薄暗い部屋に、かすかにコーヒーの香りが漂っていた。
禍はカップを静かに傾け、ひと口含む。ブラックアイボリーは非常にまろやかで、甘みのある味わいが特徴的だ。その製造工程は特殊で、象にコーヒー豆を食べさせ、排泄物から採取するという。象の消化酵素によって苦味が分解されるらしい。
禍自身は、その奇妙な過程にはまるで興味がない。
ただ、それを毎回楽しそうに語る部下がいて、彼はいつもニコニコと頷きながら聞き流している。
人の上に立つ者として、たとえどれほどくだらない話でも、耳を傾ける姿勢は大事だと禍は考えていた。
カップをソーサーに戻す。音ひとつ立てず、その所作には淀みのない優雅さがある。
斜め前には天が直立し無言のまま控えており、その横でラナが窓辺に座り、満天の星をただ静かに見上げていた。その瞳は星の光を反射し、淡く輝いていたが――そこに宿るべき感情は、ひと欠片も見えなかった。
「……しかし、残念だねぇ」
禍はぽつりと呟いた。柔らかな声音が、室内の空気の端をひりつかせる。
「いさなに邪魔されなければ、計画はもっとスムーズに進んでいたはずなんだけどねぇ」
「……そうですね」
天は静かに頷いた。礼儀正しい応答だが、どこかよそよそしさが滲んでいる。
禍はふと笑みを浮かべ、天の方へ視線を向ける。その眼差しは穏やかなまま、しかし針のような鋭さを孕んでいた。その視線に射抜かれた天は、かすかに目を泳がせ、肩をこわばらせる。
「……ところで、天」
ひと呼吸。意図的に間を置き、やや低い声で続ける。
「――どうして、“わざとラナに命令しなかった”んだい?」
沈黙が落ちた。
禍の問いは静かだったが、空気は瞬時に張り詰めた。天はわずかに眉を動かし、ゆっくりと視線を下げる。
「……すみません。ちょっと……いさながいて、頭が回らなくて」
その声はわずかに掠れ、息苦しさを含んでいた。禍はくすりと笑い、再びカップを持ち上げて残りのコーヒーを飲み干す。
見え透いた嘘だと分かっていたが、禍は楽しげに告げる。
「ふふ……そういうことにしといてあげるよ」
読み取れぬ感情が、仄暗くその目に宿る。天はそれ以上、何も返さなかった。
ただ、わずかにラナの方へと目を向け、それから静かにまぶたを閉じる。
――沈黙だけが、部屋を支配していた。
誘拐から五日目。
団とニコはソファに並び、離れた入り口付近にはいさなとカラスが談笑している。その横で落花が部屋の隅で膝を曲げて座り込み、花の図鑑を読み込んでいた。あおの姿は見えない。買い出しに出ているようだ。
団はここ数日でvanitasの生活スタイルを観察していた。いかにもなアジト暮らしだが、案外ちゃんと家事の当番を回しているようだ。
とはいえ必要最低限の家具しか置いていないこのアジト内での家事といえば、出たゴミをまとめるだとか、ご飯を作るだとか、その程度ではあるが。
また、軟禁状態のためにお風呂なんて贅沢なことも言えないと思っていたが、謎に水道や電気・ガスといったインフラが整っているらしく、シャワーも監視付きであれば許可がでた。
実際、ニコはあおに見張られながら何度かシャワーを浴びていた。団は敵地で無防備になるのはどうにも抵抗があったが、とはいえ流石に気持ちは悪いので、濡れたタオルで汗を拭いたりはしていた。
vanitasの考えがまったく読めない。すっかりこの珍妙な光景にも慣れてしまった団であるが、少しずつ警戒心を麻痺されそうになるのを必死に食い止めていた。
とくに話題があるわけでもなく、なんとなく時間が過ぎていくなかで――ふと、団の目に、ほんのりと顔を赤く染めるニコの姿が映った。
眼差しの先を追うと、カラスに向けられているようだ。団はこれまでの様子から、ほぼ確信を持ってニコに問いかけた。
「……もしかしてなんだけど、ニコさん、あのカラスって男に、惚れてます?」
その言葉に、ニコは目を白黒させて手を振り回す。
「ぅえっ!? え、は? え? な、なんで……!?」
赤面しながらの動揺は、むしろ肯定にしか見えない。団は少し顔を引きつらせた。
「いや、見てたら分かりますよ……ずっとカラスの方見てますし……」
団の指摘に、どうやら本人は気が付いていなかったようで「そんなに見てた……?」と両手で顔を覆った。
「ええ、それはもう露骨に……」
しばしモジモジと口をもぐらせていたニコが、ぽつりと爆弾を落とす。
「…………実はね……ライブの前に一回、彼と会ったことがあるの……」
「えッ!?」
ニコの衝撃的な告白に、団は思わずうわずった声があがる。ニコは少しずつ、当時の出来事を語り出す。
峠の目を盗んで外出した先でイマジンの下っ端に絡まれ、連れ去られそうになった――そのとき、助けに現れたのがカラスだったのだという。
団の脳裏にストックホルム症候群――監禁や脅迫という極限状況下で、加害者に対して好意や信頼を抱いてしまう心理現象――という言葉が過ぎる。
危機から助け出してくれた、という状況であれば、なおさらその心理に信ぴょう性がつく。
「……前にも言いましたけど、相手は犯罪者ですよ」
「分かってるけど……でもやっぱ顔がどタイプなんだもん……ッ」
「か……顔……?」
ニコは頷きながらごにょごにょと言い訳を続けている。やれ黒くて艶やかな髪が綺麗だの、パッチリとした黒目がちな瞳が素敵だの、何ひとつ共感できないその惚気にぐったりしつつ、団は無言で天井を見上げる。
――やはり、このままではいけない。決意を新たに、団はぐっと拳を握りしめた。
その夜、アジトの中はひどく静かだった。
星も街の灯りも届かないこの場所は、まるで世界から切り離されたかのようだ。灰色の空間に、団とあおは並んで座っていた。
団はこれまでも何度か脱走を試みたが、vanitasの誰かが交代で見張っているため、そう簡単には抜け出せなかった。
ニコを連れての脱出となれば、なおさら難易度は跳ね上がる。
けれど、今だけは違った。あおのほかには誰の姿もない。
――あおならば、説得に応じてくれるかもしれない。ニコは室内で毛布に包まり、穏やかな寝息を立てているが、いざとなれば抱えて逃げ出そう。そんな思いを胸に、そっと隣にいる彼女の横顔を盗み見る。
無表情にも見えるが、時折吹く夜風に髪が頬をなぞるたび、長いまつげが微かに揺れた。
その様子はどこか儚く、同時に近づきがたい空気をまとう。
「……君たちが、何を考えてるのか。やっぱり、俺にはわからないよ」
穏やかに、しかし確かな言葉で団は切り出した。あおはすぐに答えず、夜空を仰いだまましばし沈黙を保つ。
「いさなの目的も、君がどうしてあいつについていくのかも」
とげを向けたつもりはなかった。けれど、自然と声に熱がこもっていた。
あおは手すりに指を添え、静かに夜空に目を向ける。
「……いさなはね、恩人なの」
ぽつりと呟かれたその声はか細く、しかし迷いのない響き。
団は、短いその一言に込められた重みを無言で感じ取った。
「……恩人?」
「うん。私も、落花も。もし、いさながいなかったら――今もイマジンで、“実験台”のままだったと思う」
あおの横顔が、わずかに笑った。けれどそれは喜びではなく、遠い過去を見下ろすような、憂いを帯びた表情だった。
「実験台って……」
「見たでしょ。禍が呼び出してた、あの異形たち。……あれは、きっと私がなっていたかもしれない未来」
その言葉は、ぞわりと団の背を這い上がる。淡々と語られるのに、その内容が現実離れしていて、逆に真実味があった。
思い出すのは、ぎょろぎょろと飛び出た目や、細長い手足、むき出しの歯茎。みなその姿かたちは違っていたが、到底人間とは言い難い形相の異形たち。
「あの研究所を抜け出す時、いさなは私たちに『一緒に行くかい』って言ってくれた。……自分だけなら、もっと楽に逃げられただろうに」
団は何も言えず、言葉を飲み込んだ。あおの語るそれが事実だとしても、拭いきれない違和感がどうしても胸に残る。
「でも……それで、誰かを傷つけていい理由にはならないだろ」
ようやくの思いで絞り出した言葉。あおは目を伏せ、そしてゆっくりと告げた。
「……これはね、復讐なんだよ、団くん」
それは、まるで自分自身にそう言い聞かせるようでもあった。
夜風が吹き抜け、二人の間の空気を震わせる。
「……あお……」
名を呼ぶ声もまた、夜の静けさに溶けていく。あおはそっと両腕で自分の身体を抱くようにして、ぽつりと呟いた。唇が震え、ふるふると睫毛がゆれる。
「団くんは、知らないんだろうね……。身体を何度も切り刻まれる痛みも、誰も助けに来てくれない寂しさも」
その言葉は静かで、けれども深く団に突き刺さる。団は反論することも同意することもできず、ただその声の余韻に黙って身を置いていた。