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12 若頭と小鳥の扉の向こう

 義兄が危うい世界の住民だという事実は、時々、それも不意を突いてさやかの肩を叩く。

 その日、さやかは大学の講義を終えて迎えの車に向かっていた。今日は義兄が迎えに来てくれて、一緒にディナーに出かける約束になっていたからだった。

 でも車が来たのは時間より三十分も遅れて、しかもそこに義兄はいなかった。

 黄昏時の紫紺の空の下、さやかは何となく胸のざわつきを感じた。さやかは戸惑いながら義兄の側近にたずねた。

「お兄ちゃんは?」

「仕事でトラブルがありまして……」

 側近の言葉も歯切れが悪くて、さやかの不安を募らせた。さやかはもうひとつたずねた。

「……まさかお兄ちゃんに怪我があったの?」

 さやかの問いを側近は否定しなかった。さやかは蒼白になって、ごくんと息を呑む。

 義兄が怪我をした。その事実は頭から冷水を被ったようにさやかを震えさせて、さやかは浅い息を数度繰り返した。

 さやかはどうにか息を整えると、泣く直前のような声で言う。

「病院……どこ? 連れてって」

「お嬢様」

「連れてって。すぐ!」

 さやかが声を荒らげることはめったにない。けれど義兄に何かあったのなら、じっとしてはいられなかった。さやかは食いつくように側近に命じた。

 けれど側近は助手席から振り向いて、懇願するようにさやかに言う。

「お嬢様はお屋敷に連れ帰るように命じられています。どうか」

「嫌!」

 さやかは鋭く拒絶すると、車が走っているのにも構わず扉のロックを外した。側近が慌てて制止する。

「おやめください、お嬢様!」

「連れて行ってくれないならここで降りる! だめなら頭でも叩きつける。怪我をすればお兄ちゃんと同じところに行けるでしょう?」

 さやかが自分自身を人質にして脅すと、側近は低くうなって思案したようだった。

 側近は苦い顔をして運転手に何か告げると、車は屋敷までの帰路から外れて道を折れる。

 側近はさやかに言い聞かせるように告げる。

「病室に着くまで私の側を離れないでください」

 お兄ちゃん、お兄ちゃん……。さやかは真っ青な顔で震えながら、こくりとうなずいたのだった。




 本来外来が終わっている時間帯の病院にやって来るのは、それだけで不穏な心地がする。

 少し灯りが落ちた廊下を、さやかは側近に連れられて先を急いだ。

 やがて病院の奥の奥、見張りのいる個室の前で、側近は立ち止まってさやかを振り向いた。

 さやかはノックをしようと息を吸って、そっと扉に触れる。

 そのとき、中で義兄の凍てつく声が聞こえた。

「裏社会の医者たちの怖さをわからせてやれ。……さやかに見せるなよ」

 さやかは上げかけた手をそのまま動かせなかった。さやかが扉を開く前に、中から義兄が扉を開いたからだった。

 不遜だった義兄の声音も、一瞬で変わる。

「さっちゃん」

 義兄がさやかを呼んだ声だけは、いつもの優しい義兄だった。

 けれど義兄はすぐにさやかの後ろに立つ側近に、氷のような言葉を投げかける。

「どうしてここに連れてきた? さやかはすぐに家に帰すようにと、言いつけたはずだな?」

 さやかは自分に向けられたのではなくとも身が竦んだが、それでも義兄を食い入るように見た。

 戸口に立つ義兄は、腕に包帯を巻いていた。さやかはそれを認識した途端、じわりと目がにじむのを感じた。

「お兄ちゃん……痛い? 痛いよね?」

「さ、さっちゃん?」

 さやかはぽろぽろ泣きながら、義兄の腕に触れかけて震える。

 義兄はそんなさやかに、そっと宥めるように言った。

「さっちゃん、大丈夫だよ。ちょっとかすっただけで、一週間もすれば包帯も解けるんだって。お兄ちゃん全然痛くないよ。だから泣かないで?」

 そう義兄は言ったものの、さやかの涙は止まらなかった。義兄に会えて緊張が解けたのもあって、子どもがしゃくりあげるように泣く。

 義兄はさやかの背中をさすりながら、義兄らしくもなく途方に暮れたようにつぶやく。

「困ったな、どうしよう……。いつもみたいに抱っこしてあげられないのが、一番悔しいや」

 義兄は本当に困っているらしく、泣かないで、と繰り返しさやかに訴える。

 さやかは義兄の胸に顔を押し付けたまま泣き続けて、やがてぽつりとつぶやく。

「ごめん……お兄ちゃんの手当てもできないで、泣くばかりなんて」

 ふいに義兄はくすりと笑って、さやかは義兄を不思議そうに見上げる。

「お兄ちゃん?」

「うれしいんだ。俺が怪我して心から泣いてくれるのは、さっちゃんだけだから」

「そんなことない……」

 さやかは顔をしかめて否定しようとしたが、義兄はさやかの髪に顔を埋めて首を横に振る。

「たとえばこの病室の中は、さっちゃんには見せられない。お兄ちゃんの普段いるところは、そういう世界なんだ。……許してね。さっちゃんには、綺麗で優しい世界に囲まれていてほしいから」

 義兄はそっと足を踏み出して、後ろ手に病室の扉を閉める。

「来てくれてありがとう。心配してくれて。……帰ろう、さっちゃん。お兄ちゃんとさっちゃんの世界へ」

 さやかは義兄の腕に包まれて、安息の気持ちでうなずく。

 さやかは義兄が閉ざした部屋の向こうを、結局見ることはなかった。

 ……義兄の作った籠のような世界は居心地がよくて、さやかはいつもその外のことを忘れている。

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