異様な緊張が、その場を満たしていた。
重厚な扉が開き、小柄な人物が一歩ずつ、踏みしめるように中へ入ってくる。
白い外套に包まれたその姿は、年若い少女のようでありながら、まるで空気の温度すら変えてしまうほどの静謐な存在感を放っていた。
堂々たる不審者の侵入。ホワイトの隊員たちは一斉に警戒態勢を取る。誰ひとりとして、油断などしていない。
「……こんにちは、ホワイトの皆さん」
小さな声だったが、よく通る澄んだ響きだった。
犬飼が椅子を押しのけて立ち上がり、鋭い眼光を向ける。
「……キサマは落花だな」
その鋭い視線を真正面から受けながらも、落花は微動だにしなかった。
「うん、そう……よろしく」
突然の接触要請があったのは、ほんの数時間前のことだ。『取り引きがしたい』――異能管理局に届いたのは、それだけの簡潔な連絡だった。
もちろん、ホワイトは緊急会議をひらいた。取り引きの内容はまったく想像もつかない。しかしこれは、団とニコを取り返すまたとないチャンスでもある。そう結論付け、ヘルマンは許可をおろした。
通信端末のモニターに映るヘルマンが、落ち着いた口調で口を開く。
「……目的はなんだい?」
落花は垂れ下がった眉をさらに困らせるように寄せ、じっとヘルマンを見つめ返す。
「……今回は敵対するつもりはないの。むしろ、“共通の敵”の話をしに来たの」
含みのある言葉に、隊員たちがざわめく。その言葉に真っ先に反応したのは善だ。
「ハッ、ノコノコと敵地に来て……しかもテメェ一人かよ、舐められたもんだな」
「善」
犬飼にいさめられ、善は舌打ちをこぼす。苛立たしげにしてはいるが、奇襲をかけたりはしないあたり、話を聞くつもりはあるらしい。
「それで、取り引きとはなんだ」
犬飼の静かな問い。落花はふと視線を落とし、次いで静かに顔を上げる。
いつもは所在なげなその瞳が、このときだけははっきりと焦点を結んでいた。
「“ラナ”を――イマジンから引き離したい」
その名を告げた瞬間、空気が凍りつく。
“ラナ”。先のライブ襲撃事件に現れた、異能を重複保有する謎の少女。
あの存在にvanitasが干渉しようとするなど、誰もが予想していなかった。
「……どういう意味だ。貴様ら、ラナとどんな関係がある」
犬飼の追及に、落花は小さく首を横に振る。
「それは……いさなが説明する。でも今は、これを先に……」
そう言って、懐に手を入れる落花に、ホワイトはばっと戦闘態勢にはいる。
落花はそれに動じず、ゆっくりとした所作で丁寧に折りたたまれた紙片を取り出した。
それを広げあげる。その動作には脅しも挑発もなかった。ただ静かで、淡々としている。
「これは――いさなからの伝言」
一度、深く息を吸い込み、落花は言葉を読み上げる。
『ホワイトの皆さんへ。こちらは真田団、そして遊馬ニコの二名を保護しています。彼らを無事にお返しすることを条件に――イマジン本拠への突入に協力してほしい』
沈黙。何が“保護”だ、と誰かが低く呟く。
戸惑いと警戒が交錯する空気のなかで、ヘルマンが静かに口を開いた。
「……我々も、イマジンの本拠は掴みかけてはいるが、決定的な突入手段がなかった。君たちの情報と内部案内があるのなら――協力する価値はある」
犬飼が反論しようと口を開きかけたが、ヘルマンと視線が交差し、無言のままそれを引っ込める。
その様子を見届けた落花は、どこかほっとしたように、静かに微笑んだ。
「ありがと……いさな、きっと喜ぶと思う」
翌日、厳重な監視のもと、vanitasの三人――いさな、あお、落花――が、堂々とその場に現れた。あおと落花に挟まれる形で団もつれられ、その顔は申し訳なさに満ちている。
先日ひとりで現れた落花とは違い、今回ははじめから敵対するつもりはないという前提で設けられた会合だが、ホワイト側の警戒は依然として緩まない。
部屋の奥では犬飼が腕を組み、善や和日、一華がその傍で控えている。通信越しにはヘルマンの顔も映っている。
「遊馬ニコはどうした……?」
犬飼の低い声が、空気を張り詰めさせた。
いさなは肩をすくめてひらひらと手を振ってみせる。その表情は、何を言っているのだと呆れんばかりの顔だった。
「やだなあ、どっちも返したら人質の意味がないじゃないですか。交渉ってのは、こうやって詰めてくもんでしょ?」
挑発とも言えるその言葉に、善が机を蹴りそうになるが、犬飼が軽く手で制す。善は不服そうにでかい舌打ちをこぼしたが、あげかけた脚を素直に引っ込めた。
「……彼女になにもしていないだろうな」
「うん。元気ですよ、カラスと仲良くお留守番中です」
その瞬間、いさなはまるで「そうだそうだ、忘れてた」という顔をして、くるりと振り向いた。
「約束通り、ひとまず彼は返すってことで――」
言うが早いか、団が肩を掴まれて前に出され、ぽいっと投げるようにホワイト側に押しやられる。
「わっ――」
反射的に受け止めたのは和日だった。
「団くん! 無事?」
「はい、ひとまず……その、すみません……」
団は咳払いをひとつすると、ホワイトの仲間たちの顔を次々と見やった。皆の目に浮かぶ安堵と警戒。見知った場所に戻ってきたにもかかわらず、団はどこか複雑だった。捕まってしまったことへの申し訳なさと、この状況が少なからず自分のせいである罪悪感がせめぎ合う。
いさなは、変わらずにこにこと笑って「再会出来てよかったね」とここでも煽ってくる。
「――いさなくん。まずは、君たちの話を聞こう。ラナの件も含めてね」
ヘルマンが静かに重苦しく告げた。
途端に、いさなの目がすっと細くなる。その笑顔の奥には、何かまだ明かされていない意図が潜んでいるようで、団たちはぐっと警戒を強める。
いさなはホワイト陣営の面々を一通り見回すと、くちをひらいて話し出した。
「単刀直入に言います……ラナを、禍の手から引き離したい。――それが、こちらの目的です」
その声はどこか軽いが、静かな空気の中でよく響いた。
「……戦力を削ぎたい、ということか?」
犬飼が静かに問う。その目は、言葉の本質を見通そうとするように真っ直ぐだった。
「ふふ、まあ……それも副次的効果としてはありますがね」
含みのある笑みだった。だがいさなはそれ以上を語らず、ただ「どうしますか?」と促してくる。
いさなの声は、どこまでも滑らかだった。
「我々がラナを狙うのは、単純な話です。禍の最大戦力を削げば、イマジンの組織運営は大きく揺らぐ。俺たちはイマジンに一矢報いることができる」
会議室に静寂が広がった。――俺たちはイマジンに一矢報いることができる――その言葉の重さに誰もがたどり着いたからだ。
vanitasは、イマジンで人体実験の被害にあっていた三人だ。どんな実験をされたのか詳細は誰も把握していないが、いさながそっと自身の眼帯に手を添え綺麗に笑うので、誰もが言葉を失った。
よく見れば、傍で控える落花やあおもそれぞれ身体のあちこちを抱きしめるように抑え、過去を弔うように目を瞑っている。
「ラナを禍の手から奪ったあとは?」
「……あれは生きた兵器だ――殺戮人形といっても過言ではない。ここまで言えば分かりますよね?」
いさなはそう言って、茶目っ気のある笑みを浮かべた。
けれど団は、その笑顔に、あの時見た全く違う色を思い出していた。
ラナを見つめるいさなの横顔。冷静でもなければ、敵意でもない。団の知る限り、いさながあんな目をしたのは、あの時だけだった。
言葉では表現できない。が、それはたしかに、殺戮人形を見る目ではなかった。
どこか、わざとらしい。とはいえ、根拠も証拠もない。だから団は黙っていた。ただひとつ、胸の奥に沈殿する違和感だけが、そこに残った。
ホワイト側は、戦術的な意味での協力に傾きはじめていた。善は納得いかなそうに肩をすくめていたが、反論はしない。
「……もちろん、それだけじゃないよね?」
沈黙を破ったのは、通信越しのヘルマンだった。その視線は、『情報はすべて明かしてもらう』と無言で語っている。
いさなは、そんな圧力も涼しい顔で受け流し、にこりと微笑んだ。
「もちろん――人体実験について、知るところをお話しましょう」