さやかは義兄が自分と結婚を望んでいると聞いて、信じられない気持ちでいっぱいだった。
自分は小さい頃から足を引っ張るばかりだった妹で、呉葉や銘座のように仕事の役に立ってきたわけでもない。裏社会でも堂々としている義兄と、並び立てるとは思えなかった。
でも義兄が自分を愛してくれている、その気持ちが結婚なのだとしたら。……それは今すぐ義兄を抱きしめたくなるくらいにうれしい。
「さっちゃん、一週間働いたごほうび。俺とディナーに行こ?」
そんなことを考えていた矢先、呉葉の事務所に義兄が迎えに来てくれた。
義兄はたびたび事務所に様子を見に来てくれて、迎えに来ることも多かった。小さい頃からさやかをエスコートするのに慣れている義兄は、さやかの様子を見て、その日のさやかの体調に合わせた店を選んでくれた。
「さっちゃん?」
……どうしよう。お兄ちゃんの顔がまともに見れない。だって、私の思い違いかもしれないんだもの。
でも、抱きしめたい。迷惑じゃ、ないかな。
さやかはそう思いながら、かぁっと赤くなってうつむいた。義兄はそれを見て、心配そうにさやかの頬に手を当てる。
「熱があるの? 家に帰る?」
さやかはふるふると首を横に振る。今はあんまり顔を見ないでほしかった。
「うれしいの……。お兄ちゃんと外食、久しぶりだから」
さやかは顔を隠したくて、義兄の胸にきゅっと顔を押し当てる。義兄は少し照れたように、さっちゃん、と名前を呼ぶ。
「やっぱりさっちゃんをここで働かせるのは心配だよ。……俺のさっちゃんはとびきりかわいくて、かわいくて……本当は誰にも見せたくないんだからさ」
義兄はさやかの背中を包みながら、呉葉を振り向く。
「今日もさやかに不届きなことをする奴はいなかったな?」
「基本的に外部の連中とは関わらせない約束でしょう? 触ったのは子どもくらいです」
呉葉の答えに義兄は、子どもか、とつぶやいて、少し思案したらしい。
「さやかの優しさに付け込んでないか? 何か気づいたらすぐに俺に言うように」
「だから、子ども相手なんですって。……わかってますよ、兄さんの言葉のとおりに」
呉葉は苦笑して答えて、まだ義兄に包まれているさやかに声をかける。
「その調子だと、仲直りできたようで安心しました」
「……あ」
さやかは呉葉に心配をかけていたことに気づいて、義兄の胸から顔を上げる。
「ごめんなさい。一人暮らしの相談とか……くれはに頼っちゃって」
「いいえ、相談したのが私でよかったです。他の相手だったら問題ばかりでしたから」
「くれはだと、つい甘えちゃうの。本当にごめんなさい」
「……さっちゃん」
さやかが呉葉にはにかむと、義兄がすねたようにさやかの頬に触れた。さやかはきょとんとして、義兄を見上げる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「さっちゃん、そのかわいい顔はもっと出し惜しみして。……行こ」
義兄はさやかの肩を抱くと、呉葉へのあいさつもそこそこに歩き始めた。
さやかははじめこそ義兄の歩く速さについていけなかったものの、義兄はすぐに歩調を緩めてさやかに合わせてくれた。
二人が迎えの後部座席に乗り込むと、車は港の方に向かって走り出した。窓の外は鮮やかな夕焼けが広がっていて、さやかは義兄と話しながら、窓の外に目を細めていた。
義兄がさやかを連れて行ったのは、海が臨める一軒家のレストランだった。元々一日に数名しか入れない店のようだったが、今夜は当然のように貸し切ってあった。
義兄はいつもシェフに細かく指示を出しておいてくれる。だから今日も、給仕されるメニューはさやかの好物ばかりだった。宝石細工のような冷製のアンティパスト、甘めのポタージュ、とろけるようなホタテのグラタン。
「おいしい?」
「うん!」
食の細いさやかがあれこれと楽しそうに食べるのを、義兄はうれしそうにみつめていた。
義兄も食べているが、愛おしむようにさやかの食事の様子に目を細めていた。今までもそうだったけれど……年の離れた小さな妹を、優しく見守る目だった。
さやかはふと、義兄は兄妹に戻ろうとしてくれているのではないかと思った。さやかが義兄の結婚の話に拒絶反応を起こしてからというもの、義兄は何度も「ずっとお兄ちゃんでいる」とさやかに言ってくれた。
さやかにとっても義兄は、大好きな兄だ。でもそれだけじゃなくて……と思った続きを、さやかはどう義兄に伝えようか迷っていた。
食事の後、店の庭を二人で少し並んで歩いた。ランタンのような灯りを辿って草木の間を抜けると、そこに海があった。
「静かな夜だね……。波の音が、子守歌みたい」
さやかは微笑んで、無意識に義兄の裾を掴んだ。義兄はそんなさやかの仕草に笑って、そっと手をつないでくれる。じわりとさやかの顔が赤くなった。
「お兄ちゃん……あの」
「うん?」
勇気を出して、訊くの。そう自分を叱咤して、さやかは言葉を切り出す。
「お兄ちゃんの……結婚の話だけど」
義兄がちらとさやかを見た気配がした。義兄は淡く笑って、首を横に振る。
「いいんだ。それは忘れて? 俺はこうしてさっちゃんと手をつないでいられる時間だって愛おしいよ」
「えと……私の、誤解かもしれない、けど」
「誤解?」
義兄は不思議そうに訊き返す。さやかはぎゅっと目を閉じて、震えながら訊ねた。
「お兄ちゃんが結婚を望んでいる、相手、は……」
それは……私なの?
違うよと言われたら……また胸が引き裂かれる思いで、泣いてしまう予感がした。
でも義兄はさやかの不安も悲しみも、そのときすべて理解したようだった。義兄ははっと息を呑むと、さやかに向き直る。
「……もしかして、俺がさっちゃん以外と結婚するかもしれないと思ったの?」
さやかはまだ震えながらうなずく。義兄はまさか、と信じられない様子で言葉を続けた。
「さっちゃんの他に、好きな人がいる……と?」
さやかがこれにもうなずくと、義兄は大きく息をついた。
義兄はさやかの頬を両手で包むと、さやかの目をみつめながら言った。
「……俺が結婚したいのは、さっちゃんだけだよ」
その言葉に震えたさやかに、義兄は真剣な口調で言葉をかける。
「狂うくらい、さっちゃんを愛してる。人生を一緒に歩みたいのはさっちゃんだけだ。さっちゃんさえ俺を愛してくれるなら、世界中から嫌われたっていい」
「ほん、とに……?」
さやかが思わず目をにじませると、義兄はその涙を拭って自分も泣き笑いのような顔で言う。
「俺はさっちゃんのこと何でも知ってると思ってたけど、まだ足りなかったんだなぁ。だからさっちゃん、もっと教えて? 不安も俺の悪いとこも、口に出して言ってみて? 俺はこれから何があってもさっちゃんを守るし、側を離れないから」
「お兄ちゃん……」
さやかはぎゅっと義兄の体を抱いて、義兄もさやかを抱き返した。
誤解が解けた二人に、潮のしらべが優しく鳴っていた。二人は迷った時間を埋めるように、いつまでもそうやってお互いを抱きしめていた。
義兄の携帯電話に連絡が入ったのは、そんなときだった。
義兄は無視しようとしたけれど、さやかが義兄に出るように勧めると、渋々ポケットから携帯を取り出す。
義兄の電話の相手は、屋敷の使用人のようだった。義兄は短く通話を終えると、険しい顔で言う。
「来ているらしい。……母さんが、俺たちの屋敷に」
あれほど晴れていたのに、気づけば空は薄曇りに覆われていた。
さやかはこくんと息を呑んで、義兄を見上げたのだった。