誰かが、外で待っている。
真子さんは、少し心配した顔になって、ボクにそう伝えた。
「わたしが買い出しに行く前には、もう外にいたから、かなり経ってるんじゃない?」
「え? じゃあ二時間以上、外で待ってるんじゃないですか?」
今日は、大阪で雪がちらつくような寒さで、風も目が痛くなるほど強い。
「さすがに声かけた方が・・・」
ボクはそう言いかけたあと、この店の性質上、むやみに声をかけるわけにもいかないと、思い直した。
この店に入る時には、周囲を気にして、躊躇してしまう人も少なくない。
一応、看板は控えめにしているが、それでも『女装サロン』と書かれた怪しげな雑居ビルの一室に入ることは、相当な勇気が必要なはずだ。
メイクルームの窓から、ビルの前を覗いた。5階の高さから、路地を挟んだマンションが見える。
真子さんの言うとおり、赤いキャップをかぶった、小柄な人影が見えた。
諦めたような雰囲気で、植え込みに座り込んで、肩にかけたバッグを抱き抱えている。どこか寂しさを感じるその姿を見ると、胸の奥が痛む。
「これって今、店の前にいる子じゃないかな?」
真子さんは、ボクにスマートフォンを向けて見せた。
営業時間を告知する投稿に、『今日、メイクをお願いしたいです』と返信がある。
「スパムって感じではないと思うけどね」
真子さんは、確かめるように、アイコンを軽くタッチした。
アカウントが表示される。
名前は『カオル』、プロフィールには『トランスジェンダー・男の娘』と書かれていた。
「アイコンは初期設定のままですけど」
ボクは画面をスクロールしながら、何か手掛かりがないか探ろうとした。
「迷惑かもしれないけど、さすがに声かけてあげよっか」
「まだ同一人物か分からないですけど、そうですね」
迷いながら、そう返事をしたが、たった一枚だけ、ギャラリーに投稿されていた画像が目に止まった。
真子さんは、ボクにスマートフォンを預け、外に出て行こうとした。
「じゃあ、わたし行ってくるから」
「あの・・・ちょっと待ってください!」
突然、大声で呼び止めたことで、真子さんは驚いた顔を浮かべたが、ボクも何が起こったのか理解が追いつかず、半ばパニックになっていた。
SNSのタイムラインを見ると、目元を隠した自撮り写真と共に、「メイク練習中」と投稿していた。
だが、投稿には「0点」「きつい」など、中傷するようなメッセージが何件もある。それらすべてに、「コメントありがとうございます。メイク頑張ります」と返していた。
「あの・・・これ、ボクの中学の後輩です」
確信を持てなかったので、「たぶん」と付け加えたが、心臓の鼓動が自分でも信じられないほど、早くなっている。
真子さんは、「マジで?」とだけこぼして、ドアにかけていた手を引っ込めた。
もう一度、窓から路地を覗き込む。気づいたときには、窓枠を掴む手が、震えていた。
本人だと、確信した。
そして、アカウントの「カオル」という名前は、偽名ではなく、本名だったと気づいた。
柚木薫、中学のひとつ下の男の子だ。
「で、どうするの? この「カオル」って子も、中学の先輩にメイクしてもらうってなると、気まずいよね?」
真子さんは困ったように、ボクに答えを委ねたが、ボクも曖昧に笑い返すことしかできなかった。
ボクは、美容専門学校に通いながら、この女装専用サロンで、アルバイトをしていた。講師である真子さんの紹介で始めた仕事だ。
「ボクは大丈夫ですけど、向こうはバレたくないかもしれないですね」
「わたしがあの子にメイクするから、大河くんは裏で隠れてもらっててもいいよ」
真子さんの提案を聞きながら、窓の外を見た。
真子さんも、ボクの視線を追いかけるように、窓の外に目をやると、少し心配そうな顔を浮かべた。
カオルはよろよろと危なっかしく立ち上がり、お尻についた砂を手で払った。
ずっと外にいて、芯まで冷え切ってしまったのだろうか。寒さで固まった身体は動きも緩慢で、ぎこちなく見えた。
「あの子、帰っちゃうんじゃない?」
カオルは一度、空を見上げるような仕草を浮かべたあと、駅の方へと歩いて行った。
表情は見えないが、悲しそうな顔を想像するのが怖くなって、振り払うように、無理やり言葉を探した。
「でも、まだ覚悟ができてないなら・・・」
カオルに限らず、何時間も迷った挙句、やはり店に入る勇気が出ず、帰ってしまう人も多い。
去っていく背中を見て、疼くような記憶が蘇る。ボクがカオルに投げた無神経な言葉が、今になって自分自身の胸に返ってきた。
真子さんも、仕方がないという顔に切り替えて、ドラッグストアの袋をメイクルームのテーブルに広げた。
ボクはまだ、緊張が解けずにいた。深呼吸しようと思っても、小刻みに胸が震えるだけで、上手く息を吸い込んでくれない。
真子さんは、買い出しの品を鏡台の前に並べながら、ふと思い出したように聞いた。
「あの子と仲は良かったの?」
「いや、学年も違うし。それにたぶん俺、嫌われてると思います」
「なんで?」
真子さんは意外そうに聞く。
「気持ち悪いとか結構酷いこと言ったんで、だから・・・」
咄嗟に答えた。嘘は吐いていない、でも本当のことも言っていない。正直に答えたつもりなのに、飲み込んだ言葉の重みの方が、胸に残った。
真子さんも咎めるような目は向けず、「そう」とだけ言って、店の奥へと入って行った。
ドアが勢いよく開いた。
その音に、また心臓が跳ねる。
「またまた、トマトが来ましたよー」
現れたのは、カオルではなく、常連の女装子、トマトちゃんだった。
「いらっしゃい」
笑顔を作ったが、気が抜けたような声だと、自分でも分かった。
まだ足元が宙に浮いているように、力が入らない。気を抜くと、そのまま、ガクッと膝から崩れそうだった。
カオルに会いたかった、会いたくなかった、反対の言葉がはねのけ合う。逃げ切れたように安堵しながら、今すぐにでも背中を追いかけたい、どちらも本音だった。
トマトちゃんは、いわゆる「病みメイク」が得意で、服装も地雷系が多い。道を歩いていても、まず男だとはバレない。
店には毎日のようにやってくるが、自分ひとりで完璧にメイクができるので、サロンではなく、併設してあるバーで飲むことが目的だ。
「この子。今、店の前にいたんだけどね。めっちゃ顔綺麗だし、細いから、絶対可愛くなると思うよ」
トマトちゃんは、背後に向かって手招きをしながら、「こっち、こっち」と無邪気に笑いかけた。
カオルが、そこに立っていた。
「あっ、あの・・・」
カオルは途切れ途切れに何か言おうとしているが、目を伏せたまま、顔を上げない。
ボクも、「あっ・・・」と発しかけた言葉が、息のままちぎれて、その先の言葉にならない。
カオルはメイクを依頼したのが、ボクだと分かっていたのか。それとも、偶然にもボクのもとへメイクの依頼をしたのか。
答えの出ない問いかけを整理するために、カオルの顔を、改めて確認した。
カオルの顔は驚いてはいなかった。
予想すらしていなかった中学の先輩が、目の前に現れたという顔ではなく、ずっと探し続けていた相手が、ようやく姿を見せたというような、安堵の表情を浮かべていた。
「お久しぶりです」
カオルはそう言って、頭を下げた。短い言葉なのに、声は裏返って震えていた。
やはり、カオルはボクがここで働いていると知っていた。
「すみません、突然押しかけて」
ボクが返す言葉を選んでいると、カオルは長い前髪を人差し指でかき分けながら、もう一度「すみません」と繰り返した。手の先の震えは、きっと寒さだけではない。
ボクは余計にかける言葉を見失ってしまったが、これ以上黙っていると、途端に泣き出してしまうようにも見えて、「久しぶり」と、結局は最初に思いついた言葉を口にした。
久しぶり、心の中でもう一度繰り返した。中学時代を思い出していたせいか、心の中の声もずっと幼い響きになった。
ボクの初恋の男の子が、4年ぶりに、目の前に現れた。