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51 若頭と小鳥の成長

 さやか、さやかと泣きそうな声で名前を呼ばれて、底に沈むようだった意識が少し上った。

 途端に体に走った痛みに、思わず震える。あえぐように息をこぼして目を開くと、そこに見慣れた姿をみつけた。

「くれは……」

 どうしてここに、と続けようとして、呉葉に口を塞がれた。

 静かにとささやかれて、さやかは口をつぐむ。

 辺りを見回せば、そこは変わりなく灰色の地下室だった。さやかはパイプベッドに寝かされていて、そっと首を触ればそこには包帯が巻かれていた。

 部屋にはさやかと呉葉だけで、さやかがどうにか体を起こすと、呉葉は声をひそめて言う。

「僕はあなたを手当する医者として立ち入りを許されたんです。……僕は家業で表に出ないので、面が割れていなかったのが幸いでした」

「……私のせい……で、危ない、ことに巻き込んで、ごめんなさい」

 さやかが申し訳なさに消え入るような声でつぶやくと、呉葉はさやかの首の包帯に上から触れて言う。

「悪いと思うなら、自分を傷つけるのだけは絶対によしてください。……さやか、あなたが自殺なんてしたら、兄さんは後を追うんですよ」

「え……」

 さやかが鮮烈な恐怖を抱いて言葉を失うと、呉葉はうなずいて続ける。

「「必ず助けろ。さやかが助からなかったら、俺もさやかと一緒のところに行く」。……ここに僕が来る前の兄さんの言葉です」

「そ、そんな……だって私のせいで、法外なお金を要求されてるんでしょう」

「兄さんがあなたと金をはかりにかけると、本気で思ったんですか? 兄さんはいくらでも用意しますよ。あなたの無事が買えるなら」

 呉葉はため息をついて言うと、ふいに苦い笑みを浮かべた。

「とにかく、致命傷でなくてよかった。すぐ駆け付けることができるところにいたのも幸いしました」

 呉葉はさやかの背に腕を回すと、独り言のようにつぶやいた。

「ばかさやか。もっとずるくなりなさい。そんな簡単に、命を捨てたらだめですよ……」

 抱きしめられて顔は見えなかったけれど、呉葉の声は少しにじんでいた。さやかの心もにじんで、そっと彼の背中を抱き返す。

 やがて呉葉は咳払いをして、体を離す。さやかもおずおずと腕をほどいて呉葉を見た。

 呉葉は顔を引き締めて、これからの話を始めた。

「僕をここに招き入れたのだけは好機でした。僕は素性を隠して、目隠しもされて連れてこられましたが……ここがどこかはわかったんです。密かに兄さんにも、伝えました」

 さやかはそれを聞いて、恐れをまといながら問いかける。

「ここは……どこなの?」

 呉葉は沈痛な顔で、うめくように答えた。

「……母さんの屋敷の地下です」

 さやかははっと息を呑む。呉葉は諦めの表情で言葉を続けた。

「愚かしいと、僕も思います。……兄さんはじきに救出に動くでしょう。さやか、それまで安静に体を休めてください」

 呉葉は労わりをもって、さやかをそっとベッドに横たえる。そのままベッドの脇で、さやかに声をかけた。

「鎮痛剤は打ってありますが、まだ痛むのならいっそ睡眠薬を打ちますか?」

 さやかはそれを聞いて、全身が重いのはそういう理由なのだとわかった。あの激痛も今は少し引いていて、だからこそ冷静に切り出すことができた。

「落ち着いて聞いて。……私、薬物を打たれたみたいなの」

 呉葉の眉が不穏に動いた。さやかは目を伏せて続ける。

「どんな薬かはわからない。全身が、痛くて……。きっと副作用とか、あって……こんな私、お兄ちゃんたちのところに……家族のところに帰っちゃ、だめ……」

「……さやか」

 呉葉はふいにくしゃりと顔を歪めて言った。

「兄と、家族と言ってくれた。記憶が戻ったんですね?」

「うん。だからこそ迷惑……かけたくないの」

 さやかが首を横に振ると、呉葉はさやかの額をそっと撫でた。

「何を言うんです。末っ子が迷惑なんて、気にしないんですよ。……そうか、よかった。戻ったんですね……」

 呉葉はうれしそうにさやかを覗き込んで、繰り返しよかったとつぶやく。

 彼は深く息をつくと、さやかに言い聞かせるように告げた。

「心配しなくて大丈夫です。僕らは伊達にこの世界に生きていない。回復の手立ては戻って必ず見つけますから、今はただ帰ることだけ考えていなさい」

 ぽんぽんと頭を撫でられて、さやかは呉葉の優しさに泣きそうになる。

 この優しさの中で自分は生きてきた。だったら……と、さやかは決意を固める。

「あの……それなら、睡眠薬は打たないで」

「さやか?」

「私もがんばるから。時が来たら、自分の足で帰るから……このままでいていい?」

 呉葉は微笑んで、そっと言葉を贈る。

「……強い子になりましたね、僕の妹」

 彼にそう言ってもらえると、さやかもこれからの危機に立ち向かえる気がした。

 痛みは徐々に戻ってきていた。けれどそれが生きている実感でもあった。さやかは目を閉じて呼吸を整えながら、その時を待つ。

 時計のない地下室で、時間感覚も鈍っていた。永遠にも感じる、長い沈黙があった。

 けれどやがて、屋敷のどこかで爆発音のようなものが響き渡る。

「……来た」

 呉葉がそう告げて、さやかも目を開いて前を見据えた。

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