオット、そしてボディガード二名でホテルを出発した。といっても、ボディガードたちはあまり目立たない位置で警護をするようだ。エリオット本人が「人目につくのは嫌だから」と強く望んだらしく、彼らはわずかな距離を取りつつ、周囲に警戒を払っている。
平日の浅草は、観光客でそこそこにぎわっているものの、週末ほどの混雑ではない。雷門に近づくにつれ、大きな提灯の下で写真を撮る人々の姿が増えていく。
「わあ……写真で見たとおりだ。いや、思ってたより大きいかも」
エリオットが瞳を輝かせながら、雷門に掲げられた赤い大提灯を見上げる。その表情はまるで少年のようで、麻衣は小さく笑みをこぼした。
「はい、じゃあ早速この前で写真撮りましょうか?」
麻衣は彼のスマートフォンを借り受け、エリオットをバックに撮影を始める。彼は照れくさそうにしながらもポーズを取り、何枚か撮るうちにだんだん乗ってきたようだ。
「いいね、すごく楽しいよ。君、写真撮るの上手だね」
「あ、ありがとうございます。普段はスマホのカメラで友達を撮るくらいですよ」
「意外と才能あるんじゃないかな?」
褒め言葉に素直に照れながら、麻衣はエリオットのスマホを返す。すると、エリオットは「次は一緒に撮ろう」と言い出した。麻衣は慌てて首を振る。
「い、いえ、私はいいですよ。仕事で来てるんですから」
「仕事? 確かにそうだけど、僕は一緒に思い出を作りたいんだ。観光案内役っていうのは、ただ説明するだけじゃないだろう?」
その言葉に、麻衣の胸がチクリと痛む。仕事だから割り切ろうと思いつつ、彼が見せる真っ直ぐな笑顔を見ると、「一緒に楽しんであげたい」と思ってしまう自分がいる。
「……わかりました。じゃあ、一枚だけですよ」
仕方なく承諾すると、エリオットは嬉しそうに麻衣の手を引いた。通りすがりの外国人観光客に英語で声をかけ、二人の写真を撮ってもらう。シャッターが切られる瞬間、麻衣はぎこちなく笑った。けれど、エリオットが肩に手を回してきて、少しだけドキッとする。こんなに距離が近い男性に触れられるのは久しぶりだった。
「ありがとう。いい写真が撮れたね」
画面を確認すると、雷門を背景に、エリオットが満面の笑みを浮かべ、麻衣は少し緊張した表情で写っている。その対照的な様子がなんだか可笑しく、麻衣は思わず吹き出しそうになる。
「ちゃんと笑えてないかも……」
「君らしい表情でいいじゃないか。僕は好きだよ」
さらりと言われ、麻衣はどう返事をしていいかわからず口ごもる。まるでデートみたいだ――そう思った瞬間、心臓が妙にうるさく鳴り始めるのを感じた。
「観光地はナビで十分?」
雷門をくぐって仲見世通りに入ると、多彩な土産物屋が連なり、活気ある雰囲気にエリオットはますます興味を惹かれた様子だ。人形焼や雷おこし、抹茶アイスなどの屋台を片っ端から眺め、麻衣に「これは何?」「あれは?」と次々に質問を投げかける。
「エリオットさん、ひとまず浅草寺にお参りしてからお買い物してはどうですか? あとでゆっくり回った方が……」
「うーん、そうだね。でも気になるものが多すぎて……。君はどう思う?」
「私は……まあ、観光地っていうなら、メインのお寺を先に回ったほうがいいかなと思います」
「わかった。じゃあそうしよう。あとの時間は全部買い物に使おう」
満足げに頷いたエリオットを見て、麻衣は少し安堵する。とはいえ、彼の求めるままに案内をし続けるのは想像以上に大変そうだとも思った。正直なところ、自分がいなくてもスマートフォンのナビや旅行ガイドブックを使えば、エリオットぐらいの行動力があれば十分回れそうなのに……。
そう考えているとき、何気なく口に出してしまった。
「……観光地はナビがあれば事足りますよ。私、本当に必要ですか?」
ポツリと呟いた言葉に、エリオットは立ち止まる。麻衣は「しまった」と思ったがもう遅い。振り返ったエリオットは、不思議そうな顔をしていた。
「どうしてそんなことを?」
「いや、だって……。ナビゲーションアプリで場所を探して、翻訳アプリもあればコミュニケーションもできるし。私がしなくてもいいのかなって……」
麻衣の声は少し震えていた。ブラック企業で培われた“自分は替えがきく”という刷り込みが、どうしても抜け切らないのだ。
すると、エリオットは真摯な眼差しを向けてきた。その瞳には迷いがなく、まっすぐに麻衣を捉えている。
「君がいなければつまらない。一人で回るなんて退屈すぎるだろう?」
「……っ」
あまりにも即答されて、麻衣は言葉を失う。単なる気休めではなく、本当にそう思っているのが伝わってくるからだ。誇張や虚飾のない愛情表現と言うべきか。麻衣は頬を赤らめながら俯くしかなかった。
「だから、僕にとっては君が必要なんだ。それに……」
エリオットは一瞬言葉を切り、仲見世通りの喧騒を窺うように周囲を見渡す。ボディガードたちが遠巻きに客寄せの人混みをかき分けて安全を確保しているのが見えた。
「こうやって自由に歩くこと自体が、僕には特別なんだ。王族としての立場があるからね。君と一緒なら、ただの観光客として振る舞いやすい。……それが、僕にとってどれほど大きなことか、分かってほしい」
少しだけ寂しそうに笑うエリオットの表情を見て、麻衣は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。自分だけが「大変なんだ」と思い込んでいたけれど、彼だって抱えているものがあるのだ。そんな彼の気持ちを踏みにじるような言葉を投げてしまったことを、申し訳なく思う。
「……すみません。私、あまり自分に自信がなくて……」
麻衣がそう言うと、エリオットは穏やかに首を振った。
「謝ることじゃないよ。僕がたくさん伝えていくから、君にも少しずつ自信を持ってもらえたら嬉しいな」
その優しい微笑みに、麻衣はほんの少しだけ救われる気がした。こんなにも素直に人の価値を認めてくれる人がいるなんて、自分の人生では想像もしなかったからだ。
仲見世通り~プレゼント攻勢
浅草寺に到着した麻衣とエリオットは、境内を歩きながらお参りを済ませる。エリオットは初めて見る日本の神社仏閣の雰囲気に感動しているようで、神妙な面持ちで手を合わせていた。
「どうだった? 日本式のお参りって」
「不思議な感じだね。祈りという行為は万国共通だと思うけど、手の打ち方やお辞儀の仕方が独特で面白かったよ。君が教えてくれたおかげで、ちゃんとできたと思う」
満足げに笑うエリオットを見て、麻衣もなんだか誇らしい気分になる。こうして説明をしながら観光案内をするのは、意外とやりがいがあるものだ。
そして、いよいよ仲見世通りに戻り、お土産選びの時間が始まった。エリオットは紙扇子や和風小物に目を輝かせ、どれもこれも欲しがる。そんな彼に付き合っていると、必然的に店員とやりとりする機会が増える。麻衣は必死に通訳とも案内ともつかない立ち回りをこなし、さらにエリオットの質問攻めにも対応する。
「この扇子、麻衣にも似合いそうだ。買ってあげるよ」
「えっ、いや……私は別に……」
「いいんだよ、遠慮しなくて。今日は“デートの相手”という仕事だろう?」
エリオットはさらりとそう言い放ち、麻衣の手に美しい和柄の扇子を持たせる。金額を見れば、そこそこ高価だ。麻衣は気が引けてしょうがない。
「……でも、困ります。私、そんなつもりじゃ」
「僕の気持ちさ。受け取ってくれないと悲しいな」
困惑する麻衣に対し、エリオットは本当に寂しそうな顔をしてみせる。それに耐えきれず、麻衣は結局受け取ってしまうのだった。
(これじゃ仕事じゃなくて、ほんとにデートみたいだよ……)
胸の内でそうこぼしながらも、エリオットの「彼に悪気はないんだろうな」と思える態度に流されてしまう。彼が心底楽しそうにしている様子を見ると、どうしても強く拒絶できない。こんなふうに甘えられるのは、初めての経験だった。
原宿へ ~デートが加速する
浅草見物を堪能した一行は、昼食を挟んでから原宿へ向かう。エリオットのリクエストは「日本の若者文化を見たい」というもの。竹下通りの雑踏に足を踏み入れると、そこは浅草とはまったく違う世界が広がっていた。
「うわあ、こっちはまたすごいにぎわいだな。カラフルで眩しいよ」
エリオットは大通りのネオンサインや、派手な看板を指さして驚きを隠せない様子だ。コスメショップやキャラクターグッズの店、クレープ屋などが立ち並び、若い女性や外国人観光客が行き交っている。麻衣にとっても、原宿は普段あまり来ない場所なので新鮮だ。
「ねえ、あれ食べてみたい。あの……クレープ?」
指さす先には、クリームやフルーツが山盛りになったクレープの写真が貼られたショーケース。エリオットはテンション高く、まるで子どものように目を輝かせている。
「じゃあ買いましょうか。甘いもの大丈夫です?」
「もちろん。むしろ大好きさ」
並んでクレープを注文すると、エリオットは「チョコバナナスペシャル」に、大胆に生クリームやアイスが乗ったものをチョイス。一方の麻衣は控えめにイチゴとカスタードクリームのクレープを頼む。
「すごい甘そうだけど……大丈夫かな」
エリオットが恐る恐るクレープをかじると、「おいしい!」と目を丸くする。麻衣もクスリと笑いながらクレープを頬張った。心なしか、この一瞬はただの男女二人がデートを楽しんでいるようにしか見えない。
人混みを歩きながらクレープを食べているうちに、エリオットが急に真顔になり、「ねえ、ちょっといい?」と麻衣を路地裏のほうへ誘導した。何かあったのかと思い、麻衣はボディガードたちに目配せするが、彼らは少し離れたところで周囲に警戒しつつついてくる。
路地裏は比較的静かで、人通りも少ない。エリオットはクレープを持つ手を下ろし、遠くを見つめるような表情で言葉を継いだ。
「……こんなふうに自由に街を歩けるのは、実は今だけなんだ」
「え?」
「母国では、王族としての生活がすごく窮屈でね。どこへ行くにも事前の許可や警備が必要で、好き勝手に歩けない。今回、日本に来たのは視察という名目だけど、本当は少しでも普通の生活を体験してみたかったからなんだ」
エリオットの声には、寂しさや焦りが滲んでいた。今の一瞬を逃すまいとする気持ちが伝わってくる。麻衣は切なくなり、自分も似たような境遇かもしれないと思いを巡らせる。ブラック企業でがんじがらめにされていた自分、彼は王族として束縛されている――立場は違えど、窮屈さに苦しむという点では共通しているのではないか。
「だから、君とこうして歩いて、普通の人がするようなデートみたいなことを楽しめるのは、僕にとってすごく貴重なんだよ」
「デート……」
その単語に改めてドキリとさせられる。エリオットは当たり前のように言うけれど、麻衣にとってはまだ仕事と割り切りたいところもある。しかし、もう割り切れない感情が芽生え始めているのは確かだった。
「……王族って、本当にそんなに自由がないんですね」
「うん。国の行事や外交、いろいろな責務がある。僕が勝手な行動をすれば国際問題になることもある。だから、帰国すればまた忙しくなるんだ。今はこの数週間だけが、ほとんど唯一の自由な時間だよ」
麻衣は胸の内が締めつけられるような感覚を覚えながら、そっとエリオットの表情をうかがう。彼は哀しげに笑っているが、すぐに「でも、こうして君といられるから大丈夫」と明るい声を取り戻した。
「君こそ、ブラック企業を辞める気はないの? あんな働き方、体を壊しちゃうよ」
「……そうかもしれません。でも、簡単には辞められないんです。生活もあるし、転職先だってすぐには……」
もごもごとした口調で答えると、エリオットは少し考え込み、「そうだね」と頷く。
「だったら、僕が君を雇うと何度も言ってるだろう? 今は“観光案内役”という形だけど、もし君が本当に困っているなら、僕に頼ってほしい」
「……まだ、怖いんです。あなたがとても親切なのはわかるけど、なぜ私にそこまでしてくれるのか、本当のところがよくわからなくて」
「理由? うーん……“一目惚れ”みたいなものかな」
さらりとそう言われて、麻衣は一瞬息が止まる。彼の言う「一目惚れ」は恋愛感情のそれなのか、あるいは「この人を助けたい」というヒロイズムなのか、どちらとも受け取れる曖昧さがある。どちらにせよ、麻衣の心には大きな衝撃をもたらした。
「そ、そんなこと言われても……」
麻衣が戸惑うと、エリオットは微笑みながら再び通りのほうへ歩き出した。
「まあ、今すぐ答えを出してとは言わないよ。ただ、忘れないでいてくれればいい。僕はいつだって君を助けたいし、君と一緒にいたい。それだけだ」
麻衣はエリオットの背中を追うように歩きながら、強烈な鼓動を感じ続けていた。王族としての不自由な生活を打ち明ける彼の姿は、どこか自分と重なる部分がある。だけど、自分を救い上げるかのように手を差し伸べてくれる王子様など、現実離れした存在だ。しかも、それが現実に目の前にいるのだから混乱するのは当然かもしれない。
秋葉原へ ~さらに続くプレゼント攻勢
原宿を一通り回った後、エリオットのリクエストで秋葉原にも向かうことになった。サブカルチャーの聖地として外国人観光客の人気が高い場所でもあり、アニメやゲームに興味のあるエリオットには興味深いスポットらしい。
麻衣としては、一日にこんなに動き回って大丈夫なのかと心配になるが、エリオットは疲れを見せない。むしろ好奇心がどんどん加速していくようだ。ボディガードたちも少し呆れ顔をしながら付き従っている。
秋葉原の電気街口に出ると、カラフルな看板が林立し、アニメやゲームの宣伝が飛び交っている。メイド喫茶の呼び込みに興味津々のエリオットをなんとか引き止めながら、麻衣は駅前からメインストリートを案内する。
「日本のアニメやゲームの文化は有名ですよね。ここではグッズやフィギュアをたくさん売っていますけど……」
「おお、すごいな。このビル全部がアニメショップ? 信じられない」
目を輝かせるエリオットを見ていると、浅草や原宿で見せた以上の興奮が伝わってくる。そんな彼を見て、麻衣の心にも不思議と嬉しさが芽生える。自分の知っている場所や文化を喜んでくれるのは、案内役としてやりがいを感じる瞬間だ。
そしてやはり、ここでもエリオットのプレゼント攻勢は止まらなかった。アニメショップで見つけた限定グッズや、PCパーツショップで見かけた高価なデジタルガジェットまで、「麻衣の分も買う」と譲らないのだ。
「困ります! これ、仕事なんですよ? 私、こんな高価なものは……」
「今日は“デートの相手”という仕事だ。だから僕が君に贈るのは当然だよ」
またしてもそう言い張られて、麻衣は呆れながらも強く拒めない。彼が純粋な気持ちでやっているとわかるだけに、断るのはかえって冷たい気がしてしまう。
「……ほんとに、彼に悪気はないんだな……」
心の中でそうつぶやきながら、麻衣は抱える荷物を整理する。ちなみに、荷物のほとんどはエリオット自身が「マイに持たせるなんて失礼だ」と言って、自分やボディガードが持っている。麻衣が持つのは、彼に渡された紙袋ひとつだけだ。
(すっかりデートだよ……これじゃ)
もう認めるしかない、と麻衣は観念する。観光案内“役”ではあるが、実質的にはエリオットとのデートに近い。彼は何度も「今日のデート相手は君だ」と言い、それにかこつけて大量のプレゼントを渡してくる。自分としては戸惑うばかりだが、彼はそれが当たり前のように自然に振る舞っている。
帰り道 ~お互いの不自由さ
夕方になり、日が傾き始めるころには、麻衣もさすがに疲労感を覚えていた。エリオットを見れば、さすがに足取りが少し重くなっている。ボディガードたちも人混みの多い場所の警護で神経をすり減らしたのか、無言でこちらを見守っている。
「そろそろホテルに戻りましょうか? 今日はけっこう歩きましたし」
麻衣が提案すると、エリオットは「そうだね。十分楽しんだ」とあっさり同意した。さっそくタクシーを拾って帰路に着く。
車中、エリオットは疲れからかやや瞼が重たそうだ。マナー良く背筋を伸ばして座りつつも、ときおりあくびを噛み殺しているのがわかる。
「大丈夫ですか? 無理させたかもしれません……私も電車移動を提案してしまったし……」
「いや、こっちのほうがずっと楽しかったよ。あのまま車ばかり使ってたら、きっとここまで日本の空気を味わえなかったと思う。ありがとう」
エリオットがそう言い切ると、少し間をおいてから口を開いた。
「でも、やっぱり僕にとっては時間が限られている。国の用事があるから、そんなに長く日本に滞在できるわけじゃないんだ。だからこそ、君との時間を大切にしたい」
「……そうですか」
麻衣は胸の中で、何かがチクリと痛むのを覚えた。「彼もいつかは帰ってしまうのか」と、当たり前のことをようやく実感し始めているのだ。ずっと日本にいるわけではないのだから、ここで築く関係も一時的なものかもしれない。それでも、彼と過ごす時間は麻衣にとって貴重な息抜きであり、初めて自分を認めてくれる人が現れたような感覚でもあった。
「私も……お役に立てているのなら、嬉しいです。でも、本当にこれでいいんでしょうか。観光案内なんて、ネットやナビに任せてしまえば……」
先ほどの会話を思い出して口にした言葉に、エリオットはクスリと笑う。タクシーの車窓から街を眺めながら、穏やかな表情で応じた。
「何度でも言うよ。君じゃなきゃ意味がないんだ。ナビは地図を示してくれるだけだけど、君は一緒に感動してくれる。それが僕には大事なんだ」
端的な答えに、麻衣は恥ずかしくなって視線をそらす。だが、心の奥では、彼の言葉を素直に嬉しいと感じる自分がいる。
ホテルにて ~第二章の締め
夜、ホテルに戻った麻衣は、一日の疲れを癒すためにバスルームへ向かった。豪華なバスタブに浸かると、足の裏とふくらはぎに心地よい疲労感が広がる。お湯の温度も程よく、凝り固まった筋肉がほどけていくようだった。
だが、頭の中は決してリラックスしきれない。今日という一日を振り返れば、エリオットと過ごす時間はまるで恋人同士のデートのようで、仕事という感覚が薄れてしまいそうだった。しかも、彼が時折見せる「王族としての不自由さ」は、麻衣にとって他人事ではなく感じられる。自分もブラック企業という不自由を抱えていたのだから――。
「私、どうしたいんだろう……」
浴槽の湯面に自分の手をかざしながら、麻衣は自問する。ブラック企業をこのまま続けたくないという気持ちは強まる一方だ。けれど、彼にすがる形で辞めるのも怖い。エリオットが言うように“終身雇用”なんて、あまりにも現実離れしている。もし彼が帰国したら、自分はどうなるのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは見つからない。お湯が冷めてきた頃、麻衣はバスルームを出て冷たい牛乳を飲み干すと、すぐにベッドへ向かった。部屋の外ではカルロスが「何か御用は?」と尋ねてきたが、「大丈夫です、少し休みます」とだけ答えてドアを閉める。
ベッドに横になり、今日一日の思い出が頭を駆け巡る。浅草寺や仲見世通りでの記念撮影、雷門を背景にエリオットと撮ったツーショット、原宿でクレープを食べたときの笑顔、秋葉原であちこちの店を回って喜んでいた彼の姿――どれもこれも楽しそうだった。
「こんなふうに一緒に笑ったこと、今まであったかな……」
ブラック企業で追いつめられていたころは、ただ“働く”だけが日常だった。笑う余裕などほとんどなく、疲れ果てていた自分。それと比べれば、今日という日はまさに夢のような体験だった。
しかし、エリオットが言っていたように、彼の自由は限られている。いつかは母国へ帰らなければならない。そのとき、麻衣はどうするのか。会社を辞めてついて行くのか、それともここで別の人生を模索するのか――想像するだけで胸が苦しくなる。
「結局、私はどうしたいんだろう……」
もう何度目になるかわからない独り言が、闇の中に溶けていく。答えはやはり見つからないまま、疲れ切った身体は眠りに落ちていった。
かくして、麻衣とエリオットの“観光案内”という名のデートは、初日からあまりにも濃密な一日となった。互いの不自由さを知り合い、プレゼント攻勢に戸惑いながらも、少しずつ距離を縮めていく二人。だが、このまま何事もなくハッピーエンドを迎えられるほど、世界は優しくない――その予感が、麻衣の胸の片隅に、小さくざわめいていた。