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50 若頭と小鳥と願う幸せ

 さやかが血縁上の父と離れ離れになったのは、二歳にも満たない頃だった。

 だからさやかは、彼の……卯月うづきの言葉をほとんど理解できなかったはずで、その姿を完全に忘れてもおかしくはなかった。

 けれどさやかの中には忘れがたい聖域のように卯月の記憶が残っていた。彼は少年のように無邪気で、いつもじゃれあうように母と仲良く過ごしていた。そんな卯月と母に抱き上げられて笑ったときの幸せは、心に居座り続けた。

 だからこそ、さやかははじめ信じられなかった。さやかは薄暗い部屋で目覚めて、安っぽいパイプベッドの足元で支柱に手首を縛られていた。

 ……誘拐されたのだ。そう気づいたさやかを、卯月はおもちゃを見るような目で見下ろして……何のためらいもなく張り飛ばした。

 卯月はさやかの胸倉をつかむと、不機嫌に言う。

「ひなこ、やくざに体を売ったって?」

「ちが……」

 さやかはとっさに首を横に振った。母はさらわれるように義父に囲われたが、自分から身を差し出したわけじゃない。それに長い間卯月のことを思って苦しんでいて、さやかはそれをずっと見てきた。

 卯月は子どもが嘘つきを見るような目でさやかを見て言う。

「ひなこはお兄様のものだって言ったのに。嘘ついたんだ」

 また、と思う。さやかは確かに母に似ているけれど、二回り近く年齢差もあるし、まさか見間違えるとも思えない。けれど卯月は目の前のさやかこそが「ひなこ」だと、まったく疑っていない様子でその名前を呼ぶ。

「痛……っ、やめ……、て!」

「嘘つき。ひなこ、嫌い。汚い」

 繰り返し頬を張り飛ばされる。さやかは吹き飛ばされて顎を打ち、口の端から血が流れても、卯月は叩くのをやめなかった。

 口の端から流れてくる血を拭えないまま、さやかは顔をしかめる。……このためらいのない暴力も、さやかの中の優しい卯月と重ならない。

 時間が彼を変えてしまったのか。でも、この子どものような様子はまるで……と思ったとき、部屋に男たちが入ってきた。

「へへ、卯月ちゃん、ご機嫌ななめなのかい?」

「だめだよ、大事なペットなんだから」

 いびつにへらへらと笑う顔も、揶揄する言葉遣いも、さやかをぞっとさせた。もやのような記憶の中で……さやかを大切に守ってくれた誰かは、決してさやかをそんな連中に触れさせたりしなかった。

 そして彼らがさやかのことをペットと言ったとき、さやかの記憶に蘇るものがあった。

「ペット……」

 卯月は母とさやかは大切にしてくれたが、どうしようもない悪癖があった。さやかが幼い頃飼っていたペットをいじめ抜いて……最終的には殺してしまったことがあった。

 男の一人が嫌な笑い方をして言った。

「この坊ちゃんはアル中でな。治療のために子ども還りさせたんだと」

「子ども、還り……? 誰、が」

「さあ? 治療っていうのは金がかかるらしいから、どこかの金持ちがしたんだろうよ」

 さやかの全身がきりきりと痛む。勝手に涙があふれてきて、止まらない。

 痛い、痛い……この狂うような、痛みは何?

 男たちはせせら笑って顔を見合わせる。

「薬が効いて来たな」

 ……たぶん自分は何かの薬物を打たれたのだと、恐怖より絶望に近い思いで受け止めた。

「金持ち同士の争いは儲かる。便乗させてもらうだけだ。……さあ来い」

 男の一人がさやかの縛られている鎖を引くと、半ばひきずるようにさやかを隣室に連れて行く。

 鉄骨がむきだしになった地下の一室、そこには柄の悪い男たちがいくつかのソファーに身を沈めていた。時に奇声を上げて、時にけたけたと笑っている男たちで……アル中や薬漬けなのかもしれなかった。

 光を嫌うように暗い一室の中で、一台のパソコンの光がまぶしいほどだった。男の一人が、やくざになりきったように怒声を響かせる。

「まだ身代金の用意はできねぇのかよ!」

『さやかの無事を確認してからだ』

 モニターの向こうから聞こえた声に、さやかの肩が震えた。顔も見えないのに、それが誰かわかったからだった。

 さやかに向けるのとはまるで違う、凍てついた響きでその声は命じる。

『さやかに会わせろ。すぐにだ』

「……しょうがねぇな」

 さやかは首筋に刃物を押し当てられたまま、ぐいとモニターの前に突き出された。

『さやか……!』

 モニターごしに、藍紀がいた。さやかはそれをみとめた途端彼に包まれていたこの数週間を思いだして、こんな状況なのにほっと安堵した。

 けれどさやかの顔は涙に濡れてひどく腫れていて、口の端に血もにじんでいた。藍紀は素早くそれに目を走らせて、男たちを殺めるような目でにらみつける。

『……さやかに、何をした?』

 男たちは地を這うような怒声に一瞬怯んだが、すぐにもごもごと言い訳するようにつぶやく。

「なかなか金を出さねぇから……ほら、お前も兄ちゃんにお願いするんだ」

 さやかは前に押し出されて、藍紀と向き合う。

 さやかは全身の痛みでぽろぽろと泣いていた。情けないと思うのに、痛みで涙が止まらない。

 自分に打たれたのがどんな薬か正体はわからない。もし藍紀の元に戻れても……迷惑をかけるだろう。なら、どんな形が彼の幸せだろう……?と思いを馳せる。

 思い出すのは藍紀の優しい声。全部は戻らなかったけれど、どこかで覚えている優しい記憶。それはとても大切なものだったと、今ならわかる。

 ……だって彼は自分を小鳥のように大切に守っていたけれど、決してペットのように虐げたりはしなかった。

「藍、紀さん……ありが、とう」

 さっちゃん、と藍紀の唇が動いた。何を、と震える声でつぶやく。

「私のこと、大事にしてくれて……守ってくれて。……愛して、くれて。忘れたことがあっても、愛されてたことは、わかってる……だから」

 さやかは微笑みながら、藍紀の顔を焼き付けるようにみつめる。

「私にも、愛させて。……幸せになって、私の……お兄ちゃん」

 愛の言葉が届いたかどうかは、確かめる時間がなかった。

 ……さやかは男の突きつけた刃物に自分から首を押し付けて、引いた。

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