義兄が危うい世界の住民だという事実は、時々、それも不意を突いてさやかの肩を叩く。
その日、さやかは大学の講義を終えて迎えの車に向かっていた。今日は義兄が迎えに来てくれて、一緒にディナーに出かける約束になっていたからだった。
でも車が来たのは時間より三十分も遅れて、しかもそこに義兄はいなかった。
黄昏時の紫紺の空の下、さやかは何となく胸のざわつきを感じた。さやかは戸惑いながら義兄の側近にたずねた。
「お兄ちゃんは?」
「仕事でトラブルがありまして……」
側近の言葉も歯切れが悪くて、さやかの不安を募らせた。さやかはもうひとつたずねた。
「……まさかお兄ちゃんに怪我があったの?」
さやかの問いを側近は否定しなかった。さやかは蒼白になって、ごくんと息を呑む。
義兄が怪我をした。その事実は頭から冷水を被ったようにさやかを震えさせて、さやかは浅い息を数度繰り返した。
さやかはどうにか息を整えると、泣く直前のような声で言う。
「病院……どこ? 連れてって」
「お嬢様」
「連れてって。すぐ!」
さやかが声を荒らげることはめったにない。けれど義兄に何かあったのなら、じっとしてはいられなかった。さやかは食いつくように側近に命じた。
けれど側近は助手席から振り向いて、懇願するようにさやかに言う。
「お嬢様はお屋敷に連れ帰るように命じられています。どうか」
「嫌!」
さやかは鋭く拒絶すると、車が走っているのにも構わず扉のロックを外した。側近が慌てて制止する。
「おやめください、お嬢様!」
「連れて行ってくれないならここで降りる! だめなら頭でも叩きつける。怪我をすればお兄ちゃんと同じところに行けるでしょう?」
さやかが自分自身を人質にして脅すと、側近は低くうなって思案したようだった。
側近は苦い顔をして運転手に何か告げると、車は屋敷までの帰路から外れて道を折れる。
側近はさやかに言い聞かせるように告げる。
「病室に着くまで私の側を離れないでください」
お兄ちゃん、お兄ちゃん……。さやかは真っ青な顔で震えながら、こくりとうなずいたのだった。
本来外来が終わっている時間帯の病院にやって来るのは、それだけで不穏な心地がする。
少し灯りが落ちた廊下を、さやかは側近に連れられて先を急いだ。
やがて病院の奥の奥、見張りのいる個室の前で、側近は立ち止まってさやかを振り向いた。
さやかはノックをしようと息を吸って、そっと扉に触れる。
そのとき、中で義兄の凍てつく声が聞こえた。
「裏社会の医者たちの怖さをわからせてやれ。……さやかに見せるなよ」
さやかは上げかけた手をそのまま動かせなかった。さやかが扉を開く前に、中から義兄が扉を開いたからだった。
不遜だった義兄の声音も、一瞬で変わる。
「さっちゃん」
義兄がさやかを呼んだ声だけは、いつもの優しい義兄だった。
けれど義兄はすぐにさやかの後ろに立つ側近に、氷のような言葉を投げかける。
「どうしてここに連れてきた? さやかはすぐに家に帰すようにと、言いつけたはずだな?」
さやかは自分に向けられたのではなくとも身が竦んだが、それでも義兄を食い入るように見た。
戸口に立つ義兄は、腕に包帯を巻いていた。さやかはそれを認識した途端、じわりと目がにじむのを感じた。
「お兄ちゃん……痛い? 痛いよね?」
「さ、さっちゃん?」
さやかはぽろぽろ泣きながら、義兄の腕に触れかけて震える。
義兄はそんなさやかに、そっと宥めるように言った。
「さっちゃん、大丈夫だよ。ちょっとかすっただけで、一週間もすれば包帯も解けるんだって。お兄ちゃん全然痛くないよ。だから泣かないで?」
そう義兄は言ったものの、さやかの涙は止まらなかった。義兄に会えて緊張が解けたのもあって、子どもがしゃくりあげるように泣く。
義兄はさやかの背中をさすりながら、義兄らしくもなく途方に暮れたようにつぶやく。
「困ったな、どうしよう……。いつもみたいに抱っこしてあげられないのが、一番悔しいや」
義兄は本当に困っているらしく、泣かないで、と繰り返しさやかに訴える。
さやかは義兄の胸に顔を押し付けたまま泣き続けて、やがてぽつりとつぶやく。
「ごめん……お兄ちゃんの手当てもできないで、泣くばかりなんて」
ふいに義兄はくすりと笑って、さやかは義兄を不思議そうに見上げる。
「お兄ちゃん?」
「うれしいんだ。俺が怪我して心から泣いてくれるのは、さっちゃんだけだから」
「そんなことない……」
さやかは顔をしかめて否定しようとしたが、義兄はさやかの髪に顔を埋めて首を横に振る。
「たとえばこの病室の中は、さっちゃんには見せられない。お兄ちゃんの普段いるところは、そういう世界なんだ。……許してね。さっちゃんには、綺麗で優しい世界に囲まれていてほしいから」
義兄はそっと足を踏み出して、後ろ手に病室の扉を閉める。
「来てくれてありがとう。心配してくれて。……帰ろう、さっちゃん。お兄ちゃんとさっちゃんの世界へ」
さやかは義兄の腕に包まれて、安息の気持ちでうなずく。
さやかは義兄が閉ざした部屋の向こうを、結局見ることはなかった。
……義兄の作った籠のような世界は居心地がよくて、さやかはいつもその外のことを忘れている。