◆
「でも、それはあくまで象徴的な意味ですよね?」
私は慌てて確認した。
「普通はそうです。でも……」
また間があいた。
「先輩、実は密教関係の文献で面白いものがあるんです。『災火抄』という写本なんですが」
「災火抄?」
「江戸時代に民間に流出した密教文書です。正統な仏教からは異端とされていますが」
後輩は文献の詳細を教えてくれた。
国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できるかもしれないという。
「その中に『禍を薄めて流す印』というのがあるんです。図版もあるはずです」
私はすぐに国会図書館のサイトにアクセスした。
デジタルコレクションの検索窓に「災火抄」と入力する。
ヒットした。
江戸後期の写本で、全三巻。
閲覧可能になっていた。
PDFをダウンロードして、ページをめくっていく。
墨で書かれた古文書は読みづらかったが、図版を探すだけなら何とかなる。
巻之二の中ほどに、それはあった。
両手を組み合わせた印の図。
説明文には「禍炎を薄め流す法」とある。
図をよく見ると、掌を重ねる形だった。
灯之村の挨拶とは違う。
向こうは掌を上に向けて差し出すだけで、重ねることはない。
でも、何か引っかかるものがあった。
私は説明文を読み進めた。
古文は苦手だが、漢字を拾い読みすれば大体の意味はわかる。
「禍炎」「薄める」「流す」「他者」「移す」
そんな言葉が並んでいた。
Slackに戻って、後輩に報告する。
「見つけました。でも村の挨拶とは形が違います」
「そうですか。でも『流す』という表現が気になりますね」
「流す?」
「何かを移動させる、という意味です。禍を薄めて流す、つまり災いを薄めて他に移すということかも」
私は画面を見つめたまま、考え込んだ。
もしかして、と思う。
いや、まさか。
「先輩、もう一つ調べてみたらどうでしょう」
後輩からの提案が来た。
「漢字の語源です。特に『火』という字」
「火?」
「災火抄の『火』です。古代中国では、火は単なる炎じゃなかったんです」
言われてみれば、確かに気になる。
私は電子辞書を開いて、『字統』を検索した。
白川静の漢字辞典だ。
「火」の項目を見る。
象形文字の成り立ちから、意味の変遷まで詳しく書かれていた。
その中に、興味深い記述を見つけた。
「火は災いの象徴でもある。兵火、戦火などの用例に見られるように、火は破壊と災厄を表す」
さらに読み進めると、こんな一節があった。
「古代において、火は熱病の隠喩としても用いられた。体内の火、熱毒などの表現がそれである」
熱病。
発熱。
私の手が震えた。
まさか、そんな。
でも、偶然にしては……。
『字源』も確認してみた。
藤堂明保の辞典だ。
こちらにも似たような記述があった。
「火は災害、疫病、戦乱を表す。これらを総称して『火災』と呼んだ」
私はノートに書き留めた。
火=災い、疫病、熱病。
灯之村。
村の名前にも「火」に関連する「灯」が使われている。
これも偶然だろうか。
Slackに戻ると、後輩からメッセージが来ていた。
「どうでした?」
「火には災いや熱病の意味があるようです」
「やはりそうでしたか」
後輩も何か感じているようだった。
「でも先輩、これはあくまで言葉の上での話です。実際に何かが移るわけじゃありません」
「わかっています」
そう返信しながらも、私は確信が持てなかった。
発熱した人の数。
死亡した二人。
そして、あの一方通行の挨拶。
すべてが繋がっているような気がしてならなかった。
「もう少し調べてみます」
そう宣言して、私は再び検索を始めた。
今度は「渡す」という言葉に注目した。
灯之村の挨拶は、何かを渡しているように見える。
でも手には何も持っていない。
では何を渡しているのか。
『字統』で「渡」を引く。
「水を渡る」が原義だが、転じて「移す」「送る」の意味もあるという。
特に注目したのは、こんな用例だった。
「病を渡す」「厄を渡す」
古代中国では、病気や災厄を他者に移すという考えがあったらしい。
もちろん、実際に移るわけではない。
呪術的な、象徴的な意味での話だ。
でも……。
私はパソコンの画面から目を離した。
窓の外は夕暮れ時だった。
一日中調べ物をしていたことに気づく。
コーヒーを淹れて、一息ついた。
冷静に考えよう。
私は何を調べているのか。
まるで、あの挨拶に呪術的な力があるとでも言いたいのか。
二十一世紀の現代に、そんなことがあるはずがない。
でも、心のどこかで囁く声があった。
──では、なぜ観光客だけが発熱する?
──なぜ村人は何ともない?
──なぜ、あの挨拶は一方通行でなければならない?
私は首を振った。
これは単なる偶然の一致だ。
言葉の意味と現実を混同してはいけない。
「火」が熱病を表すからといって、灯之村と発熱が関係あるわけじゃない。
「渡す」が病を移す意味があるからといって、あの挨拶で何かが移るわけじゃない。
そう自分に言い聞かせた。
でも調査をやめる気にはなれなかった。
まだ調べていないことがある。
灯之村の歴史、あの挨拶の由来。
どこかに答えがあるはずだ。
私は新着メッセージの通知に気づいた。
DMを開くとリスナーからのものだった。
六十代の男性。
「動画を見て、結婚記念日に訪れました。素晴らしい村でした」
返信を打とうとして、手が止まった。
聞いてみたい。
──あの村に行ってから、体調を崩したりはしていませんか?
と。
知りたかった。
でも知りたくなかった。
結局、そのまま何も返信していない。
◆
翌日。
また村を再訪することを決めた。
現地で調べれば、何かわかるかもしれない。
役場の古い資料、寺の過去帳、年寄りの証言。
どこかに、あの挨拶の真実が隠されているはずだ。
私は旅行の準備を始めた。
今度は一泊二日の予定だ。
じっくりと調査する時間が必要だった。
でも心のどこかで不安も感じていた。
もし私の推測が正しかったら。
もしあの挨拶に本当に意味があったら。
私はとんでもないものを世に広めてしまったのかもしれない。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。