──夜。
群馬県・白鷺山中腹に、ひっそりとその廃墟は佇んでいた。
「白鷺館」。
かつては白い外壁に彩られ、山の迎賓館とも称された瀟洒な洋館──だが今、その名残を知る者は少ない。
十数年前、ある一家が全員死亡した事件の現場。心中とも事故ともつかない結末は、深い霧に包まれたまま記録の底へと沈められた。
その場所に、ひとつの影が立っていた。
黒いロングコート。雨に濡れた前髪の奥に、笑みを貼りつけたような顔。
神楽鏡夜──公安が最重要監視対象として密かに記録している、犯罪演出家。
彼は廃墟の軒下に立ち、そっと懐中時計を開いた。
「……よし。ちょうどいい時間だ」
指先で小さなリモートスイッチをひねる。
クリック。
廊下の奥から、カチリと音が返ってくる。隠されていた機構が起動し、何かが、どこかで静かに動き始めた。
「舞台は整った。次は、観客を導こう」
彼の声は囁きだったが、冷え切った夜の空気にしっかりと染み込んだ。
「ようこそ、“再演”の時間へ──」
神楽鏡夜は、崩れかけた館の壁に手を当て、静かに目を閉じた。
その唇がわずかに歪む。
“あの子”がどこまで役を果たせるか。
“あの探偵”が、どこまで真相に迫れるか。
そして、涼夏──
彼女もまた、ひとつの役者に過ぎない。
(……前回は、脚本通りにはならなかった。だが、今度こそ)
彼はすでに“幕が上がる音”を耳にしていた。
* * *
都会の夜。冷たい雨が舗道を濡らしていた。
橙色の街灯が水たまりにぼやけて揺れる。人々は傘を差し、肩をすくめ、誰にも目を向けずに通り過ぎていく。
その片隅。小さなカフェ「カフェ・ブランシュ」が静かに灯をともしていた。
古びた木の扉、曇ったガラス。店内はジャズの流れる、街の喧騒から隔絶されたような空間だった。
窓際の席に、ふたりの姿があった。
一条湊──私立探偵。鋭い目と落ち着いた物腰が、ただ者ではない空気を醸している。
天城理沙──湊の知人で大学生。繊細で臆病に見えながら、いざというときに目を逸らさない芯の強さを持つ。
湊は黙ってカップに口をつけていた。
理沙はカップを両手で包みながら、何度も時計に視線を走らせていた。
「……遅いですね、柏原さん」
「時間に遅れるような人間じゃない。普通なら、な」
湊の声には、慎重な抑揚があった。
柏原旦陽──表向きは警視庁の若き刑事。だが、湊も理沙も、その“正体”にはとっくに気づいていた。
公安。
それも、情報部門の中でも特殊な位置づけとされる、対国内テロ案件の潜入捜査班。
だが、気づいたところで、何かを問うことはしなかった。
柏原自身がその仮面を外さない限り、自分たちも“知らぬふり”を続ける。
それが、均衡の掟だった。
そのとき──
カラン、と扉のベルが鳴った。
長いロングコートの女が、濡れた髪を払って店内に入ってくる。
柏原旦陽。
店に入ってきた瞬間、空気が変わった。
彼女の視線は、まるで室内を“スキャン”するかのように冷静で──普通の刑事にはありえない、それは“戦う者”の目だった。
彼女は無言で湊たちの席へと歩み寄り、コートを脱いで椅子に掛けた。
そして、懐から白い封筒を取り出す。
角が朱に染まったそれを、湊の前に滑らせる。
湊は手袋をはめたまま封筒を受け取り、慎重に開封した。
湊は封筒を開きながら、柏原の指の震えを見逃さなかった。
──普段なら、微動だにしない女が、今日はほんのわずかに“乱れている”。
(これは……偶然じゃないな)
中には、一枚の手紙と簡素な地図。
《白鷺館へお越しください。あなたは選ばれました。》
理沙が息を呑んだ。
「白鷺館って……あの、一家心中があった……?」
柏原が静かに頷く。
「十数年前、群馬の山中にある洋館で、白鷺家が全員死亡した。火災と心中。事件性が疑われたが、記録は“事故”として処理されたわ。」
柏原の言葉を聞きながら、理沙はふと、昔耳にした話を思い出していた。
──“白鷺館の亡霊”。
学校の図書室で、たまたま読んだ古い雑誌の記事だった。
白鷺館の火災の後、現場に残された写真の一枚に、焼け焦げた柱の陰からこちらを睨む少女の姿が写っていた、という噂。
その写真はすぐに回収され、記事も削除されたらしいが、一部では“消された心霊写真”として語り継がれているという。
理沙は当時、それをただの作り話だと思っていた。
だが──今、改めてその記憶が蘇ると、背筋に冷たいものが走った。
(本当に、何かが……いたのかもしれない)
誰もいないはずの廃墟。記録には残らなかった痕跡。
そして今、そこへ招かれた自分たち。
まるで、その“何か”に選ばれたかのように──
理沙はそっと息を呑むと、ちらりと柏原と湊の横顔を見比べた。
二人は表情ひとつ変えずに、次にすべきことだけを見つめているようだった。
自分は、まだ何も知らない。
でも、たったひとつだけ確かに感じていた。
──このままじゃ済まない。
湊は静かに立ち上がる。
「なら、なおさら行くしかない」
理沙が唇を噛みしめた。
「……帰ってこられるんでしょうか?」
湊は答えず、コートを羽織る。
理沙は、その背中を見つめながら、そっと息を呑んだ。
どこまでも静かで、揺るがないその姿に、ふと胸が締めつけられる。
(……この人は、怖くないんだろうか)
幽霊屋敷のような場所に招待されて、神楽鏡夜の名前まで出てきて。
普通なら、震えて当然なのに。
なのに湊は、まるで──
(……もう全部を知っていて、それでも、進んでいくみたい)
その背中に、目を逸らすことができなかった。
理沙は、小さく唇を噛み、そして静かに立ち上がった。
理沙は湊の背中を見つめながら、ふと胸の奥にわき上がる感情を噛みしめていた。
いつも先を行くこの人。その思考、その行動、その洞察……すべてが届かない場所にあるように見えた。
でも、ただ守られてばかりの自分でいたくはない。
(私も……あの人の隣に立てるようになりたい)
不安と決意が入り混じるなか、理沙は一歩、湊の後を追った。
───
その頃、白鷺館の奥では、音もなく空気が震えていた。
かつて一家が命を落とした寝室。
客間の壁に取り付けられた古い鏡。
そして、地下に隠された小さな空間。
あらゆる“装置”は、すでに配置されていた。
神楽鏡夜は、静かに微笑む。
「君たちがどんな役を演じ、どんな幕を引くか……最後まで見届けよう」
それは、歓迎でも警告でもない。
ただ、劇作家が観客席から舞台を見守るような──
静かで、残酷な“興味”だった。
カフェの扉が開く。
街の喧騒はもう聞こえない。ただ、雨の音だけが彼らの背を押していた。
三人のシルエットが、闇の中へと消えていく。
その先に待つものが、血と恐怖に満ちた招待状であったとしても──
一条湊は、歩を止めなかった。
「さあ、行こう。白鷺館へ。
──その“幕”が、開く前に」
それが、彼らが“観客”ではなく“駒”として踏み出した第一歩だった。
そしてその舞台の幕は、すでに誰かの手で──ゆっくりと上がりはじめていた。