さやかは熱を出した上に冷水のシャワーを浴びたせいで、その後何日も寝込むことになった。
けれど銘座に会った日の血の凍るような恐怖は、毎日義兄と過ごすうちに和らいでいった。
義兄がさやかを手放す不安を忘れたわけではない。でも日々義兄がさやかに降り注いでくれる愛情はどこも変わっていなかった。この数日も、義兄は喉通りのいいものを取り寄せて食べさせてさやかの世話を甲斐甲斐しく焼き、さやかの体を毎日拭いてくれた。
さやかは熱が下がった夜、ベッドの中から義兄を見上げて言った。
「明日は大学に行っていい?」
「んー、どうかな? 俺はこのままずっとさっちゃんを看病していたいかも」
「お兄ちゃん」
さやかが子どものように口をへの字にして義兄を呼ぶと、枕元の義兄はくすくすと笑ってさやかの髪を梳いた。
「冗談。さっちゃんが元気な方がうれしいよ。……朝診察を受けて問題なければ、大学に行っておいで」
「うん!」
さやかが屈託なく笑うと、義兄はそんなさやかの頬を大きな手で包んで笑い返してくれた。
義兄はそのままさやかの顔をみつめながら思案顔になる。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
「んー? さっちゃんがにこにこしてるのはいいなぁと思って」
さやかが問いかけると、義兄は優しく相槌を打ちながら答える。
「昔からいじめっ子たちはさっちゃんが泣く顔がいいって言ったらしいけど。さっちゃんは笑ってる顔の方が比べられないくらいかわいいよ? 泣く顔が好きなんてさ、それは本当のところさっちゃんの良さを知らないし、さっちゃんを好きじゃないんだよ」
さやかはいじめっ子たちを思い出して、少し銘座のことも考えた。銘座もまた、さやかが嫌いなのだろうか。
……兄妹なのに、それはちょっと寂しい。さやかが瞳を揺らすと、義兄はさやかの頬を撫でて苦笑した。
「ごめんね、いじめっ子たちを思い出しちゃった? さっちゃんはいじめっ子たちの言う事なんて何も気にしなくていいよって、伝えたかったんだ」
「……うん。お兄ちゃんは、いっぱい私を愛情で包んでくれる。それで十分なの」
さやかが淡く笑うと、義兄はうなずいてさやかをぎゅっと抱いた。
「俺がさっちゃんを傷つけるどんなものからも守ってあげる。……さっちゃんは小さい頃からずっと俺のでさ、俺はさっちゃんだけが大好きなんだもの」
さやかは義兄の抱擁を幸せな気持ちで受けながら、やはり銘座のことを思い返した。
きょうだいという関係なら銘座も同じなのに、義兄はさやかだけが好きだと言う。
「さっちゃん。……なんでそんなにかわいいの、さっちゃん。何をあげたら喜んでくれる?」
さやかは迷って、義兄を抱きしめ返しながら言う。
「私はこんなだから、いじめっ子はきっといつまでも消えない。それより……私はお兄ちゃんに側にいてほしい。お兄ちゃんが私から離れて行くのが、一番怖い……」
「俺はさっちゃんを置いてどこにも行かないよ」
義兄はベッドの横に膝をついて、さやかの手に自分の手をからめて言う。
「俺は確かに極道の世界にいるけど、さっちゃんと生きていく暮らしは譲らない。教会で誓おうか? それとも俺の体に入れ墨でも入れる?」
「お、お兄ちゃん」
義兄はさやかの手を頬に当てると、その感触が心地よさそうに微笑む。
「だって離れたくないんだもの。さっちゃん、俺を困らせるくらいに長生きしてね? 俺にずっとさっちゃんの世話をさせて?」
さやかが慌ててこくこくとうなずくと、義兄はさやかの手に口づけて目を細める。
「……それがわかってない家族なら、要らないよね」
さやかは一瞬背筋を冷たいものが通っていった気がして、こくんと喉を鳴らした。
翌朝義兄に診てもらって大丈夫と言われたさやかは、また大学に……通い始める前に、違う場所に出かけた。
義兄と二人だけの世界にいられれば何も要らない。さやかもそう思う気持ちはあるけれど、義兄に孤独になってはもらいたくなかった。
さやかはあらかじめ電話をして、ある弁護士事務所を訪ねた。
義父の経営するビルの一角、オフィス街の中にあるそこは、観葉植物で飾られた小奇麗な事務所だ。
さやかが待合室のソファーに掛けていると、約束の相手は苦笑して現れた。
「さやか、どうしました?」
医者がそっと問いかけるような声色にさやかが顔を上げると、そこに少しふくよかな青年をみつける。
義兄や銘座と違って猫目で可愛いような口元だが、その眼差しは鋭い。彼もまた義兄と血がつながった存在だからだった。
「くれは……兄さん。あの、心配なことがあるの」