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朝六時、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
カーテンを開けると予報通りの快晴だ。
シャワーを浴びながら、今日の段取りを頭の中で確認する。
十時に村の入り口で待ち合わせ。
逆算すると七時には出発したい。
朝食は軽めに済ませた。
山道の運転で車酔いすることもある。
機材を車に積み込み、最後の点検を行う。
バッテリーの充電、メモリーカードの空き容量、レンズの汚れ──すべて問題なかった。
高速道路は空いていた。
平日の朝だから当然かもしれない。
インターチェンジを降りると、景色が一変した。
田園風景が広がり、遠くに山並みが見える。
ナビゲーションの案内に従って県道を進む。
次第に道幅が狭くなり、カーブが増えてきた。
対向車とすれ違うたびに、ハンドルを左に切る。
ガードレールの向こうは深い谷だった。
九時半、「灯之村へようこそ」という看板。
村の入り口には小さな駐車スペースがあり、軽トラックが一台停まっていた。
車から降りると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
標高が高いせいか、都会より気温が低い。
「SONOKO様ですね。お待ちしておりました」
振り返ると、五十代くらいの女性が立っていた。
紺色の事務服に、村の観光課と書かれた名札を付けている。
「初めまして、観光課の田中です。今日はよろしくお願いします」
彼女は両手を前に差し出した。
掌を上に向けて、まるで何かを差し上げるような仕草だ。
握手かと思って右手を伸ばすと、田中さんはさっと両手を引っ込めた。
「あ、これが私たちの挨拶なんです。お客様にはこうやってご挨拶するのが村の習わしで」
もう一度、両掌を上に向けて差し出す。
今度は手を出さずに見ていると、数秒後に彼女は手を下ろした。
満足そうな表情を浮かべている。
「変わった挨拶ですね」
「そうでしょう? でも村の人同士は普通に会釈するだけなんですよ。お客様だけ特別なんです」
理由を聞こうとしたが、彼女はすでに歩き始めていた。
「まずは村長にご挨拶を。その後、診療所や学校を回りましょう」
村の中心部は思っていたより整備されていた。
アスファルトの道路、電柱、自動販売機。
どこにでもある田舎の風景だ。
すれ違う村人たちは、私たちに軽く会釈をする。
田中さんには普通の挨拶なのに、私を見ると立ち止まって両手を差し出してくる。
老人も、中年の主婦も、高校生らしき少年も。
みんな同じ仕草で挨拶をした。
掌を上に向けて、じっと差し出す。
私が動かないでいると、やがて手を下ろして去っていく。
三人目の村人に会ったとき、私も試しに同じ挨拶をしてみた。
すると相手はなぜか慌て出した。
「駄目です!」
田中さんが鋭い声で注意する。
「どうしてですか?」
「そういう決まりなんです。見ていただくだけで。外の人たちは駄目なんですよ、あの挨拶をしてもらっては」
「そう……ですか、すみません、わかりました」
いわゆる因習──いや、因習だと意味合いが違うか。
風習、慣例というやつだろうか。
納得したとは言い難いが、とにかくその場は納得して見せる。
村長の家は、築百年は経っていそうな古民家だった。
縁側に腰掛けた白髪の老人が、私たちを待っていた。
「ようこそ灯之村へ。村長の山田です」
彼も立ち上がって、両手を差し出した。
皺だらけの掌を、太陽に向けるように上向きにしている。
じっと見ていると、老人は満足げに頷いた。
「良い気をお持ちですな」
意味がわからず、曖昧に微笑むしかなかった。
村長は淡々と村の歴史を語り始めた。
開村は江戸時代中期、山間の隠れ里として始まったという。
水が清らかで、土地が肥沃だったため、自給自足の生活が成り立った。
「長寿の秘密は何だと思われますか?」
私の質問に、村長は少し考えてから答えた。
「特別なものは何もありませんよ。水、空気、そして助け合いの精神。それだけです」
「あの挨拶も、助け合いの精神の表れですか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
村長は言葉を濁した。
少し気になるが、多分村長自身もあの挨拶の所以をよく知らないのだろう。
診療所は村で一番新しい建物だった。
白衣を着た医師が、健康診断のデータを見せてくれる。
「確かに住民の健康状態は良好です。生活習慣病の罹患率も全国平均を大きく下回っています」
カメラを回しながら、具体的な数値を確認する。
血圧、コレステロール値、血糖値。
どれも理想的な数字だった。
「食生活に秘密があるのでしょうか?」
「それが不思議なんです。特別な食材があるわけでもない。普通の和食中心の食事です」
医師も首をかしげていた。
診察を終えて外に出ると、看護師が両手を差し出して挨拶をしてきた。
白い制服の袖から伸びた腕が、宙に浮いているように見える。
掌には何も乗っていない。
ただ、上を向けて差し出されているだけだ。
午後は村の各所を撮影して回った。
棚田では稲穂が黄金色に輝いていた。
農作業中の男性が手を止めて、泥だらけの両手を差し出してくる。
「いい天気ですな」
土の匂いがかすかに漂ってきた。
神社の境内では、老人たちが日向ぼっこをしている。
私の姿を見つけると、全員が立ち上がった。
一列に並んで、順番に両手を差し出してくる。
まるで儀式のようだった。
五人、六人と続くうちに、妙な感覚に襲われる。
彼らは何かを差し出しているのか、それとも受け取っているのか。
小学校では、十数人の子どもたちが元気に遊んでいた。
「お客さんだ!」
子どもたちが駆け寄ってきて、小さな手を差し出す。
「先生が言ってた。お客さんにはこうするんだって」
無邪気な笑顔だが、その仕草は大人たちと寸分違わない。
掌を上に向けて、じっと差し出す。
私が何もしないでいると、満足そうに手を下ろした。
夕方、宿泊先の民宿に案内された。
女将も玄関先で両手を差し出して迎えてくれる。
「お風呂は温泉ですよ。疲れを癒してくださいね」
今日だけで何度この挨拶を受けただろうか。
数えるのも馬鹿らしくなってきた。
部屋に荷物を置いて、さっそく温泉に向かった。
内湯だけの小さな浴場だったが、湯質は素晴らしかった。
無色透明で、かすかに硫黄の香りがする。
肌がつるつるになるような、とろみのある湯だった。
湯船に浸かりながら、今日一日を振り返る。
あの挨拶の意味がどうしてもわからない。
何かを渡しているようで、何も渡していない。
夕食は地元の食材を使った料理が並んだ。
山菜の天ぷら、川魚の塩焼き、自家製の漬物。
どれも素朴だが、味わい深い。
「この野菜、すごく甘いですね」
「うちの畑で採れたものです。土がいいんでしょうね」
女将は嬉しそうに説明してくれた。
食事中、思い切って聞いてみた。
「あの両手の挨拶は、いつから始まったんですか?」
女将の手が一瞬止まった。
「さあ、いつからでしょう。私が生まれたときにはもう、そういう決まりでしたから」
「なぜ外部の人間が同じ挨拶を返してはいけないんですか?」
「さあ……私らもよくわからないんですよ、実は」
村長もよくわかっていなさそうだったが、まあそういう由来不明の慣習は案外に多い。
私が気にしすぎなのだろう。
食後、部屋で今日撮影した映像を確認した。
村の風景、人々の表情、健康データ。
素材は十分に集まっている。
ただ、何かが足りない気がした。
長寿の決定的な理由が見つからない。
水も空気も確かに良いが、それだけでは説明がつかない。
ノートパソコンを開いて、メモを整理する。
「両手の挨拶・部外者限定・掌を上に向ける・ただしよそ者は駄目」
キーボードを打ちながら、違和感の正体を探る。
あの仕草は本当に挨拶なのだろうか。
そんな事を考える。
──まあ、でも。挨拶って言っていたし
私はそう結論づけて動画の編集を始めた。