◆
朝になってレンタカーの予約を入れた。
明後日の早朝に出発する予定だ。
今度は観光ではなく調査が目的。
カメラは最小限にして、ノートとペンを多めに用意した。
その日の午後、新着DMの通知が鳴り続けた。
開いてみると、発熱報告が五件も来ていた。
もう数えるのも嫌になるほどだ。
症状はみんな同じ。
三十八度前後の熱、強い倦怠感、三日から五日で回復。
「灯之村、本当に素敵でした。でも……」
どのメッセージも、そんな書き出しで始まっていた。
私は返信することをやめた。
何を言えばいいのか、もうわからない。
「お大事に」では済まされない。
かといって私の推測を伝えるわけにもいかない。
夜になって、なんとなくDMの数を数えてみた。
発熱報告だけで、すでに十件を超えていた。
動画の再生回数は百万を突破している。
そのうちの何パーセントが実際に村を訪れたのか。
そしてその中の何人が発熱したのか。
報告してこない人もいるはずだ。
軽い症状で済んだ人、単なる風邪だと思い込んでいる人。
実際の数は、もっと多いかもしれない。
私はノートに向かって、調査メモをまとめ始めた。
「火」=災い、疫病、熱病。
「渡す」=移す、送る。
「灯之村」=火の村?
あの挨拶=何かを渡す儀式?
ペンを置いて頭を抱えた。
証拠がない。
すべて推測と言葉遊びでしかない。
これは思い込みだ。
そう自分に言い聞かせた。
でも心の奥で別の声が囁く。
──本当に思い込みか?
──ではなぜこんなに符合する?
──なぜ観光客だけが……。
私は立ち上がって、窓を開けた。
冷たい夜風が部屋に流れ込む。
深呼吸をして、頭を冷やそうとした。
明後日、村に行けば何かわかるだろう。
古い資料を調べれば、あの挨拶の由来が見つかるはずだ。
そうすれば、この馬鹿げた推測も終わる。
◆
出発の朝は曇り空だった。
天気予報では午後から雨になるという。
高速道路を降りて、見覚えのある山道に入る。
前回と同じルートだが、景色が違って見えた。
木々が不気味に揺れ、谷底が深く暗い。
村の入り口に着いたのは、ちょうど十時だった。
今回は事前の連絡をしていない。
駐車場に車を停めて、まず役場に向かった。
「あら」
受付の女性が驚いたような顔をした。
「また取材ですか?」
「はい、前回撮り忘れたものがありまして」
嘘をついた。
本当の目的を言うわけにはいかない。
「古い資料を見せていただけませんか? 村の歴史について調べたくて」
女性は少し困った顔をしたが、上司に確認すると言って奥へ消えた。
しばらくして、年配の男性職員が現れた。
「資料室は二階にあります。ただ、整理されていないものも多くて」
「構いません。お時間をいただければ」
男性は鍵を持って、私を二階へ案内した。
資料室は埃っぽく、段ボール箱が山積みになっていた。
「江戸時代の文書もありますが、読めますか?」
「なんとか頑張ってみます」
男性が去った後、私は箱を一つずつ開け始めた。
明治の戸籍、大正の村議会議事録、昭和の広報誌。
どこにも、あの挨拶についての記述はなかった。
三時間かけて、ようやく江戸時代の文書にたどり着いた。
黄ばんだ和紙に、墨で書かれた文字。
判読は困難だったが、村の年中行事や慣習が記されているようだった。
その中に、気になる一節を見つけた。
「客人ニ対シテハ……」
そこから先が虫食いで読めない。
次のページも、水濡れで文字がにじんでいた。
結局、あの挨拶についての明確な記述は見つからなかった。
午後、寺を訪ねた。
住職は留守だったが、若い僧侶が過去帳を見せてくれた。
「何かお探しですか?」
「村の古い慣習について調べているんです」
僧侶は首をかしげた。
「慣習ですか。うちは明治に建て直されたので、古い記録はあまり……」
過去帳をめくっても、死者の名前と没年が並ぶだけだった。
ただ、一つ気づいたことがある。
江戸時代後期から明治初期にかけて、死者の数が異常に少ない。
まるで、その時期だけ死ななかったかのように。
「この時期、何かあったんですか?」
「さあ、特に聞いたことはありませんが」
僧侶も不思議そうな顔をしていた。
夕方近く、診療所に立ち寄った。
前回会った医師がいたので、健診データをもう一度見せてもらった。
「観光客の方で、体調を崩した人はいませんか?」
私はさりげなく聞いてみた。
「観光客? いえ、特には」
医師の答えは前回と同じだった。
「ただ、不思議なことに村民の健康状態は年々良くなっています」
「年々?」
「ええ。特にここ数年は顕著です。まるで若返っているかのような」
医師はデータを示しながら説明した。
確かに各種数値が改善している。
それも観光客が増え始めた時期と重なっているような……。
いや、これも思い込みかもしれない。
私は礼を言って診療所を後にした。
◆
日が暮れかけていた。
今夜は前回と同じ民宿に泊まる予定だった。
村の中心部を歩いていると、ちょうど火渡り祭りの準備が行われていた。
「あ、SONOKO様」
田中さんが笑顔で近づいてきた。
「また来てくださったんですね」
彼女は例の挨拶をしようと両手を差し出しかけて、途中でやめた。
「もう一度済んでますものね」
そう言って普通に会釈をした。
なるほど一度受ければ十分ということか。
「今夜は火渡り祭りがあるんです。ぜひご覧になってください」
田中さんに誘われて、私は神社の境内へ向かった。
すでに大勢の村人が集まっていた。
そして、観光客の姿もちらほら見える。
境内の中央には、薪が積み上げられていた。
日が完全に沈むと、村長が松明を持って現れた。
薪に火がつけられ、炎が夜空に立ち上る。
村人たちは円を作って、火の周りを回り始めた。
単調な太鼓の音が響く中、ゆっくりとした足取りで。
そのとき、私は気づいた。
観光客たちが、村人たちに混じって歩いている。
そして村人たちは観光客と出会うたびに立ち止まる。
両手を差し出して、例の挨拶を。
観光客は戸惑いながらもその挨拶を受けていた。
まるで、それが祭りの一部であるかのように。
火の明かりに照らされた光景は、幻想的だった。
でも私には別のものに見えた。
村人たちが何かを観光客に手渡しているような。
そして観光客はそれを知らずに受け取っているような。
──火を、渡している
そんな言葉が頭に浮かんだ。
私は身震いしてその場を離れた。
これは妄想だ。
単なる祭りの風景を勝手に解釈しているだけだ。
でも、足が止まらなかった。
民宿へ向かう道を早足で歩く。
後ろから太鼓の音が追いかけてくる。
民宿に着くと女将が心配そうな顔で出迎えた。
「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「少し疲れただけです」
部屋に入って、すぐに荷物をまとめ始めた。
もう十分だ。
これ以上調べても、何も出てこない。
妄想を膨らませるだけだ。
今夜中に帰ろう。
そう決めて、チェックアウトの手続きをした。
「もうお帰りですか?」
女将は残念そうだったが、無理には引き止めなかった。
◆
村を出たのは、夜の九時過ぎだった。
山道は真っ暗で、ヘッドライトだけが頼りだ。
危険なのは分かっている。
翌朝に帰ればいいではないか。
だが、それでも。
──これ以上、あの村に居たくない
雨が降り始めていた。
ワイパーが規則的に動く音だけが聞こえる。
カーブを曲がるたびにハンドルを慎重に切った。
でもなぜか手の感覚が鈍い。
まるで自分の手じゃないみたいに。
疲れているせいだろうか。
それとも……。
考えたくなかった。
アクセルを踏む足に、力を込める。
早く山を下りたかった──が。
対向車のライトが見えた。
観光客だろうか?
こんな時間に?
すれ違うために左に寄ろうとするが。
ハンドルが動かない。
対向車が近づいてくる。
相手もこちらの異常に気づいたのか、クラクションを鳴らした。
対向車が向かって右へハンドルを切った。
瞬間、私の手も
──左、左に切りたいのに!
衝突の瞬間、私は目を閉じた。
ガラスの割れる音、金属のきしむ音。
体が宙に浮いて、また落ちた。
そして静寂。
痛みが遅れてやってきた。
左肩から胸にかけて、激しい痛み。
息をするのも苦しい。
誰かが窓を叩いている。
「大丈夫ですか! 救急車を呼びます!」
対向車の運転手らしい。
私は答えようとしたが、声が出なかった。
◆
病院で目が覚めたとき、窓の外は明るかった。
左肩から胸に包帯が巻かれている。
鎖骨骨折だと、医師が説明した。
「不幸中の幸いです。もっと大事故になってもおかしくなかった」
警察の事情聴取も受けた。
雨でスリップしたのだろう、という結論だった。
対向車の運転手も軽傷で済んだらしい。
でも、私は本当のことを言えなかった。
──ハンドルが動かなかったんです
──いえ、動いたけど、違う方向へ……
──まるで何かに操られているみたいに
そんなこと誰が信じるだろうか。
疲労による判断ミス。
それが公式な見解となった。
入院は一週間。
その間、たくさんのメッセージが届いた。
心配してくれる視聴者たち。
そして相変わらずの発熱報告。
私はすべてを無視した。
もう関わりたくなかった。
◆
退院後も発熱報告は相変わらず届いている。
死亡報告も、さらに三件。
机の上には調査の名残が散らばっている。
『字統』のコピー、「火」の項目。
『字源』のコピー、「渡」の項目。
それらを見るたびに、あの夜のことを思い出す。
動かなくなったハンドル。
自分のものではないような手の感覚。
まるで、何かが私の体を通して……。
首を振って考えを断ち切った。
そんなことは、ありえない。
単なる事故だった。
雨の山道でスリップしただけだ。
私は立ち上がって新しい企画の準備を始めた。
次は、東北の温泉地を取材する予定だ。
秘湯巡りの動画は視聴者に人気がある。
パソコンで温泉地の情報を検索していた。
宿の予約、アクセス方法、撮影許可。
いつもの準備作業だ。
灯之村のことはもう考えない。
あれは終わったことだ。
でも、ふと顔を上げたとき。
モニターに自分の顔が映っているのに気づいた。
そして。
鼻から一筋の血が流れていた。
ツウと赤い線を描いて。
私は慌ててティッシュを取った。
鼻血なんて何年ぶりだろう。
疲れているのかもしれない。
──最近よく眠れていないから
ティッシュで鼻を押さえながら、ふと思った。
これも偶然だろうか。
それとも……。
いや、考えすぎだ。
単なる鼻血だ。
疲労とストレスによる、ただの鼻血。
私は立ち上がって洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔は少しやつれて見えた。
でもそれだけだ。
他には、何も。
何も、ない。
──本当に?
心の声を無視して、私は顔を洗った。
(了)