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52 若頭と小鳥の決着

 呉葉は、兄の手の者が屋敷の厨房辺りに爆発物を放り込んだのだろうと言った。

 まもなく屋敷の中は大変な騒ぎになって、怒号と慌ただしい足音で混乱に落ちた。地下にこもっていた誘拐犯たちのところにもその恐怖は伝わって、さやかと呉葉のいる部屋に駆け込んできた。

「人質がいるってのに……! 狂ってるのかよ!」

 呉葉は言葉こそ返さなかったが、呆れたように視線を宙に投げた。そう言われてもね、僕らはやくざですから。そんな風に言いたげだった。

 誘拐犯たちは、指揮系統らしきものがないようだった。満足に命令を出す者もいないまま、地下室から逃げ出すこともできずにうろたえていた。

「人質を盾にして外に出るんだ……! 外にさえ出れば逃げられる」

 やっと一人が目標らしいことを口にしたとき、地下室の扉がみしりと軋む音が響いた。

 扉はガン、ガン……ッと外から鉄材のようなもので叩かれる。誘拐犯たちは震えあがったが、逃げ場はない。

 まもなく扉はこじ開けられて、筋と思われる男たちが流れ込んできた。

「お、おい、見ろ! 人質がどうなってもいいのか!」

 男の一人が、さやかの首筋に刃物を押し当てようとしたときだった。

 ドンと破裂音を立てて、その男が倒れた。さやかがその先を目で追うと……拳銃を持った男が目に入る。

「いいわけないだろう。……俺の妹だぞ」

 彼はますます目の下のクマを濃くしていて、不機嫌も限界のようだった。銘座は口元の布を下ろすと、配下の男たちに鋭く指示を飛ばす。

「連れていけ! 残らずだ!」

 配下の男たちは低い声で応じると、誘拐犯たちを引きずって外に連れて行く。

 その間に銘座はさやかのところに来ると、一瞬ためらってからさやかの首の包帯に触れる。

「血は……止まったのか?」

 先ほど迷いなく発砲した男と同一人物とは思えないほど、その声は不安に揺れていた。さやかはそんな不安を拭うように、柔く笑って返す。

「うん、大丈夫。くれはの手当てのおかげなの。……めいざも、助けに来てくれてありがとう」

 銘座はもどかしそうに口元を歪めると、さやかに背を向けて屈む。

「めいざ?」

「乗れ。兄さんも来てる。一刻も早く無事を見せてやるんだ」

「私……自分で歩けるよ」

 さやかはそう言ったが、呉葉が悪戯っぽく笑って言葉をかける。

「銘座に役得もあげてください。戻ったらしばらく、兄さんはさやかを側から離さないでしょうから。……閉じ込めてしまうかもしれませんね」

 それを聞いて、さやかはちょっと怖いような、少しだけそれを望むような思いになって、口元を歪めた。

 さやかは迷ってから、おずおずと銘座の背に体を預ける。銘座はそんなさやかの重みを、確かめるように背負い直した。

「……やっぱり小せぇの。兄さんのでなけりゃ、俺が監禁してやるのにな」

 銘座はぼやくようにつぶやくと、危うげなく立ち上がって歩き出した。

 庭に出ると、藍紀の手の者たちが屋敷の住民を残らず集めているところだった。さやかはその中の一人を見て、短く声を上げる。

「あ……」  

 誘拐犯たちはもうほとんどが連れて行かれたようだったが、卯月だけはそこに残されていた。子どもが事態を理解していないように、きょとんとして座り込んでいた。

「……お兄ちゃん」

 その前で、卯月の額に拳銃を構えた藍紀の姿があった。

「やめて、お兄ちゃん……!」

 さやかは悲鳴に近い制止を上げて、銘座の背中から降りる。

 藍紀はさやかの声を聞いて、はっとさやかに振り向いた。走り寄るさやかに、藍紀は泣きそうな顔になって腕を広げる。

 藍紀はさやかを腕の中に封じ込めると、かき抱いてその無事を確かめる。

「さっちゃん……! 怪我は……!」

「くれはが手当してくれたの。ごめん、お兄ちゃん。迷惑ばかりかけて」

「そんなことはいいんだ……! さやか、さやか……! 怖かっただろう? もう大丈夫だ」

 藍紀は繰り返しさやかの傷にそっと触れて、切ない声でさやかの名前を呼ぶ。

 さやかはその抱擁を胸いっぱいの気持ちで受けていた。怖かった。痛みは今もある。けれど藍紀に再会できた喜びが、それを癒してくれる気がする。

「お兄ちゃん……。私、お兄ちゃんのこと思い出したよ」

「……さっちゃん」

 さやかはそっと藍紀を見上げて言う。

「でも何度記憶をなくしても……やっぱりお兄ちゃんに惹かれるってわかった。お兄ちゃんは私の全部で、お兄ちゃんには……私の全部をあげたい。もらって……くれる?」

 さやかがおずおずと問いかけると、藍紀はうなずいて泣き笑いのような顔になる。

「それを訊いちゃうの? ……誰にも譲ったことない。さっちゃんは、子どもの頃から俺のでしょ?」

 さやかは藍紀の胸に頬を寄せて、うん、そうだったね……と少し泣いた。

 ずっと藍紀を抱きしめていたかった。けれど今どうしてもしなければいけないことがあって、さやかはおずおずと体を離して言う。

「お兄ちゃん、お願い……。その人を、私の……お父さんを、許して」

 藍紀はそれを聞いて、顔を険しくして返す。

「だめだ。さっちゃんを傷つけた。許しはしない」

「でももうその人は、私のこともお母さんのこともわからない。お母さんと同じで、かわいそうな人なの……」

 さやかが哀しい声で事実を告げると、藍紀は目を伏せて沈黙した。

 さやかは顔を上げて藍紀をみつめながら告げる。

「お兄ちゃんにも、傷ついてほしくない。その一線を越えてほしくないの。お兄ちゃんは、本当は優しい人だって知ってるから」

 子どもの頃から、さやかはその優しさに包まれてきた。だから彼に、自分のせいで罪を背負ってほしくなかった。

 じっと藍紀をみつめる、さやかの心が通じたのだろう。藍紀は目を上げて、配下に声を投げる。

「連れていけ。監視を怠るな。……ただし病院で、治療を受けさせるように」

 さやかは感謝をこめて、ぎゅっと藍紀の手を握った。藍紀はさやかの手を困ったようにさすってうなずく。

 そのとき、藍紀の配下が近づいて彼に耳打ちした。藍紀は少し驚いたようで、短く問い返す。

「……父さんが、来ていると?」

「はい、あちらに……」

 配下が示した先、庭のあずまやに、その二人はいた。

 藍紀とさやかがそちらに歩み寄ると、二人の声が聞こえてくる。

「愚かしいことをしたな、容子」

 義父が立ったまま見下ろす先には、諦観した様子の容子が座っていた。抵抗する素振りもなく、その頬には微かに笑みもある。

 容子は喉の奥で笑うと、挑戦的に元夫を見上げて言う。

「どうもしないわ。今後、監視でも何でもつければいい。私にとってあなたは政略の元夫に過ぎないし、子どもたちに愛着もないもの」

「お前が今更どう言っても、俺が今後果たすことは決まってるんだ」

 義父はそこで初めて、少年のように頬を緩めて笑った。

「念願が叶ったからな。……ひなこに、子が授かったんだ」

 それを聞いて、容子の表情が凍り付いた。彼女は信じられないというように首を横に振る。

「……そんな、はずない。だって私が、治療して」

「お前がつけた医師を、俺が信用すると思ったか? 一度もひなこに触れさせたことはない。それに子どもが出来たとわかってから、ひなこは少し記憶も戻ったんだ」

 義父は思いを馳せるように目を細めて、残酷なことを告げる。

「今、出会ったときよりなお、ひなこが愛しい。生まれてくる子を早く腕に抱いて、ずっと待っていたよと教えたい。……そのためになら、何でもできる」

 義父はふいに容子を冷めた目で見下ろすと、易しいことを告げるように言った。

「さて、別れを告げる相手もいないんだったな。……檻に入る時間だよ、誘拐犯」

 そのとき、義父は完全に容子への優しさを断ち切ったらしかった。

 容子は言葉を失ったように虚空を見ていた。義父が連れてきた黒服の男たちに連れられて、どこかに消えた。

 藍紀は何か言いかけたさやかを、腕の中に封じ込める。

「……これでよかったんだよ。さっちゃん」

 さやかはぎゅっと藍紀に抱きしめられたまま、走っていく車を見送った。

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