少女は自分が知らない場所にいた。普段と変わらず泥水に塗れた紫の着物の袖をまくっている。周囲を漂う霧は濃く、ものすごく肌寒く感じる。少女は急いで袖を下した。
ここはどこなのだろうか……周囲は木々に囲まれている。山の中なのだろうと考えた。目の先には古びた神社が建っており、本殿の扉は開かれていている。祭壇には木製の刀掛けだけが置かれていて、肝心の刀はそこにはない。
少女の後ろには朱色が薄くなった鳥居が佇んでいる、霧でよく見えないが神社の奥にも鳥居があるように見えた。どうやってここにきたのか記憶はない。時の経過を感じさせる苔むした石畳の道に、月明かりがやわらかく照らされていた。神社へと続くこの古びた道の上を小さな影がひょこりと動き出した。
その瞬間、風が少女をかすめて鳥居の方へと流れた。木々はその風に揺れ、ざわめいている。少女の短く整えられた髪が微かに舞い上がった。
その小さな影の正体は狐だった。白銀の毛並みに金色の目を持ち、神秘的な美しさを放っている。尾は長く、ふわりと空気を纏っているかのように見えた。尾を丸く巻きながら、ゆったりとした姿勢で静かに座り少女を見つめていた。
「私はお前の願いを叶えてやるためにこの場所に呼んだ。お前の願いを言ってみろ」
最初だれがしゃべっているのか分からなかったが、白銀の毛並みをした狐から言葉が発せられていることに気づいた。ここには少女以外に人はいなかったからだ。少女は驚きを隠せなかったが、口を開いた。
「えっと、私は……」
言葉を発するのを戸惑った。続く言葉は分かっていた。言いたい言葉はずっと前から胸に秘めていた思いだから。
「私は、逃げたい、村から逃げたい、霧と山を越えて自由になりたい!」
言えた。少女は嬉しかった。初めて他の人に、いや人ではないが、相手は狐だがやっと言えた。少女はずっとだれかに言いたかったのだ。ほかの村人にはいうことはできない。
(逃げたい、逃げたい、逃げたい、自由を手に入れることができるならばどこでもよい、別の場所へ)
頭の中で唱え続けた言葉は頭の中にこびりついて二度と剥がれることがない思いだと分かっていた。
狐はしばらくの間、彼女を静かに観察した。
少女は観察されているのに気づいて、畑の泥で汚れた袖をそっと隠した。狐は再び話し始めた。
「私の指示に従いお前が行動すればお前の願いは叶えられる」
少女は狐の言葉に驚きつつも、希望に胸を膨らませた。自分の願いが叶うかもしれないという期待が、彼女の心を満たした。
「あなたは私に何を望むのですか?」
「霊峰の半身である水晶玉を獲ってこい。そうすればこの山を覆う霧は晴れ、お前はいつでも山を超えられよう」