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第29話【仮面の下の素顔】

 朝霧に包まれる白鷺山。その斜面に、警察車両の列が静かに現れた。




 群馬県警白鷺署の捜査班が、複数台のパトカーとともに白鷺館へ到着した。



「全く、こんな朝っぱらから何でこんな辺鄙なところに来なきゃいけねーんだよ」



 隣を歩いていた中年の刑事・宮坂が愚痴を漏らす。


「まぁまぁ、宮坂さん。これも仕事です。それに、課長から言われたら仕方ないでしょう?」


 少し若い刑事、霧島が宮坂をなだめた。



「まぁな」



「お疲れさまです」



 そんなやりとりをしている二人を玄関前で柏原が出迎えた。



「ああ。あんたが通報者か?」


「ええ、警視庁の柏原です」



 柏原が警察手帳を見せた。

 二人の刑事は、その警察手帳を見てそそくさと襟を正して敬礼した。



「け、警視庁の刑事でしたか、これはとんだご無礼を!」



「宮坂さん、課長が言っていたのはきっとこの方ですよ。警察庁から警視庁へ出向に来ている、優秀な刑事。警部補ですもん」



「かもな。これは、立てておいたほうが無難か」



「こほん。お二人とも。現場はこちらです。ご案内します」



 柏原に促されて館の中に刑事と鑑識たちが入り込んだ。

 少し歩くと、柏原たちが直前までいた、広間に辿り着く。

 そこには、疲れ切った面々と、椅子に座ったまま虚空を見つめる涼夏の姿があった。まるで、すべてを終えた人形のように。



「指宿涼夏・・・・・・いや、白鷺涼香だな。殺人の容疑で逮捕する」



 そういって、宮坂と言われていた刑事が手錠を涼夏の両手に嵌めた。


「時刻確認」



「はい、午前八時二十九分です」



「柏原さん、ありがとうございます。引き続き、警視庁とも連携を取りつつ進めます」


「ありがとうございます」



 会釈を交わすと、鑑識班が現場の封鎖と証拠の確保に取りかかった。



 白布で包まれた遺体は、ひとつずつ丁寧に運び出されていく。


 沙耶は、なおも肩を震わせながら、理沙の腕の中で静かに涙を流していた。




 一方、湊は館の外に出て、冷たい空気の中、静かにその姿を見上げた。




「……神楽鏡夜」




 その名を胸の奥で繰り返しながら、湊は一人、闇の先に続く気配を感じていた。



 死亡した藤堂・森崎・羽鳥・神村の遺体は、司法解剖を受けるため、埼玉県の大宮中央医療センターに搬送された。

 群馬県内では解剖医の手が足りず、近隣で対応可能だった埼玉の施設に依頼された。



 真犯人の指宿涼夏・・・・・・白鷺涼香を乗せたパトカーが先を走り、その後を、湊たち生存者を乗せたパトカーが追いかけるように走り出した。

 事情聴取のため、白鷺館の生存者たちは揃って白鷺署へと移送された。



 受付のある狭いロビーで待機する彼らの表情には、疲労と混乱が滲んでいた。


 取り調べは柏原が主導し、警視庁と群馬県警の合同で行われる異例の体制が敷かれていた。


 小田切、高峰、赤坂、理沙、沙耶――一人ずつ呼ばれ、別室での聴取が始まる。




 湊はその様子を無言で見つめていた。


 ただ、ふと、何かが胸に引っかかる。




「……おや?」




 何かが、足りない――。

 眉を寄せ、周囲を見渡す。床に座る沙耶、沈黙する高峰、資料に目を通す柏原――だが、その中に、見慣れたはずの男の姿がない。




「柏原。白鳥は?」




 柏原は手を止めて湊を見た。


「……白鳥?」


「ああ。あの中年紳士だ。最後に見たのは、警察が到着する前だったと思うが……」




 沈黙。




 その場にいた全員が顔を見合わせた。誰も、彼の行方を正確に覚えていなかった。



「確かにそういやそうだな。気づいたらいなくなってた気がするぜ」


「逃げた……? いや、あのときは警官もまだ到着してなかった」


「誰か、外に出るのを見た者は?」




 首を振るばかりの反応。


 異様な静けさが、署内に流れる。




 まるで、煙のように――男の姿だけが、忽然と消えていた。

 名前も、足跡も、何も残さずに。



 *


 夜。


 静かなホテルの最上階、その一室に柔らかな灯りがともっていた。


 重厚なカーテンが引かれた窓辺には、高級感の漂う肘掛け椅子が置かれている。そこに腰掛けていたのは、あの中年紳士──白鳥一誠その人だった。




 しかし、彼の手元には仮面。


 それをそっと外すと、鏡に映ったのは、どこか艶やかで中性的な――だが、明らかに別人の顔。


 頬を伝う仮面の跡を指でなぞりながら、彼女はゆっくりと微笑んだ。




「ふふふ……あれが、一条湊。まだまだ未熟だけれど、素材としてはなかなか」




 白鳥一誠の皮をかぶっていたのは、世界を股にかける神出鬼没の怪盗――《ファントム・ネピア》。


 変幻自在の仮面を使い、狙った舞台にふさわしい“役”を演じる犯罪者。その正体も、年齢も、性別すらも不明。




 ネピアはゆっくりとワイングラスを傾け、窓の外に浮かぶ月を見上げた。




「鏡夜も、よく仕込んだものね。演出としては及第点、といったところかしら」




 やがて立ち上がると、部屋の奥へと歩いていく。


 壁際には世界各地の新聞、地図、犯行予告とおぼしきカードの断片。


 その中心には、一枚の地図と、その上に重ねられた数枚のポストカード。




「さて、次の舞台は……どこにしましょうか」




 女は手袋をはめ、地図の一角を指でなぞる。


 その指先が止まったのは――、ある古都の名だった。




 月明かりの差す部屋で、静かに仮面が再び装着される。


 怪盗ファントム・ネピアは、次なる“舞台”に向けて、仮面の奥で妖しく微笑んだ。


 *


  都内某所。


 摩天楼の一角にある高層マンションの最上階。その一室では、静かにクラシック音楽が流れていた。




 窓際に置かれたレコードプレーヤーが、しずしずと針を進めていく。外の夜景を見下ろす形で、黒いソファに深く腰掛けているのは、一人の男――神楽鏡夜だった。




 淡い照明に照らされた室内には、壁一面に貼られた新聞記事と写真、地図、事件記録。中でも、特集記事として大きく扱われた「白鷺館殺人事件」の見出しが目を引く。




 テレビの液晶モニターからは、アナウンサーの落ち着いた声が響いていた。




『さて、次のニュースです。』


『先日発生した群馬県白鷺山山中で起きた殺人事件ですが、警察は現場となった“白鷺館”から、遺体4体を発見。さらに、女性1名が重傷を負っているのが確認されました。』


『この事件では、指宿涼夏容疑者(24)が殺人の容疑で現行犯逮捕されており、警視庁および群馬県警の合同捜査本部は、過去の未解決事件との関連性も視野に捜査を進めています。』


『容疑者は、白鷺館に関係する旧家・白鷺家の生き残りで、18年前の一家心中事件の遺児と見られ、警察は、当時の出来事が今回の犯行に影響した可能性があるとしています。』


『また、現場には複数のタロットカードが残されており、事件は“見立て殺人”の形式を取っていたと見られています。』


『関係者の話によりますと、事件は極めて周到に計画された可能性が高く、生存者への事情聴取も続けられているとのことです。』


『一方、事件関係者の中に所在不明者が出ているという情報もあり、警察は行方を追っているとみられます。』




 鏡夜は、手にしたグラスを傾けながら、その報道をぼんやりと眺めていた。




「……失敗か。いや、想定内だよ」




 低く響く独白。男の目は、白鷺涼香の顔写真に一瞬だけ留まった。




「彼女はよくやった。終わらせるには、少し早すぎただけのこと」




 静かに立ち上がると、壁に貼られた複数の地図とスケジュール表を見渡す。その中の一枚に記された、赤丸で囲まれた都市名。その横には、殴り書きのような文字がある。




 “記憶の箱庭Ⅱ”




「次は……こっちだな。もうひとつの“箱庭”へ」




 手帳を開き、何かを記していく鏡夜。そのペン先は一切の迷いを見せなかった。




 ふと、棚の上に置かれた一枚の仮面に目をやる。


 それはかつて、彼が“神村詩音”を演じた際に用いていたものだった。




「仮面の演目は、まだ続く。さあ――幕を上げよう」




 神楽鏡夜はグラスを飲み干すと、背後に広がる闇へとゆっくり歩き出す。


 その足音は、次なる悲劇の予兆のように、静かに床を響かせていた。



 *




 警察庁本庁舎――その最上階に位置する官房長室は、夜の静けさに包まれていた。


 窓の外には霞が関の灯り。分厚いカーテン越しに、東京の重たい夜が滲んでいる。




 柏原は、緊張の色を隠さぬまま、部屋の中央に立っていた。


 その傍らには、警視庁の大平刑事部長の姿もあった。




 応接用のテーブル越しに座しているのは、箕部官房長――国家警察を束ねる中央の中枢にして、無表情な仮面のような男。


 そして、後ろのソファには、百々村統轄審議官と警察庁のトップである、恒種警察庁長官、ナンバー2の伊丹次長が深く腰を掛けて座っていた。




「……報告を、お願いしようか。君の言葉で、簡潔に」




 冷えた声に、柏原は一礼する。


「はい。白鷺館事件は、招待客を対象とした連続殺人事件です。主犯は指宿涼夏――本名、白鷺涼香。16年前の一家心中事件の生き残りです」


「動機は?」


「復讐です。関係者を“演目”に見立て、タロットカードを象徴に連続殺人を演出しました。背後には、神村詩音を名乗る人物……おそらく、神楽鏡夜が存在します」




 箕部官房長の眼が、わずかに細められる。


「……なるほど。鏡夜か。あの“犯罪演出家”が、また動いたと?」


「確定はできませんが、痕跡の一致点は多く……可能性は高いかと」




 大平刑事部長が口を挟む。


「警察庁の案件として取り上げるには、まだ情報が……」


「大平くん」



 後ろから、恒種長官の声が静かに響いた。



「はっ」


「口を挟まないでくれるかね。警察庁うちから出向中の私たちの部下の案件だ。刑事部を束ねる君の気持ちも分かるが、ね」



 大平刑事部長は、内心で舌打ちしながら悪態をついた。

(ちっ、ならなんで呼んだんだ、タヌキどもが……)



 官房長は机の上の資料を指で叩く。


「仮面の演目は、まだ続いている。柏原君、君は今回の現場にいた。探偵――一条湊とやらも、なかなか興味深い存在だな」




 その声には、わずかな笑みと、底知れぬ意図が混じっていた。




 柏原は、喉奥に緊張を押し込みながら、ただ静かにうなずいた。




「はい。引き続き、動向を注視します」




 官房長は背をあずけ、グラスを手に取った。


「……幕間は終わった。我々に残されたのは、次の舞台と役者の布陣だ。――期待しているよ、柏原警部補」



「はっ!」



「大平くん、君にはまだ話がある。残っていたまえ」



「それでは失礼します」



 柏原は、無言のまま敬礼すると、一礼して官房長室を後にした。

 扉が静かに閉まった。

 官房長室に再び沈黙が落ちる。




 箕部官房長は、机の上のグラスを軽く揺らした。その琥珀色の液体が、ほのかに音を立てて揺れる。


「……なかなか面白い娘じゃないか。若さの割に、視線が死んでない」




 誰ともなく呟いた言葉に、百々村統轄審議官が苦笑する。


「“公安育ち”らしい気骨でしたな。情報処理も早い。民間の探偵と組んだのは……偶然ですか?」


「偶然でなければ、運命だろう」




 大平刑事部長は、表情を変えぬまま、わずかに視線を落とす。


「現場に近すぎますよ。彼女は」


「だが、だからこそ“鏡夜”に最も近い場所にいたのも事実だ」




 伊丹次長は一言も発さない。


 だが、その指先が、無言のまま机の資料に触れた。そこに記されていたのは――《神楽鏡夜》という名と、その過去の事件記録。




「神楽鏡夜、“演出家”としては一流だ。こちらの掌で踊ってくれるなら、利用価値はある」




 箕部の言葉に、百々村が眉をひそめる。


「……あれを“道具”として見るのは、少々危険では?」


「危険でない道具に、価値などない」




 グラスの底を見つめながら、箕部は小さく息を吐いた。


「――ただの市井の殺人者なら、公安案件にはならんよ。あれは“思想”を持っている。理想と狂気の境界を操れる奴だ」




 恒種長官は、ゆっくりと椅子の背にもたれかかった。


「ならば、こちらも“狂気”を使うしかあるまい。演者には演者を、仮面には仮面を」




 誰かがつぶやいたその言葉に、誰も反論しなかった。


 官房長室に、再び沈黙が落ちた。




 それは、まだ名前を持たぬ“次の事件”の、始まりにすぎなかった。



「ああ、そうだ。内調から情報が入っている」


 恒種長官が静かに口を開いた。


「内調から?」



「ああ。……外務省経由でCIAから共有されたものらしい」



「珍しいですな。一体どういった理由で」



 それに続くように、大平刑事部長が口を開いた。



「例の神楽鏡夜に関する動きが、どうやら米側にも感知されているようだ」



「CIAが、たかが一犯罪者に警戒を?」



「最近はどこもきな臭い。日本うちだけではなく、世界中でその兆しがある」



「確かにそうですな。歴史のぶり返しのように、また世界各国で紛争が起きています。しかし、現在の日本とは無関係でしょう」



 大平のその軽率な発言に、伊丹次長の目が鋭く光った。



「大平刑事部長。首都東京を守る警視庁の、それも刑事部のトップがその認識とは恐れ入る。君に刑事部長は早かったんじゃないかね。これだったら、さっきの柏原警部補の方が適任だと私は思うがね」



 恒種と箕部、百々村が揃って苦笑した。

 それは伊丹にではなく、大平の見識に対する呆れだった。



「そ……それは……。申し訳……ありません。私の……軽率な……認識でした……」



「伊丹くん、それくらいに。それよりも大平くん」



「はっ」


「神楽鏡夜……。本来は公安うち案件だが、君たちの方にも情報をおろすように言っておくよ。君のところも、優秀な人材を失いたくないだろう」


「ありがとうございます」



 大平はそう言って頭を下げると、官房長室には三度静寂が訪れた。

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