店内に響いた怒声に、反射的にビクッと肩が震えてしまった。
他の客たちも、時が止まったように、会話を止め、声の主の方へ視線を遠慮がちに注いでいる。
「喧嘩?」
店に遊びに来ていたツカサも、声を潜めて、何事かと様子を伺っていた。
メイクサロンに併設された談話室は、週末ということもあって、ほとんどの座席が埋まっていた。
元々、喫茶店だった場所をそのまま使っているが、その名残りで流しているジャズのBGMだけが、静まり返った店内に響いていた。
「これ、あなたが書いたの?」
怒鳴り声をあげていたのは、忍という50代の女装子だった。
店の一番奥、カウンター席に座っていた忍さんだが、入り口に近いソファー席に座っていたボクらにもはっきりと聞こえるほど、大きな声で怒鳴りつけていた。
顔の下半分を覆い隠すマスクを付けているが、小さな隙間からでも、忍さんの老いと怒りの表情は、遠目にもはっきりとわかる。
忍さんは、怒りで震えながら、スマートフォンの画面をかざし、ソファーに座る誰かを睨みつけていた。
「はい? なに言ってるか分かんないんですけど」
忍さんが、怒りを向けていたのは、トマトちゃんという若い女装子だった。
ソファー席で寝転がって漫画を読んでいたトマトちゃんは、そのままの姿勢で忍さんに返事を返す。
「で、何が言いたいんですかあ?」
トマトちゃん間伸びした話し方で、いかにも相手にしていないという態度に聞こえた。
「だって、こっち見て笑ってたでしょ? 証拠が無かったら、何してもバレないって思ってる?」
忍さんは、子どもを教え諭すような話し方で伝えるが、それでも言葉の奥にある苛立ちは隠せていなかった。
バキバキとファンデーションがひび割れた眉間、どんよりと二重三重に重なる目元のたるみが、いつにも増して物悲しく見えた。
様子を伺っていたツカサは、ハッと何かに気付いたようにスマートフォンを操作し、ボクに画面を見せてきた。
「これってさ・・・」
ツカサが見ていたのは、掲示板の書き込みだった。メイクをして女性の姿になったあと、男性や友達と待ち合わせをする、そのために使われる掲示板だ。
「この忍って人が、あの人だよね?」
ツカサは店内に声が響かないように声をひそめ、画面をスクロールしていく。何かを察したように「これ」と、掲示板に書かれた「忍」という文字を指さした。
掲示板には、「一番奥の席にいます、お話できる人待ってます」と書き込みがあり、最後には忍さんの自撮りが添付されていた。
少しずつ事情を理解した様子のツカサだが、それに伴って、怒りの矛先も、だんだんとトマトちゃんへ向かっているように見えた。
「じゃあ、ソファーにいる、ピンクのブラウスの子が、この返信を書いて・・・」
ツカサは考えを整理するように、言葉を細かく区切りながら話し続ける。
「それで、忍さんっていう人が、待ちぼうけしてるのを、笑いながらずっと見てたってこと?」
スクロールすると、忍さんの投稿の返信には「お綺麗ですね、ぜひ会いたいので席で待っててください」と、匿名の返信が残されていた。
ツカサの顔には、忍さんへの同情と、トマトちゃんへの苛立ちが混じっているように見える。
「まあ元々、掲示板にはいたずらとか、冷やかしも多いけど」
ボクも全てを知っている訳ではないので、曖昧に返事をしながら、忍さんの方を見た。
その姿を見て、少し前に忍さんと交わした会話を思い出した。普段は中学校の教師をしていると、ボクにだけこっそり教えてくれたのだ。
学校でも同じように生意気な生徒はいるはずなのに、忍さんは怒りをこらえるだけで、何も言い返せない様子だった。
もちろん男の格好だけど、そう笑って付け加えた笑顔を見るのが辛くなって、目をそらしてしまったことも、一緒に思い出した。
トマトちゃんに相手にされなかった忍さんは、諦めたようにカウンター席に戻り、スマートフォンを操作していた。
学校で生徒を叱りつける時も、こんな風に声を荒げるのだろうか。そして、こんな風にあしらわれて、軽んじられているのだろうか。
「ぜんぜん気にしてないので、謝ったりとかは、大丈夫でーす」
トマトちゃんは、漫画を開いたまま、忍さんの背中に投げつけるように言い放つ。
スマートフォンを見ていた忍さんの背中が、黙ったまま、ピクッと動いたのが見えた。
ツカサは何か言いたげな様子で、今にも立ち上がって、二人の間に乱入していきそうだった。
「何、あの子」
不機嫌そうに漏らしたが、席を立つ前に、何かに気付いて座り直した。
ソファーにいたトマトちゃんがボクを見つけると、笑顔で手を振って駆け寄ってきたのだ。
ツカサもそれに気づいて、身構えるように居住いを正した。
「あの、ちょっと聞きたいんですけど、今って大丈夫ですか?」
トマトちゃんは、語尾を伸ばして、いかにも子どもっぽい口調で話しかけてきた。元々高く細い声は、何も知らない人が聞けば、本物の女性と聞き分けられないほど、自然な響きに聞こえるだろう。
「大丈夫、こっち座って」
ボクは少し無理をして笑顔を作りながら、隣の席に座るよう促した。
トマトちゃんは短いスカートを手で押さえながら、白く長い足をソファーに滑り込ませる。
「こんにちは」
まずいなと思いながらツカサの方を見ると、案の定、挨拶すらしたくないという態度を隠さず、スマートフォンの漫画アプリを開いていた。
だが、トマトちゃんは歓迎されていないムードを気にする様子もなく、笑顔のままハンドバックから、涙袋用のアイライナーを取り出した。
「涙袋メイクって言うんですか? 上手く出来なくて」
トマトちゃんの言葉に頷きながら、アイライナーを受け取った。
SNSで流行った、若い女の子向けのシリーズだった。目の下にぷっくらと自然な涙袋が描けると人気だが、独特な使い心地なので、初めてだとなかなか上手くいかない。
「結構難しいんだよ、なあ?」
ツカサに同意を求めたが、「知らない」と言ってそっぽを向き、漫画にまた目を戻す。
だがトマトちゃんは、気後れせず、ツカサの画面を覗き込んだ。
「結構古い漫画も読むんですね。それに少年漫画ですよね?」
ツカサも無視することに疲れたという様子 で、大きなため息のあとに言葉を続けた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
ツカサの口調は刺々しく、尖って聞こえたはずだが、トマトちゃんは、返事を返してくれたことだけでも嬉しいという様子で、「はい、どうぞ」と弾むように答えた。
「忍さんのことバカにしてる?」
ツカサは、忍さんや他の客には聞こえないように、押し殺した声でトマトちゃんに詰め寄った。
「バカにしてますよ、当たり前じゃないですか」
不意打ちのような質問のはずなのに、トマトちゃんは驚いた顔も見せず、あっけらかんとした様子で答えた。
「なんで?」
「だって、見てられないじゃないですか、あんな歳になるまで女装して」
「あんただって、歳取るんだから」
ツカサは呆れたように返す。だが、そう言ったあと、定型分のような言い方しかできない自分を悔やむように、苦い顔になって、「説教くさいけどごめんね」と、負け惜しみのように付け足した。
「大丈夫ですよ、わたし25になる前に死ぬんで」
「いるよね。歳取ったら死ぬって宣言する奴」
「本気ですよ、わたし」
トマトちゃんは、きっぱりとした口調で言った。さっきまでの、おどけた声色と違って、迷いもためらいもない強い決意に、ツカサも言葉を失ったようだった。
「それでも・・・」
ツカサが言いかけたとき、店の扉が開き、一人の中年のサラリーマン風の男が入ってきた。
店内を軽く見回したあと、一直線に忍さんの方へ向かった。
「掲示板に書き込んだ者です。遅くなってすみません」
何度も頭を下げながら、忍さんの隣に座った。
ボクとツカサは、黙って顔を見合わせた。