数日後、ホワイトの本部内は、静かに、しかし確実に張り詰めていた。
事件直後、世間の混乱を避けるために、「一部設備トラブルによるライブ中止」とだけ発表され、関係各所にはホワイトの情報局が全力で火消しに回っていた。
ニコがvanitasによって連れ去られたという事実は、今のところ外部には一切漏れていない。
ホワイト内部に漂うのは、逃れようのない『敗北』の実感だった。
非常口のエリアで倒れていた右京は、瓦礫の隙間から発見された。肋骨が複数本折れ、肺をかすめるほどの重傷。
治療班がすぐに応急処置を行い、ホワイトに連れ帰った後、紗月の治療により意識も回復。命に別状はなかったがしばらくは前線に立てない状況である。
また、現場にいたホワイトの隊員のうち、数名が命を落とし、十数名が重軽傷を負った。
観客に死者が出なかったのは、奇跡というほかない――それは実力ではなく、単なる“運”だったと、誰もが理解していた。
異能機関としての威信、警備体制。どれをとっても完膚なきまでに突き崩された。
何より、守るべき少女を目の前で攫われたという事実が、隊員たちの心に深く、鈍く突き刺さっている。
なぜイマジンは、遊馬ニコを狙ったのか?
なぜ、あれほどの手間をかけて招いた混乱の中で、禍はあっさりと撤退したのか?
異様な強さをみせたラナの正体、あの異形たちの正体。そして、vanitasは、何のためにニコを、そして団までをも連れ去ったのか?
すべてが謎のまま、事件は幕を下ろした。しかし今、沈黙の中で次の動きが静かに蠢いている――。
目が覚めた時、団はまず頭がひどく重く感じた。知らない天井。薄暗く、けれど小綺麗な部屋。廃墟というほど荒れていないが、壁や天井は古ぼけてコンクリートがむき出しになっている。しかし、どこか生活感の漂う空間だった。
ゆっくりと身体を起こす。足首も手首も、特に縛られてはいない。だが、身体がいやにダルい。筋肉が重く、力が入らない感覚だけが妙にリアルで、不安をかき立てた。
「……どこだここ…………」
思わず声に出すと、隣のソファにいた男がにこやかに答えた。
「あ、起きた?」
団は身体のだるさも忘れて一瞬で飛び起き、ソファから距離をとる。
「いさな……!」
「やあ」
いさなはティーカップを片手に優雅に足を組んでおり、相変わらずどこか噛み合わない空気を漂わせていた。
「っここはどこだ! ニコさんは!? ていうかなんで俺まで連れてきた!」
「ここは俺たちのアジト……ってとこかな。君を連れてきたのは、君には“利用価値”があるからだよ」
そう言いながら紅茶をひと口飲むいさなに、団は顔を顰めた。
「利用価値……?」
「うん、色々とね……あ、君も紅茶飲む?」
「飲まない!!」
あまりにも緊張感のない応対に、団の苛立ちだけが一方的に積み上がっていく。こうなれば力づくで逃げ出すか、いさなを倒して何が狙いなのか情報を聞き出すしかない。団が立ち上がろうとしたその瞬間。背後のドアがすっと開いた。
「あ、起きたんだ〜、団くん」
「ほんとだ、身体は大丈夫ですか?」
入ってきたのは、カラスとニコだった。団は目を見開く。彼女はカラスの背後からひょっこりと顔を覗かせていた。
「ニコちゃんは砂糖いる?」
カラスと共にソファに座ると、同じようにティーカップに紅茶を注いでいく。
「あ、はい、あとミルクも入れていいですか?」
「イイヨ〜、はい」
カラスはカトラリーをニコに手渡し、ニコは頬を染めながら微笑んだ。
「わーいありがとうございます!」
団は思わず叫ぶ。
「ニコさん!? え、おかしくないですか!? そいつらは敵で、犯罪者で! 悪いやつなんですよ!!」
「え、うん……でも……」
ニコは頬を指でつつきながら、そっとカラスを見やる。
「……イマジン? って人たちからは、守ってくれたよね。結果的に」
「だとしても!」
団の声が裏返る。ニコは少しだけ肩を落とすと、唇をきゅっと噛んだ。
「……ライブも、途中で終わっちゃったし……それは、ほんとに残念だし悔しいよ。ファンの人たちも…………危険に晒しちゃったし……」
ほんの僅かに、言葉が震えた気がした。けれどニコはそれを誤魔化すように、笑みを作ってみせた。
団は言い返しかけた言葉を、喉の奥で止める。見た目こそ変わらず元気そうに見えたが、よく見ると、少しだけ目の下にクマができているように見える。頬もほんのわずかに痩けたような気がした。
「でももう、起きちゃったことだし、今はとりあえず休みたいかな」
無理に明るく振る舞っているのだろうか。笑顔は浮かべているが、どこかぎこちない。瞳の奥には張り詰めた糸のような頼りない光があった。
ホワイト日本支部の第二会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
壁のモニターには、ライブ会場に設置していた記録映像が流れている。禍の登場、異形の出現、観客の悲鳴、そして、遊馬ニコが攫われるまでの一部始終が映し出されている。映像は無音で再生されていたが、当時の喧騒と恐怖がまざまざと甦り、隊員たちはみな一様に顔をしかめていた。
「……言いたくはないが、完敗だった」
犬飼の低い声が、静寂を断ち切った。深く座った椅子の背にもたれながら、腕を組んでいる。
「右京ちゃんは重症。団くんもvanitasに連れ去られたまま、連絡は取れていません。GPSも壊されているのか、位置情報は完全に途絶しました」
一華が冷静な声で報告するが、その表情は明らかに硬い。
「今後は、もっと慎重に動く必要があります」
「っつーかよ、あのキメェ敵、結局なんだったんだよ。なンかワケわかんねェ能力使ってきたしよ」
善が苛立ちを隠さず、テーブルを小突く。資料の束が少しずれて、紙が一枚床に落ちた。
「報告にあった異形の生物だね」
通信越しのモニターに映るヘルマンが静かに応じた。彼の背後には執務室の背景がぼんやり映っており、机上にも報告書がさまざまと積まれていた。
そのうちのひとつを手に取り、ヘルマンは憂いを帯びた目で呟く。
「個体ごとに能力が違ったようだ。炎を吐いたり、瞬間移動したり……異様に硬かったり……」
「見た目も、結構グロテスクだったよ」
和日がわずかに顔をしかめながら頷いた。あのとき倒した異形の体液が、自身の服に飛び散っていたことを思い出したのだ。どろりと、赤黒い血に染みを広げた服は、研究開発局の鑑識に回していた。
犬飼は腕を組んだまま、ぐっと眉間に皺を寄せた。
「研究局の報告では……『人間や異界の生き物の融合体』とあがっている」
ざわ、と会議室にどよめきが起こった。誰もがその言葉の意味を瞬時に理解できず、一瞬の沈黙のあと、気づいた者から徐々に顔色を変えていく。
人体実験――。vanitasのいさなやあお、落花といったメンバーも、元はイマジンの人体実験の被験者だったということは知られているが、どんな実験で、どんなことをされたのかまで、その実態は掴めていなかった。
異能を操る異形、強力な異能を有するvanitas。
「……あの」
す、と手を伸ばし、静寂を破ったのは一華だった。
「……実はあの時、私、ラナと呼ばれていた子を『見た』んです。コピーできるんじゃないかって」
「……それで、どうだったんだい」
一華はひどく言い難い表情でしばらく間をため、やがて決心したように口を開いた。
「……すごく、気持ち悪かった……」
会議室の空気が一瞬で張りつめた。
「気持ち悪い……?」
犬飼が眉をひそめて問い返す。一華は頷き、言葉を探すように天井を仰いだあと、静かに続けた。
「私の異能は、『他の人の異能を直接見て、プロセスを理解』する工程が必要になるんですけど……」
その場にいる全員が顔を見合わせる。
「ラナの異能はなんというか……複雑で色んな異能が混ざってる……っていうか……」
一華の声がわずかに震えた。犬飼の怪力をも受け止めるラナの異常さ。
「峠からの報告では、『峠の人間破裂を真似して見せた』と聞いていたので同じ気圧系かと思ったんですがそれだけじゃなさそうで……吐き気を抑えるのに必死でした」
「つまり、“異能のコピーすらできない”相手だったってことか」
犬飼が低く呟いた。一華がこれまでコピー出来なかった異能は、紗月や和日といったアストラルギーの変質変化や、ヘルマンの異能など特殊なものだ。つまりは遊馬ニコの異能もコピーはできない唯一無二のものであるが、ラナに至ってはコピーできない理由が「分からない」のだ。
「……彼女も人体実験の被験者なのかもしれないね」
通信越しのヘルマンがそう言ったとき、一華がふと口を開いた。
「……あの子、最後、動かなかったんです。禍もしょうがないって感じでした」
犬飼が頷く。
「ああ、たしかに何もしてこなかった。それどころか……“命令がないと動けない”ようにも見えたな」
「命令?」
ヘルマンが首を傾げる。
「そうです」
一華はためらいながらも言葉を繋ぐ。
「……彼女の横にいた少年、“天”と呼ばれていた子。彼がラナに何か耳打ちされてからしか動いてなかった……」
その言葉に、再び会議室に静けさが訪れる。
「……命令されなきゃ動かねェなら、司令塔を叩きゃ良いだけだろ」
善が唇の端を釣り上げて言った。
「簡単に言うな。相手は“禍”だぞ」
犬飼の言葉に、善は鼻を鳴らす。
「……考えても仕方あるまい。情報局の続報を待とう。今はまず、如何にして団くんと遊馬ニコくんを救い出すか――これに尽きるのではないかい?」
ヘルマンの重々しい言葉に、みな一様に頷いた。