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53 若頭と小鳥の日常

 風の中に花が香る五月の頃、義父の家の庭に家族が集まって茶会が開かれた。

 さやかはいつものように、優しく末っ子の春海はるみを覗きこむ。

「はーちゃん、お野菜も食べてえらいね」

「うん。さやかちゃんより、おっきくなりたいもの」

 三歳になる春海はすくすくと元気に育っていて、同じ年頃の子どもより言葉も上手に話す。

「はる、にいちゃたちとネンレイのぎゃっぷがあります。でもまけるつもり、ゼンゼンないの」

 春海は無邪気なくりくりした目で、さやかを見上げて言う。

「まっててね。おおきくなって、さやかちゃんを守ってあげるからね」

「すごいね、はーちゃんは。楽しみにしてるね」

「……さっちゃん」

 さやかがにこにこと相好を崩していると、さやかの肩を引き寄せた腕があった。

 さやかがきょとんと見上げると、藍紀が不機嫌そうに言い放つ。

「子守りは呉葉にでも任せておけばいいんだよ。さっちゃんはいつも、俺だけ見てて?」

「お兄ちゃん……」

「あいにーちゃ、すねないの。はるは、さやかちゃんのたからものなのよ」

 春海は自慢げに言って、藍紀の不機嫌は濃くなったようだった。さやかは春海にうなずいてから、優しく言い聞かせる。

「うん、宝物なの。大事な大事な、おとうと。……でもね、さやかはお兄ちゃんとは特別な約束をしてるから。ゆるしてね?」

 微笑んださやかの薬指には、藍紀とお揃いの指輪がはまっていた。

 大学を卒業したとき、さやかは藍紀と婚約した。呉葉の事務所で下積みを続けていて、いずれは藍紀の仕事を手伝うつもりでいる。

 藍紀はひょいと春海を抱き上げると、紅茶をたしなんでいる呉葉の膝の上に乗せる。

「呉葉、頼む」

「はいはい。……はる、くれはにいちゃとお菓子でも食べましょうか」

 孫を見るような目で春海を迎え入れる呉葉に、さやかもちょっと笑った。

 それから銘座もやって来て、慣れたように春海を肩車していた。こういう力仕事は銘座よろしくと呉葉に言われて、銘座は常のとおり無表情に、ただ別段不機嫌でもなく応じていた。

 さやかの母も庭に降りてきて、呉葉たちにそっと声をかける。

「いつも遊んでくれてありがとう。迷惑じゃ、ないかしら」

 母は床につくこともあるが、義父や使用人たちに大切に守られていて、こうして時々は外に出ることもできるようになった。

 春海を産んでからは、子ども還りをする時も減った。さやかも家族も、心からそれを喜んでいる。

 呉葉は柔和に笑い返して母に言う。

「さやかの頃を思い出して楽しんでますよ」

「さやかよりだいぶ手がかからないくらいだ。丈夫だからな、はるは」

 銘座も無骨ながら安心させるように言うと、母はうれしそうにうなずく。

「生まれたときからこんなにかわいがってもらえて……さっちゃんもそうだったけれど、幸せだわ」

「……お母さん」

 そうだねと、さやかは目を伏せてうなずく。

 自分も、そうだった。いつだって藍紀に守られて、大切にされてきた。

 脳裏によぎるのは、今は過ぎ去った人たちのこと。

 ……「卯月は、自分が面倒を見るよ。」例の誘拐事件の後、華陀一樹からの手紙にそう綴られていた。

 全部を忘れてしまっても、彼は自分の大切な人だから。だから、さやか。君は自分の大切な人と生きるといい。名付け親として、遠くから君を見守っている。そう手紙には書かれていた。

 容子は義父が完全にどこかに封じ込めてしまって、その後一切消息はわからない。藍紀たちも何も語らないし、詮索しない。

 この春めいた陽光の裏には、そういう世界がある。実際、藍紀たちの家業は今も裏社会につながっている。さやかがこれから入ろうとする世界は、そんな甘いものではないことも承知している。

 でも藍紀は今も、とろけるようにさやかを甘やかして側にいてくれる。

 藍紀はさやかの手を取って生垣の中に連れ込むと、身を寄せながらささやく。

「さっちゃん。結婚はいつまででも待つけど……あんまり待たせると、閉じ込めちゃうからね」

 それが冗談でないことを、さやかは知っている。誘拐から藍紀の家に帰ってきたときも、療養が必要だったとはいえ……半月近く外に出してもらえなかったのだから。

 そんな藍紀とさやかの関係は、人から見たら今もどこか歪んでいるのかもしれない。

「愛してる。狂うくらいずっと」

 そう告げた藍紀の胸に頬を寄せて、さやかは微笑んだ。

「私も。……お兄ちゃんにつながれたまま、生きていくね」

 花の香りが漂う中、庭の生垣に隠れて、二人は秘めやかにキスをする。

 遠くで義父と母が、息子たちを呼ぶ声が聞こえた。

 さやかと藍紀はそれに気づいていながら、お互いをみつめてくすりと笑って、また唇を合わせた。

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