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34 若頭と小鳥の予期せぬ時間

 現れた銘座にさやかは凍り付いたが、銘座の方は面白そうな顔でソファーに腰を下ろしてしまった。

「ここにいるってことは、兄さんの屋敷に母さんが来たか?」

 銘座は義兄の腹心として簡単に事態を当ててみせる。さやかは息を呑んだが、銘座はバスタオルでぞんざいに頭を拭いながら言う。

「兄さんは若頭だ。結婚は必要だし、子どもはもっと必要だ。父さんだってそうだったんだからな」

「……うん」

 さやかは大人しくうなずいて、小さく同意した。

 そんなさやかに、銘座は少し考えたようだった。銘座は一拍黙って、なぜだか不機嫌な調子になって言う。

「お前は昔から、聞き分けが良すぎるよな。……反抗してみようとは思わないのか?」

「え?」

 さやかは一瞬不思議な言葉を聞いたような心地になった。けれどすぐにしょんぼりして、戸惑いながら首を横に振る。

「だって……だめだもの。お兄ちゃんの幸せのためなんだから」

「母さんが選んだ相手と結婚するのが兄さんの幸せか?」

 銘座は鼻で笑って、呆れたようにさやかを見やる。

「じゃあそうなった場合、兄さんがどうするか当ててやろうか。……兄さんは子種だけ試験管に入れて、相手に投げてよこすぞ」

 さやかはさぁっと青ざめて、震えながらつぶやく。

「……まさか」

「お前は兄さんがどれだけ残酷なことができるか知らないだろ。兄さんはそれくらい平気でやるさ」

 銘座は淡々と言葉を続ける。

「父さんはまだ俺たち子どもに愛情を注いでくれたし、母さんにも多少の負い目を感じてる。……でも兄さんはそうやって出来た子どもになんて、実験動物ほどの愛着も持ちやしないさ」

「そ、それでも。妻になる人だもの!」

「兄さんは昔から、異様なほど潔癖な人だろ。親戚の娘が肩に触っただけで服を燃やしたの、お前も知ってるだろ?」

 さやかはふるふると首を横に振って言う。

「でも、私、小さい頃から汚くて……し、失禁もよくしたけど、お兄ちゃん、私のこといつも嫌がらずに拭いてくれて……」

「お前は兄さんの中で全く違う生き物なんだよ。お前は覚えてないかもしれないけどな、お前が小さい頃よだれこぼして昼寝してても、兄さんは「かわいい」って連呼してキスしてたぞ」

 さやかは恥ずかしさのあまり、かぁっと赤くなってうつむいた。末っ子のせいでどれだけ義兄たちに失態をさらしてきたのだろうと思いながら、慌てて首を横に振る。

「そんな小さい頃のこと……引き合いに出すのやめて。お兄ちゃんは大人だよ。責任も愛情も、ちゃんと持つよ」

 さやかは一生懸命そう言ったが、銘座は息を漏らして笑っただけだった。銘座はまだ納得していない様子のさやかに、言葉を投げかける。

「俺が信用ならないなら、呉葉に聞いてみたらどうだ。同じ答えが返って来るぞ。お前は兄さんにべったりなわりに、まだ兄さんのことがわかってない」

「そう……かな」

「俺たちは三人で育ってきたんだ。母さんはほとんど不在で、父さんも別邸にいたからな。……お前と兄さんみたいに好き合ってはいないが、三人だけの連帯がある」

 さやかは連帯、とつぶやく。さやかと義兄にはない、不思議な関係。呉葉もまた、さやかの知らない義兄のことを知っているのだろうかと思う。

 さやかはふと銘座を見て、ぽつりと問う。

「めいざは……どうして私に、そういうことを教えてくれるの?」

 銘座は問い返すようにさやかを見返す。さやかは少し考えて言葉を続けた。

「私、情けない妹で……兄妹って認めるには、弱すぎるのに。くれはもめいざも、私をいじめたことがないのは、どうして……?」

「それは、兄さんが」

 銘座はすぐに答えようとして、彼にしては珍しく口ごもった。

「兄さんがお前を溺愛していたから……は、もちろんそうだが。……お前のことは」

 銘座はソファーから立って、さやかの方に一歩歩み寄る。

 さやかは銘座が近づいて来るというのに、不思議と今は怖くなかった。じっと銘座を見上げて、その言葉の続きを待った。

 そのときカードキーが通る音が聞こえて、玄関の方から足早に靴音が近づく。

「銘座! どうしてここに。ゲストルームのカードキーは渡してないでしょう?」

 呉葉が顔色を変えて銘座に詰め寄ると、銘座はしれっと答える。

「合い鍵を作った。いいだろ、ここシマに近くて便利だし」

「あなたがいると怖がる友人もいるんです! 何もしてないでしょうね? ……さやか、大丈夫でしたか?」

 呉葉は心配そうにさやかを見たが、さやかは柔く首を横に振る。

「ううん……めいざとちょっと、お話してた。怖くはなかったよ」

 呉葉はさやかのあどけないような言葉を聞いて変な顔をしたが、銘座はぷっと笑う。

 さやかは実際、銘座のおかげで不安な時間を過ごさずに済んだ。

 不安に押しつぶされそうだった夜が、怯えていた兄弟の予期せぬ言葉で、少し違った景色が見えた気がした。

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