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番外編 若頭と小鳥の過去と現在 7

 ひなこに手術を受けさせたのと同時期から、その心の治療も始めた。

 今までもカウンセリングは施してきたが、この治療は裏社会の医師によるもので、洗脳と呼ばれることもあった。

 こんな方法でしか大切なものを守れない自分を、今は疎ましく思った。けれどひなこの痛みや苦しみを取り除いてやれるなら、手段を選んではいられなかった。

 俺はある日ひなこの病室を訪ねて言った。

「ひなこ、今のままではお前が壊れてしまうかもしれないんだ。だから……お前にとってつらい過去は、手放してしまおう?」

「てばなす……?」

 青白い顔で病室のベッドに沈んでいたひなこは、俺の言葉がわかっているかも不確かだった。俺はそっとひなこの頬に触れてうなずく。

「そうだ。お前が幸せだった頃に、心の時を戻す。……大丈夫だ。さやかのことは忘れないように細心の注意を払う。たぶんお前が少女だった頃か、あるいは子どもだった頃に戻るだろう」

「子ども……幸せだった、とき」

 ひなこは記憶をたどるようにつぶやいて、淡く笑う。

「戻れるの……? それなら……うれしい」

 俺はほっと胸を撫でおろした。ひなこが喜んでくれるのならもっと早くそうすればよかったと思った。それだけひなこを今まで追い込んでいたのだと、後悔する思いもあった。

 ひなこは自分から俺の手に触れて、願いを告げる。

「お願い、さっちゃんの思い出は、触れないでね……。大事な大事な、宝物なの」

「わかってる。お前はずっとそうだった」

 俺はひなこが望むなら、家も持ち物もどれだけでも与えてやるつもりだった。けれど結局ひなこが俺に求めたのは、この家に来てから今まで、さやかのことだけだった。

 ……何でもいい。どれほど求めてほしいと思ったことだろう。俺は目を伏せて苦い思いをかみしめた。

 ふいにひなこは手探りのような声音で、そっと俺に問いかけた。

「凌紀さんのことは、どうなるの……?」

「俺か?」

 俺はひなこのその問いに意外さを感じながら答える。

「俺はお前の記憶から、いなくなる。それでいい」

 ひなこの人生を狂わせた、その苦しみと悲しみの中心に俺がいたはずだ。一番消えるべき、癌そのもののような記憶だろう。

 けれどひなこは俺をみつめて、哀しいような表情を浮かべた。

「……ううん。凌紀さんは消せない」

「ひなこ?」

「どうあっても、消えないの……」

 ひなこは何か言いかけたが、それ以上言葉は続けなかった。

 手術後の疲れが残っていたのだろう。ひなこはやがて眠りについて、俺はしばらくその横でひなこの眠る横顔をみつめていた。

「必ず……お前に幸せを、戻してやるからな」

 それから始まった治療の日々は、ひなこが今まで負った傷を、少しずつ覆っていくようだった。苦しみも悲しみも、淡い夢の中に手放していく作業に似ていた。

 自分に夫がいたことも、自分が子どもを産んだことも、ひなこは忘れていった。それと引き換えに、ひなこは陽だまりのような笑顔を取り戻していった。

 小学生ほどで、ひなこの子ども還りは止まった。おそらくそれが、彼女にとって一番幸せだった頃なのだった。

 けれどひなこは、自分の産んだ子だということは忘れても、いつまでもさやかのことは記憶に残り続けたようだった。

「ねえ、さっちゃんはどこ? さっちゃんのごはんは?」

「大丈夫、さやかは元気でやっている。もうすぐ大学に入るよ」

「あいたい、さっちゃんに会いたい……」

 ひなこにとってさやかはいつまでも三歳ほどの幼い子どもで、時々さやかを恋しがって泣くことがあった。そんなときは長いこと抱きしめて、背中をさすってやらないといけなかった。

 ひなこの心の治療は、一応は成功したといえるのだろう。ひなこはよく笑い、食事もきちんと摂るようになった。健やかな生活のおかげで、手術をして五年が経つ今も、ガンの再発も抑えられている。ひなこが自分を幸せだと思っているか、そればかりはわからないが。

 それで、現在。俺とひなこにとって、今となっては小さな変化があった。

「ひなこ。今日がどんな日かわかるか?」

 ひなこと出会って、もうすぐ二十年。本当なら出会った時にすべきだったことを、しようと思った。

「……結婚記念日だ。俺たちは結婚したんだよ」

 今日、俺は妻と正式に離婚して、ひなこと結婚した。

 俺はひなこの隣の席に座って、苦笑しながら告げる。

「今となっては何の贈り物にもならないだろう。俺の完全な自己満足だ。……でも過去のお前は、それで苦しんだ頃があったように思う。その過去から、少しだが変わったと証明してやりたいんだよ」

 ひなこは俺の言葉を、口も挟まずにじっと聞いていた。

 長い沈黙。ひなこは澄んだ瞳で俺をみつめて、ふいに口を開く。

「りょうき……さん」

「何だ?」

 どうしてだかひなこは、俺の名前は忘れなかった。そろそろと俺の頬に触れて、表情を変える。

「ありがとう……」

 ひなこが柔く笑ったとき、俺は時が巻き戻ったのかと思った。

 初めて出会ったときも、そうだった。煙草の火を消しただけの俺に、ひなこは優しく、全部を許すように笑った。

 あの日、俺は呼吸が止まったような思いがして、そのときから何もかもが色を変えた。

 俺は泣くような顔で笑って言う。

「ひなこ。……お前は、今も少しも変わらず可愛い」

 お前は柔く、甘く、綺麗で。お前に出会う前の自分を忘れてしまうほど、俺の世界の中心だ。

 俺はひなこの指輪のはまった手に自分の手を重ねて、二人だけの晩餐を始める。

 二人で暮らし始めた藍紀とさやかは、きっと今頃遠い未来を思い描いているのだろう。

 けれど俺は今、ひなこと共有している現在こそが愛おしくて、今日もそれに溺れている。

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