ひなこの変調は忍びやかに、見る間に色濃く訪れた。
「ひなこ? 真っ青じゃないか。医者は呼んだのか?」
一緒に暮らし始めて目の当たりにすることになったが、ひなこは頻繁に寝込む。けれどここに来るまでの貧しい暮らしが尾を引いたのか、自分からはほとんど医者にかからず、気づけば入院するような病状になっていることが多かった。
俺が使用人に聞いて早くに帰宅すると、厨房でうずくまるひなこをみつけた。俺が顔をしかめて手を差し伸べると、ひなこはその手を取ることなく言う。
「さっちゃんに……ごはんを作らなきゃ」
「さやかには使用人がついてる。もう今日の食事に困るような生活じゃないんだ。お前もいい加減それを受け入れて、慣れるんだ」
構わず俺が抱き上げても、ひなこは夢の中のような目で、さっちゃんが、さっちゃんはと繰り返す。
ひなこの変調は、元々の体の弱さもあったのだろう。けれどそれ以上に、ひなこは心が弱かった。
ひなこは、決して誰も攻撃しない。自分を置いて逃げた夫も、助けにもこない実家の人間にも、自分をこの状況に追い込んだ俺にさえ。そのあどけなさも清浄さも俺は愛していたが、背中が冷たくなるような不安を覚えることもあった。
「……さっちゃん。さっちゃん!」
わずかに体調のいい日が続いたと思えば、真夜中に悪夢に目覚めて、びっしりと冷たい汗をかいて震えていることもあった。
「どうした?」
「さっちゃんが、車に……! どうしよう、どうしよう……!」
隣で俺が身を起こすと、ひなこはわんわんと子どものように泣いていた。俺はその小さな体を抱いて、あやすように背中をさする。
「ベッドに入る前にさやかの寝顔を見ただろう? 落ち着け、そんな怖いことはないよ……」
俺がそう言い聞かせても、ひなこはなかなか泣き止んでくれなかった。
ありもしない想像、過剰なほどの心配。ひなこの抱く恐怖は、いつもさやかにまつわることだった。
「さっちゃん、待って。いかないで、置いていかないで……!」
さやかがさらわれる。さやかが病気で逝ってしまう。ひなこは次第に幻覚じみたものも見るようになって、その精神をすり減らしていった。
ひなこが夫とさやかの三人で暮らした日々は、幸せだったとは思えない。俺が吹っかけた借金で苦しみ、夫はアルコール中毒、自身もさやかも病弱では、安息などなかっただろう。
けれどひなこはさやかの前でだけは、微笑みをたやさない母親でいた。だからたぶん……三人で暮らしていたときも、さやかには幸せを見せ続けたのだろう。
「さっちゃん、おいしい?」
「うん! さやか、おかあさんのハンバーグがいちばんすき」
ひなこはさやかの隣に座って、自分の作った食事をさやかに食べさせるときが、一番幸せそうに見えた。
一年、また一年と過ぎるうち、ひなこ自身が口にする食事は目に見えて減っていった。寝込む日も加速的に増えて、元気な日を数えるのが難しくなるほどだった。
ある春の昼下がり、新芽の香りが漂うような日のことだった。
「ひなこさんは、長くありません」
この屋敷にひなこを迎え入れてからずっとつけていた医師が、重い口を開いて告げた。
「……何て言った?」
「ガンです。手術で取り除いても、今の体力では回復が難しい。再発の可能性の方が高いのです」
俺がごくりと息を呑むと、医師は苦い顔で続けた。
「さやかさんと引き離して苦しみながら治療させるより……穏やかに、この屋敷で残りの生を送った方が」
「馬鹿を言うな!」
俺は我を失うような怒りを覚えて言い返す。
「すぐに入院させて手術を受けさせる! ……長くないなど絶対に本人に聞かせるな。金などいくら使ってもいい。必ず回復させろ」
医師にきつく言いつけて、俺は動悸を感じながら部屋を出た。
……ひなこがいなくなる。考えたこともなかった未来に、体の芯から震えがのぼってきた。
鳥籠に入れるように守ってきたのに、そんな形でひなこは俺から逃げようとしているのだ。そうまでして俺を拒絶するのかと、歯噛みする思いがした。
「……だめ、だ」
もしひなこが自らの病状を知ったら、あっけなくその命を手放してしまう。俺は生まれて初めて、鮮烈な恐怖を感じた。
知られるわけにはいかない。ひなこを失うわけにはいかない。どうしたら、どうしたら……? 命を取り合うような仕事でもうろたえたことなどなかったのに、今たった一つの命が失われると思っただけで叫び出しそうだった。
「お義父さん……?」
呼ばれてのろのろと顔を上げると、さやかが立っていた。
俺は気づけば庭に出て、うなだれるように大理石の椅子に座っていた。その前で、さやかは心配そうに俺をみつめていた。
この頃、さやかは中学生になっていた。ここに来てまもなく検査をして、ひなこと夫の子どもだということは判明していた。けれどひなこに生き写しの、その澄んだまなざしも柔い雰囲気も、自分の子と変わらず愛していた。
さやかは、長男の藍紀にとてもよく懐いていた。二人でままごとをしたり、くっついて眠ったりしていて、小さな恋人同士のようにも見えた。
さやかは真っ青な顔色をした俺に気づいたのだろう。けれど何も言わずに、俺の手を両手で包んだ。
ふいに心に訪れたのは、切なる羨望だった。
「……さやか、藍紀にするように、俺も抱きしめてくれるか」
俺が気弱なことを言ったときも、さやかは優しくうなずいて応じてくれた。
どうしてとも、何かあったんですかとも訊かずに、さやかは俺を抱きしめる。
その温もりの中で、思う。藍紀はいいなと。
俺ももっと早くひなこに出会いたかった。ひなこが夫にも、他に心惹かれるものにも会う前に、俺だけが誰よりもひなこを大切にしたのなら、ひなこは俺を愛してくれただろうか。
けれど何度出会ったときからやり直しても……俺はお前を愛してしまうんだろう。
「さやか、何してる!」
そのとき、鋭い制止の声が響いた。さやかが俺からおずおずと体を離して振り向くと、そこに藍紀が立っていた。
藍紀はさやかの手を引いて自分の背中に庇いながら、俺をにらみつける。
「父さん、さやかをどんな目で見たか気づいていますか?」
俺はつくづく、藍紀は俺の息子なのだなと実感する。
藍紀が言うことは正しい。俺は一瞬だけ弱い思いに取りつかれた。さやかは俺を愛してくれている。さやかなら……ひなこの代わりにならないだろうかと。
けれどさやかに抱きしめられ、藍紀に弾劾されて、俺は少し正気を取り戻せた。どうあっても俺はひなこだけを抱きしめたいのだと、心が言っていた。
俺は藍紀に苦笑して、さやかにそっと言う。
「さやか、しばらくひなこは入院する。……だが必ず帰って来るから、待っていてくれるか」
俺はひなこの部屋を見上げて、誓うように告げる。
「ひなこを失うわけにはいかない。……俺は、他には何も要らないから」
だから生きていてくれと、俺は心で祈った。