過労で路上に倒れたところを拾われ、異国の王子・エリオットの“観光案内役”という形で雇用されることになった白井麻衣(しらい まい)。ブラック企業の過酷な労働から逃れるかのように彼のもとで過ごし始めたが、その日々は夢のように快適でありながら、同時に大きな葛藤を抱えさせるものでもあった。
エリオットは日ごとに増していく愛情を隠そうともせず、何かにつけて「君を終身雇用したい」と口にする。麻衣は「それは昔の日本の制度だ」と笑いつつも、彼の真剣な瞳を前にすると自分の心が揺れ動くのを感じずにいられない。
だが一方で、ブラック企業からは休職中の彼女に「早く戻れ」「お前がいないと困る」と圧力の電話がかかってくる。会社を辞めてしまうかどうか――そしてエリオットの提案を受け入れ、新しい人生に飛び込むかどうか。麻衣はその狭間で揺れ続けていた。
そんな中、思いもよらない形でエリオットの「終身雇用」の提案が、より踏み込んだ意味を持ち始める日がやってくる。
1.朝のホテルロビーにて――麻衣の葛藤
「どうしよう……」
午前中、ホテルのロビーに佇む麻衣は、スマートフォンを握りしめたまま固まっていた。ちょうど上司から電話が入ったのだ。嫌な予感がしたものの、とりあえず着信をスルーするわけにもいかず、意を決して応答する。すると案の定、会社からは「早急に復職しろ」という要求が投げかけられた。
「いつまで休むつもりだ? お前がいないと仕事が回らないって言ってるだろう」
「自己都合退職でもいいのか? こっちとしても手続き面倒なんだけど」
いつものように高圧的な上司の声。麻衣は言い返す気力もなく、ただ「あの……体調がまだ……」と弱々しく答えるしかない。だが相手は「そんなのは甘えだ」「社会人としての責任を自覚しろ」と畳みかけて電話を一方的に切った。
(結局、私の事情なんかまったく考えてくれない……。戻ったらまたあの地獄だよ。でも完全に辞めるのも怖いし、生活だってあるし……)
ロビーのソファに腰を下ろし、途方に暮れていると、エリオットが慌てた様子で近づいてきた。どうやら麻衣の表情がよほど暗かったらしい。
「マイ、どうかしたのかい? 顔色が悪いけど……もしかして会社から?」
「あ、はい……そうなんです。戻らないと困るって言われて、でも……」
言葉を詰まらせる麻衣に、エリオットは眉をひそめ、憤るように声を低くした。
「まだそんなことを言ってるのか。その会社、本当におかしいよ。人が倒れても、休む権利すらまともに認めないなんて」
麻衣は苦笑いを浮かべた。実際、彼の言う通りだ。だが自分はここで「だから辞めます」と即断するだけの勇気を持ち合わせてはいない。ブラック企業とはいえ、そこで得られる収入が自分の生活の基盤だったし、そもそも転職活動をする余裕もなかった。
「……私、どうしたらいいんでしょう。いっそこのまま雇ってもらって暮らせたら楽なんだろうけど……それもおかしいかなって思うんです」
内心の本音を少し漏らすと、エリオットは小さく首を振った。
「おかしくないよ。むしろ“何でそこまで自分を責めるんだ”って思うくらいさ。僕は何度も言ってるけど、君が傷つく姿は見たくない。今だって、その会社からの電話で辛い思いをしたんだろう?」
強い口調に、麻衣は少し圧倒されながらも、その優しさに救われる気持ちを味わった。彼は本気で自分を守ろうとしているのだ。
「それでも、そう簡単には……。私がここに甘えきってしまうのはよくないと思うし、私なんか王族のあなたと釣り合わないですし……」
するとエリオットは、静かに息を吸い込み、改めてまっすぐな目で言い放つ。
「何度だって言うさ。僕は君を“終身雇用”したい。君が望むなら、日本のブラック企業なんてすぐに辞められるよう、僕が手助けする。……もし、それがピンと来ないなら、もっとはっきり言おうか?」
唐突に真剣な雰囲気を漂わせるエリオットに、麻衣の胸は高鳴った。彼が時折口にする“終身雇用”という言葉の真意を、ちゃんと聞くのが怖い。それを受け入れるかどうか、自分でもわからないからだ。
「え、あの……はい?」
思わず間の抜けた声を漏らす麻衣に、エリオットはしばらく視線を外したまま言葉を探しているようだった。そして、意を決したように口を開く。
2.エリオットの「終身雇用」再提案――別な意味?
「君を終身雇用したい。」
朝の光が差し込むロビーの片隅、エリオットのその言葉が静かに響いた。麻衣はあまりにも突拍子がない発言に思わず聞き返す。
「……はっ?はい……?」
何度も聞いたフレーズではあるものの、いつ聞いても衝撃的だ。エリオットは彼女の反応に首を傾げながら、真剣な表情で続けた。
「日本の会社では、終身雇用というものが一般的らしいじゃないか? ずっと同じ会社で働き続けられる制度だと聞いたよ。」
「あ、それ……昔の話です。今は終身雇用なんてほとんどないですよ。というか、ブラック企業とかもあって、実際には崩壊してるようなものというか……。」
エリオットは意外そうに目を丸くしたが、すぐに微笑む。
「そうなのか。それなら、君のために僕が新しいルールを作るしかないな。」
「新しいルール……?」
いきなりそんなことを言われ、麻衣は思わず吹き出してしまう。彼が本気で言っているのか、それとも冗談なのか判別がつかない。だがエリオットの眼差しはきわめて純粋で、ユーモアを交えつつも根底には「本気」が感じられるのがわかる。
「びっくりしましたよ。別な意味かと思いました……。」
麻衣が苦笑しながら視線をそらすと、エリオットは興味深げに首をかしげる。
「別な意味? それは何かな?」
「な、何でもありません!」
慌てて言葉を濁す麻衣に、エリオットはいたずらっぽく微笑むだけだったが、その瞳にはどこか探るような光が宿っているようにも見えた。
(“別な意味”……つまり結婚とか、そういうことだよね。まさかそんなにストレートに……)
心の中でそう呟きながら、麻衣は顔を赤らめる。彼の「終身雇用」という言葉は、純粋に「一緒に働いてほしい」という意味だけではない、もっと奥深い意味を含んでいるような気がしてならないのだ。だが今の段階ではっきりと口に出すわけにもいかず、曖昧なまま微妙な空気が流れる。
その後、エリオットは話題を変え「今日の観光はどこへ行こうか?」といつもの調子で尋ねてくる。麻衣もほっと胸を撫でおろしつつ、彼を案内する予定だった場所をいくつか提案した。
――このときはまだ、エリオットが後ほど本当の意味での“プロポーズ”をしようとしていることなど、麻衣は想像もしていなかったのである。
3.麻衣の葛藤――ブラック企業からの執拗な復職要請
観光案内をしながらも、麻衣のスマートフォンにはブラック企業の上司からの着信が増えていた。休職という扱いになっているとはいえ、実質的にはもう会社にとって“いない人”である麻衣。だがなぜか「お前がいないと仕事が回らないんだ」と強く呼び戻される。
それが真実であるとは思えないものの、麻衣は電話を取らなければいけないというプレッシャーに苛まれる。なぜなら彼女自身が“責任感”を捨てきれない性格だからだ。
ある日、上司の声は電話越しにこう告げた。
「白井、いつまでサボる気だ? 早く戻らないなら、本当に自己都合退職にするぞ。お前がいないせいで新人の指導が滞ってるんだよ。わかってるのか?」
その瞬間、麻衣は胃が痛くなり、地面が揺れるような感覚に襲われる。自分をそこまで必要としているような会社なら、もっと早く待遇を改善してくれてもよかっただろうに……と思わずにはいられない。
「すみません……でも、まだ体調が……」
「甘えるな! 会社をなめるなよ。給料が欲しいなら身体を壊すくらい働くのが当たり前だろうが。とにかく、一週間以内に出社しろ。いいな?」
まるで暴言のオンパレードに、麻衣は言い返す元気も失った。そのまま上司はガチャンと電話を切る。
(どうして私がこんなに怯えなきゃいけないんだろう。会社に戻れば過労で倒れるのは目に見えている。でも、退職したら生活が……)
スマホを握り締めたまま呆然としていると、エリオットが心配そうに近づいてきた。いつものように「何かあったのかい?」と声をかける。その優しげな瞳を見ると、麻衣は思わず涙ぐんでしまいそうになる。
「……電話、会社からです。今すぐ戻れって。また怒鳴られて……もう嫌です」
弱々しい声でそう呟くと、エリオットは激しい怒りを露わにしながら、まるで自分が責められたかのように声を荒らげた。
「何なんだ、その会社は! 人が倒れても休むことすら許さないのか? おかしいにもほどがある。君をそんなふうに追いつめる権利なんて、誰にもないのに」
彼のまっすぐな憤りが、麻衣には眩しく映る。王族という立場にありながら、ここまで自分のために怒ってくれる人がいるとは、思いもしなかった。
「……でも、仕方ないんです。私が辞めたらローンとか生活費とか、いろいろありますし……。それに、引き継ぎも終わってないし、上司や同僚に迷惑をかけるかもしれないし……」
そう呟く麻衣に、エリオットは深く息を吐き、そして柔らかい口調に戻って言った。
「だから僕が何度も言っているんだ。君を“終身雇用”するって。生活費を心配しなくていいようにする。迷惑とか引き継ぎなんて、そんなものは本来会社がシステムとしてカバーすべきことさ」
その言い分は夢のようだが、麻衣には“ただ乗り”しているような罪悪感が拭えない。自分の悩みをすべて彼に丸投げするなんて、そんなのは卑怯じゃないか――そう思うのだ。
「でも……」
懸命に言葉を探す麻衣だったが、気づけば声が震えていた。エリオットはそんな彼女を見て、そっと手を伸ばし、肩を支えるようにそばに立つ。
「無理はしないで。僕はまだ君を“お買い上げ”したつもりはない。君自身が納得できるように、ちゃんと話し合いたいんだ」
「……納得できる形……」
麻衣はその言葉に、少しだけ気持ちが軽くなる。どちらに転ぶにしても、自分できちんと結論を出さなければならない。今のまま迷い続けるわけにはいかないのだ。
4.本当のプロポーズ――「終身雇用」の真意
エリオットの日本滞在期限が近づいてくるにつれ、麻衣の中の焦燥感も増していく。彼は近いうちに母国へ帰国しなければならない立場にあり、ここでの自由な時間も限りがあるのだ。
そんなある日の夕方、麻衣はホテルのラウンジでエリオットと軽いお茶を楽しんでいた。バーカウンターの照明が落ち着いた雰囲気を醸し出し、窓の外には都会の夜景が広がっている。
エリオットがカップを置き、ゆっくりと切り出す。
「マイ、そろそろはっきり言っておきたいんだ。僕が“終身雇用”と繰り返してきたのは、文字通り“ずっと一緒に生きていきたい”っていう意味なんだよ」
麻衣は思わず息をのむ。この言葉が何を示すかは理解できる。だが、それがあまりにも現実離れしていると感じてしまう自分がいる。
エリオットは苦笑を浮かべながら続けた。
「昔の日本では終身雇用が当たり前だったみたいだね。でも今はそうでもないらしい。だからこそ思ったんだ。僕が新しいルールを作ればいい。つまり“僕との契約”で、一生安定して暮らせるようにしたいって意味さ」
「……あの、それって……別の意味でいうと“結婚”みたいなことでしょうか……」
やっとの思いで言葉を紡ぐ麻衣。エリオットは「まさにそうだよ」と肯定の笑みを見せる。
「結婚、婚約、呼び方は何でもいい。僕は王族だから形式は必要かもしれないけど、一番大事なのは“僕の隣にいてくれるかどうか”だ。君がブラック企業で苦しんできたのに耐えられない。だから僕のもとで、もっと楽に、幸せに生きてほしいんだ。……それが君にとって“別な意味”だったんだろう?」
麻衣は視線を落とし、ハンカチを握りしめた。やはり、彼の口から直接そう言われると動揺する。王族の彼が言う「僕との契約」は、実質的には求婚に近い重みがあるのだ。
「でも、私にはそんな資格……」
「資格なんて関係ない。君は僕にとって唯一無二の存在なんだよ。僕は君を救いたいし、君にも僕を救ってほしいんだ。……僕だって王族としての責任や重荷があるからね。でも君がそばにいるだけで、ずいぶん楽になれると思う」
その瞳は真摯でまるで曇りがない。麻衣は心臓がうるさいほど高鳴るのを感じつつ、喉が渇いたような感覚で息を呑んだ。
(私がそばにいるだけで、彼は救われる……? そんなこと、本当にあるの?)
ブラック企業に勤め、自分を磨耗するだけだった数カ月前までの生活からは信じられないような言葉。誰かに必要とされる、誰かの力になりたいと望まれる。しかもそれが異国の王子だというのだから、余計に信じがたい。
「……私だって、助けてもらってばかりです。本当に“終身雇用”なんてされて、後で『やっぱりこんなはずじゃなかった』って言われたら……」
声が小さくなる麻衣に、エリオットは苦笑しながら首を振る。
「そんなことは言わないよ。それが僕のリスクでもある。すべて理解した上で、君に“終身雇用”を申し出てるんだ。それとも、まだ僕のことが信用できない?」
「いえ、信用してます。でも……私、ブラック企業の社員という肩書しかなくて、特技も資格もないし……。あなたと釣り合わないんじゃないかって思うんです」
「釣り合いなんて、誰がどう決める? 僕にとって大事なのは“誰と生きたいか”だけさ。国の事情や王族のしきたりは面倒だけど、僕がそれを乗り越える覚悟はある。問題は、君がそこに飛び込む覚悟があるかどうか……そうだろう?」
麻衣は唇を噛みしめながら、視線をさまよわせる。彼の言うことは正論だ。だが、自分が「よし、わかりました」と即答できるほど、精神的に強くもない。
「私、少し考えさせてもらってもいいですか……? 会社のこともあって、そっちをどうするかも決めなきゃいけなくて……」
「もちろん。急かすつもりはない。ただし、僕の帰国までに結論が出ると嬉しい。母国からの呼び出しがあるかもしれないからね」
エリオットはそう言うと、残っていた紅茶を飲み干し、席を立った。声のトーンは穏やかだが、麻衣にはどこか寂しさを感じさせる横顔だった。
5.「自分には資格がない」と断る麻衣――しかし揺れる心
数日後、ブラック企業の上司はさらに執拗に麻衣へ連絡を入れた。「いい加減にしろ」「訴えるぞ」とまで言い出し、麻衣の心は限界に近づいていた。確かに退職の手続きを踏むにもトラブルが予想されるし、上司が損害賠償をちらつかせて脅すかもしれない。しかし、それでも彼女は「もう二度とあの職場に戻りたくない」という思いを募らせる。
同時にエリオットからの“終身雇用”――実質的なプロポーズ――は甘い誘惑のように感じられた。もし彼のもとへ飛び込めば、この悩みから解放されるかもしれない。だが、その代わりに「王族の世界」で生きる覚悟を求められる。
(どうしてこんなに……私なんかに? 私だけが幸せになっていいの? 私は結局、甘えているだけじゃないの?)
負のループに陥る麻衣。彼女はエリオットの優しさを知るほどに、「自分はふさわしくない」と感じてしまう。迷いに迷った末、ついにある晩、彼にきっぱりと断りを告げることを決めた。
夜景が美しいホテルの一室。エリオットは窓際に立ち、東京タワーのライトアップを眺めている。麻衣は意を決して、彼の背中に声をかけた。
「エリオットさん……その、“終身雇用”のことなんですけど……」
彼は振り向き、その瞳で静かに「聞こう」と促す。麻衣は胸の奥が震えるのを感じながら、懸命に言葉を紡いだ。
「ごめんなさい、私……そんなに素敵な提案、受け入れられる資格がないです。私なんかが、王族のあなたに見合うわけないし……それに、自分で何とかする努力をしないまま、全部あなたに頼るのは違うかなって……」
麻衣の声は震え、瞳には涙がにじむ。エリオットは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑いを浮かべ、そっと彼女の肩に手を置く。
「資格がどうとか、釣り合わないとか……そんなのは僕が決めるよ。君が決める必要なんてない。……でも、君がそう言うなら、僕は無理強いはできない」
その言葉に、麻衣はかえって胸が苦しくなった。自分が彼を傷つけてしまったように思えてならない。けれど、今のままでは一歩踏み出せないのが本音だ。
「……ごめんなさい。でも私、やっぱり怖いんです。この先どうなるかわからないのに、あなたにすべてを預けてしまうのが……」
エリオットは切なそうに微笑み、声を低くする。
「わかった。君の気持ちを尊重するよ。僕にはまだ帰国まで少し時間がある。だから……いつでもいい、助けが必要なら呼んでくれ。僕は諦めるつもりはないから」
優しく言われるほど、申し訳なさで胸が痛む。麻衣はどうにもできず、ただ静かに頭を下げるしかなかった。
6.試練の行方――それでも揺れる心
結局、麻衣は一度「終身雇用」を断った形になる。ブラック企業の脅し文句は日を追うごとにエスカレートし、ついには「今週中に来なければ損害賠償請求する」とまで言われる。麻衣は震え上がったが、上司の言うことがどこまで本気なのか確証はない。
それでも彼女はもう会社に戻りたくないという気持ちを強くしていた。このまま戻れば、再び過労で倒れ、いずれ本当に命を落とすかもしれない――そんな恐怖がリアルに胸を締めつける。
しかし、では今後どうやって生きていくのか。その手段はまったく見えていない。そこへ差し伸べられるエリオットの手は、あまりにも魅力的で、あまりにも怖かった。
(彼を信じてしまえば、私は本当に救われるかもしれない。だけど、それは“逃げ”になるの? 私が努力しないまま他人に寄りかかるだけじゃない?)
王族という大きすぎる存在を前にすると、自分の小ささや無力さが際立って感じられる。麻衣は一人になる時間を増やし、何度も何度も自問自答を繰り返した。
エリオットは無理に迫ってこない。だが、彼の視線はいつも優しく、どこか寂しげだった。まるで「一緒にいてほしい」と心の底から訴えているようで、それを見ると罪悪感が募る。
「私、どうすればいいの……」
深夜、ふかふかのベッドに横になっても眠れず、麻衣はそう呟く。部屋の外は静まり返っていて、聞こえるのは自分の鼓動だけだ。
(会社を辞めたら生活が……でも、もう戻りたくない。エリオットさんは私を受け入れてくれると言うけど、私はまだ怖い……)
負のループに陥り、答えはまったく見つからない。だが、逃げ場のない状況のなか、麻衣の中で少しずつ決意の芽が育ち始めていた――“このままではいられない”という確かな予感だけが、彼女の背中を少しずつ押していたのだ。
7.夜明け前――迷いの先にあるもの
第三章は、麻衣が“ブラック企業に復職するか、あるいはエリオットとの新しい人生を選ぶか”で大いに揺れ動き、かつエリオットからの実質的なプロポーズ(終身雇用の真の意味)を一度は断るまでを描いた章となる。
エリオットは諦める様子を見せず、あくまでも麻衣を支えたいと言う。一方、麻衣は自己評価の低さと、会社への罪悪感、そして王族という大きすぎる存在への恐れに足をすくまれている。
しかし、会社からの圧力は増すばかりで、もはや猶予はあまり残されていない。エリオットの滞在期限も迫りつつあるなかで、彼女は本当の意味で「自分がどう生きたいのか」を問われていた。
夜明け前の東京の街はまだ静かだが、遠くからうっすらと空が白み始めている。麻衣はベッドの上で目を閉じ、眠れぬまま頭の中でさまざまな可能性を巡らせる。
――もし、ここで彼に飛び込んだら、自分の人生はどんなふうに変わるのか。
――もし、会社に戻ったら、また過労死寸前まで働かされる毎日が待っているのか。
――それでも転職活動をするなら、どこかで時間とお金を確保しなければならない。エリオットに頼らず、自力で立ち直ることは可能なのか。
どの道を選んでもリスクはある。完璧な道などない。それでも、エリオットはこれまで見知らぬ世界を彼女に見せてくれた。自分がただの「使い捨ての駒」ではなく、誰かから「必要とされる存在」である可能性を感じさせてくれた。
(私、もう逃げるわけにはいかない。どんな結末になるにせよ、自分で選びたい……)
そんな決意が、薄明るい闇の中でゆっくりと芽吹く。まだはっきりとした形をとれないまま、けれども確かに生まれ始めた覚悟。次の一歩は、この迷いの夜を抜けた先にしか見つからないだろう。
かくして、第三章は幕を閉じる。
麻衣がブラック企業からのプレッシャーと、エリオットの“終身雇用”というプロポーズの間で揺れ動き、ついには一度断りを入れるも、完全には終わらない。
この先、彼女がどんな答えを出すのか。エリオットは麻衣の頑なな心をどう溶かしていくのか――そして、ブラック企業はどんな報復措置をとるのか。物語はまさに正念場を迎えようとしている。