ニコの乗ったステージが、ゆっくりと上昇する。じわじわとニコの視界に、光の波と歓声が降り注いだ。
数万の観客がペンライトを揺らし、その中心に立つのはただひとり。スポットライトがニコを照らすと、空気が震えるほどの歓声が会場を包んだ。
ニコが、ふいに片手をあげる。途端に観客が口をとざす。
ピアノの前奏が流れる。静かで、切ない音色。ニコは、すうと息を吸い、歌いはじめた。澄んだ声が空を撫で、観客の胸にまっすぐ届いていく。
その場にいた誰もが息を呑んだ。あまりに自然に、まるで日常の一部のように、ニコの歌が心に染みていく。
「……すごいな」
彼女の異能には、歌には、人の心を溶かす力がある。癒し、慰め、明日を信じさせる。観客の目に涙が浮かぶ。それは悲しみでも感動でもない。あたたかな、幸せの涙だった。
「……本当に、優しい異能だ」
団は、一華がニコのファンだという気持ちが少し分かった気がした。
ライブは、順調に中盤を迎えていた。 観客のペンライトの光が、まるで星の海のように会場を彩っており、団たちも思わずニコの歌に聴きいるほどだった。
WHITEの隊員たちは舞台裏や観客席、搬入口など各所で警戒を強めていたが、特に異常は見られない。
一華と和日、善、犬飼、そして十数名の隊員は、不審な人物が現れたら直ぐにでも対処できるようにと、ドームの外で待機していた。ドームの中では、舞台袖に峠、そして、警備員に紛れるようにして団と右京と他の隊員が配置され、いつでも動けるように構えている。
このまま何も起こらず終わるのでは――誰もがそう思い始めていた、その時だった。
「――素晴らしい」
突如、ニコのすぐ背後で男の声が響いた。明るいステージに不釣り合いな、まるで深い穴の底から響いてくるような声。ニコはばっと振り返る。
まるで舞台の一部のように、突然そこに男が立っていたのだ。男は両腕を広げて微笑んでいた。
侵入経路は不明。ホワイトの異能技術を駆使したセキュリティには一切反応がなかった。
それなのに、男はまるで空間そのものから溢れ出したかのように、そこに立っていた。
「え……だれ……」
ニコが無意識に後ずさる。マイクは震えた手から落ちそうになり、かろうじて持ち直す。
「こんにちは、遊馬ニコさん――君が、欲しい」
その低く囁くような声に、全身の毛穴が総立ちになった。心臓が痛いほど脈打ち、喉がかすれる。
「っアカン……禍や!」
峠の怒号が即座に無線越しに飛び、会場全体に指令が行き渡る。
ステージの照明が一斉に落ちた。代わりに緊急照明が灯り、赤く鋭いラインライトが非常口を指し示す。
観客の中に、恐怖の声が走った。
「えっ、なに?」
「なんなの?」
「え、ニコちゃん!? あれ誰だよ!」
ざわざわと、どよめきと悲鳴が重なっていく。観客の動揺が伝播し、波紋のように揺れる。
ざわざわと観客の悲鳴がこだまし、ホワイトの隊員が走り出した。ニコの安全と、ここに居る無関係のファン達の安全、どちらも最優先事項だ。
「皆さん落ち着いて、落ち着いてください! こちらへ!」
ホワイトの隊員たちが即座に観客誘導に当たり、各列の非常階段へと導き始めた。
「ねえこれ何? なんなの!?」
「落ち着いて!」
観客のひとりがパニックになりながら隊員に詰寄る。観客の誘導を任せ、峠は舞台に飛びだしてニコの前に立ちはだかった。
「――ニコちゃん……アイツが禍や」
峠が低く告げる。
「え……あの人が……?」
ひと目で上質だと分かるブラックスーツに身を包み、穏やかそうな笑みを浮かべる男。
ニコは、禍の瞳に見つめられ、ぞっと背筋を伸ばした。
機材エリアを駆け抜け、警備スタッフの制服を脱ぎ捨て、団は走る。逃げ惑う観客に交じって、時折わらわらと襲い来るのは、イマジンの構成員なのだろう。
団は、駆けたり殴ったりしながらステージに向かっていた。
ふ、と団の視線が、舞台下に向かう。暗がりの中からひとつの影が静かに躍り出た。
「……え、」
その姿を見た瞬間、団の呼吸が止まった。機材照明の合間、光と闇が複雑に交差するその隙間に立つ少女。
透けるような黒い髪、肌は白く、瞳は淡く透き通っていて――。
「団くん」
懐かしい声。優しく、やわらかく、少しだけ寂しそうな響き。
少女は、団の目の前に立ち、まっすぐに団を見つめていた。夜色のように深く澄んだ瞳。涼しげな表情に、不思議な静けさが漂っている。
何より――その空気だけが、異質だった。
「……あお?」
団は思わず、名を呼ぶ。ほんの少し、彼女の唇が揺れる。まるで、微笑むように。まるで、懺悔するように。
「……君がいるってことは……」
団が言いかけたそのとき、背後から細く、鋭く、切り込むような声が届いた。
「もちろん、俺もいるよ」
「!」
ぐ、と、団の首元に、氷のように冷たいナイフが押し当てられた。
「いさな……!!」
団は目線だけを後ろに飛ばし、語気を強める。
「……お前の……目的はなんだよ!」
団の叫びは、怒りと困惑に揺れていた。
「目的? そうだなあ……」
いさなが軽く首を傾げ、笑う。
「『嫌がらせ』かな」
「……は?」
思ってもみない言葉に、団は思わず眉をしかめる。
「イマジンは――禍は、遊馬ニコが欲しい。ホワイトは、遊馬ニコを守りたい。でもさ、もし俺たちに彼女を奪われたら……」
ふふっと笑い、いさなはナイフを一瞬だけ首元から離す。
「……痛快だと思わないかい?」
「……そんなことで……!」
「そんなこと。うん、そんなことで、潰れるんだよね、希望とか、正義とか、責任とか――」
いさなの瞳が、ふいに沈んだ光を宿した。
「ほんと、虚しいよね」
ニコを庇うように立った峠が、緊張の面持ちで禍を見据える。
「ニコちゃんは……渡さへんで」
「ああ、君たちホワイトが来ることは想定内だよ」
禍の足元から、黒い影がじわじわと広がっていく。まるで油を零したように、どす黒く、鈍く光るそれは、のったりとした足取りで舞台の端から端までゆっくりと染み出し、やがて空間そのものを歪ませていった。
禍はその中心に立ち、まるで演出家のように、指をひとつ鳴らした。
「一気に片付けよう」
禍の指が、音を立てて鳴った瞬間。その言葉と共に、モヤの中から這い出すものたちがあった。
人の形をしている。だが明らかに、人ではない。四肢が異様に長く、関節の位置がずれている。皮膚は粘土のようにどろどろと揺らぎ、顔には穴しかない。目鼻もない、叫ぶ口もない。不気味な存在たち。
「なに……あれ……」
ニコはそのおぞましさに目を背けたくなった。
異形たちは、禍の合図と共に一斉に動いた。蜘蛛のように地を這い、獣のように跳び、ただただ無表情のまま、殺意だけを発してこちらへと迫ってくる。
「下がっててな、ニコちゃん」
峠の声が、静かに、だが強く響く。峠がじっと一点を見つめ、周囲の空気がわずかに震えだす。
「なんやぎょうさん連れて来はってんな……ごめんやけど、ここでまとめて吹っ飛んでもらうで」
峠がにっこりと笑って言った次の瞬間、空気が爆ぜた。いつか、峠がニコに見せた、空気圧を一気に変動させ、内部から破裂させたあの爆破。
衝撃と熱、肉体がたわみ、歪み、異形たちは悲鳴もなく霧散する。その爆発にすらびくともせずに立っていたのは、禍ただ一人だった。
舞台に残された硝煙の中、スーツがゆらりと揺れる。禍は一度、細めた目で峠を見つめ、こう言った。
「……派手だね、君は」
「アンタの手駒は一気に片付けられたわ! これでアンタはひとり、人数で言えばこっちの優勢やで」
煽るように峠が言うと、禍はふっと微笑んだ。
――ドーム外、犬飼と一華。
「っ……!」
犬飼の拳が空を切る。異形の化け物は煙のようにゆらりと揺らめいたかと思うと、犬飼の傍をすり抜けた。
一華が間髪入れずに熱波をとばすが、それも同様に空間をすり抜け、その背後の壁を焦がすだけだった。
「なんだ、こいつらは!」
「すり抜けてる……?」
犬飼が眉をひそめ、一華が冷静に見極める。禍が現れたという知らせ、避難誘導で飛び出てくる観客たち。それに紛れるようにして、突如としてどす黒い空間が浮かび上がり、湧き出た異形達。
それも、一体一体が何かしらの強力な能力を使用している。一華がコピーできるということは、異能であることは間違いない。
しかし、どれだけ殴ろうが、どれだけ痛めつけようが、異形たちは次から次へと湧き出てくるので、キリがなかった。
「局長、一華ちゃん!」
そこへ、観客の避難をさらに遠くへと完了させた和日と善が、数十名の隊員を引き連れて戻ってきた。
「さっき、右京から連絡が入った! 中にも同じような異形が湧いてるみたいだけど、そっちは峠がぜーんぶ潰しちゃったみたい!」
和日は近くに倒れていた瓦礫をおもむろに掴むと、ぱくりとひと口齧った。ぶわり、と和日の髪がさかだち、その勢いで新たに飛び出してきた異形を腕で薙ぎ払う。
善も、宙に浮かせた重力の球を一気に落とし、湧き上がってきた異形たちを押し潰していく。
「ひとまず、外は俺と和日で抑える。テメェらは早く中に行け……ここは俺らの土俵だ」
善はニッと勝気に笑った。その背中越しにも、異形たちの動きが再び活発になっていくのが分かる。
確かに、広い空間で制限なく異能を放てる場所では、この二人の能力は最大限に発揮される。
「ああ、頼んだぞ」
犬飼は頷くと、一華と共にドームの中へと駆け出した。