布団の中から、声が聞こえてきた。
くぐもった声ではっきりとは聞こえなかったが、「何かあったんだな」と、機嫌が悪いことだけはすぐに分かった。
「もう帰ってたの?」
中にも聞こえるように、少し声を大きくして聞いた。
彼女は布団を頭からかぶり、かまくらの中に閉じこもるように、ベッドの上に座っていた。中から、炭酸が弾ける音が聞こえる。中の様子を想像すると、三角座りをしながら、酒でも飲んでいるのだろう。
「今日飲み会で、帰りが遅くなるって言ってなかったっけ?」
続けて質問すると、布団の中から腕だけが出てきた。そして、指を二本立て、「嫌になって、20分で帰ってきた」と、ぶっきらぼうに答えて、また引っ込んだ。
テーブルには、空になったチューハイの缶が散乱している。ゼミの飲み会から早々に退出し、ボクの部屋で何時間も一人で飲んでいたのか。
「何か嫌なことでもあった?」
ボクが尋ねると、水面から飛び出すように、「ぷはっ」と大袈裟に息を吸い込みながら、彼女、ツカサが顔を出した。
「別に何にもないけど。まあ暇だったら話とかする?」
どっちでもいいけど、と投げやりに言って、テーブルのお菓子の袋に手を突っ込んだ。
ツカサが動いて、髪が揺れるたび、甘い香りが解き放れて空気中に広がる。
香水を使うような性格ではないし、高価なシャンプーをこだわって使うようなこともしない。だが、身体に一度取り込んで発酵させたようなその匂いは、香料と汗が混じり、「本物の女性」にしか出せない、独特の酸味を帯びた香りになっていた。
「ねえ」
ツカサが天井に向かって、言葉を投げかけるようにこばした。
まだ手付かずだったチューハイの一本を手に取って、ベッドの脇に座った。
「聞いてるよ」
声に出さずに言って、チューハイを喉に流した。喉がきゅっと締め付けられるような酸味で気付いた。無造作に置かれた缶の中で、二つだけ手付かずだったこのチューハイは、以前ボクが好きだと言っていたものだった。
ありがとう、また声に出さずにつぶやいて、天井を見上げた。
「女の人生めんどくせーとか、冗談で言ったら怒る?」
「別に」
笑って受け流せた。
差別したり、否定したり、バカにすることは絶対にしない。それがわかっているから、冗談で聞き流せた。
ツカサには、高校時代にすべて話してあった。すべて、自分の性別に違和感を感じていたこと、友達として始まった関係が先に進む前に、ボクから切り出した。
知ってた、ツカサは笑いながらそう言って、これまでと同じ関わり方を崩すことなく、今も頻繁にこうして会っている。
「さっきラインしてくれた中学の後輩ってさ、わたしの知ってる人?」
首を横に振った。高校で出会ったツカサには、カオルのことは一度も話したことはなかった。
「ねえ」
さっきと同じ言葉なのに、ツカサの声はどこか、寂しげに聞こえた。
「前から聞こうと思ってたんだけど」
ツカサは柄にもなく回りくどく言葉を選びながら言って、少しだけためらったように間を置いて続けた。
「大河ってさ、女の子のアソコとか、見たことあるの?」
「はあ?」
唐突過ぎる質問に、思わず声が漏れてしまった。
からかうだけで、すぐに笑い飛ばして話を終えると思っていたのに、ツカサはボクが質問に答えるまで待つと覚悟を決めたように、無言でチューハイを飲み始めた。
「ネットでとか、なら」
ごまかしても、混ぜっ返してきそうだったので、正直に答えた。
少しの沈黙のあと、ツカサは横になったまま、火照った身体を冷ますように襟元を引っ張り、バタバタと動かしながら服の中の空気を入れ替えた。
「中学の頃なんだけど」
中学二年の冬、スマホで画像を調べた。
どんな言葉で検索をしたのか忘れたが、出て来るサイトはアダルトサイトばかりで、海外のものが多かった、と覚えている。
思春期なりに嫌悪感を感じながらも、食い入るように覗き込んだ。自分の身体には存在しない、本物の女性を見たかった。
そして心のどこかでは、他の男子がきっとそうだったように、女性の裸を見て性への衝動が湧き上がることを期待していた。
何かのスイッチが入って、違和感なく男であることを受け入れられる。そう思って、広告だらけの重いサイトをスクロールしたが、淡い憧れが胸に浮かぶだけで、期待していた性衝動が湧き上がることはなかった。
「実物も見たことないの?」
「そうだけど」
真剣に答えるのが恥ずかしくなって、わざと、不貞腐れた声で答えた。
胃と食道からアルコールがこみ上げ、口の中で弾ける。それも一緒に飲み込みたくて、底にわずかに残ったチューハイを逆さにして飲み干した。
「見せてあげよっか?」
冗談だよ、そう言ってすぐに撤回すると思っていたのに、ツカサはゴロンとベッドに仰向けになって、黙ってしまった。
ボクもどう返事をすればいいか分からなくなって、缶に唇を押し付けて、飲んでいるフリをすることしかできなかった。
「ゼミの飲み会だっけ? 何か嫌なやつでもいた?」
ボクは座ったまま、ツカサの方を見ないようにして、話を変えようとした。早口になって、動揺していることは、あっけないほど簡単にバレたはずだ。
ツカサも、ボクが無理に話題を変えようとしていると気付いているはずだが、普通の会話のように、素直に質問に答え始めた。
「だってさ、普通に別のテーブルでしてるような、授業の話とか就職の話とか、漫画の話とかしたいのに」
ツカサの通う学部は、ほとんど男子学生ばかりで、飲み会などがあると、彼女が唯一の女性になってしまうと、何度か愚痴を言っていた。
「ちょっと仲良くなったら、このあと二人で飲みに行こうよとか、急に男と女の関係にして、性欲向けてくるのマジで気持ち悪い」
ツカサはそう話しながら、ベッドの上で、身体を揺らしてジーンズを下ろし始めた。
ボクは余計に、ツカサの方を見れなくなって、逃げるようにチューハイをもう一缶手に取った。
プルタブを開けると、膝の上に脱いだばかりのジーンズが飛んできた。中にこもった熱気が裾からこぼれ、生々しい体温が伝わる。
「一応恥ずかしいから、何か話して」
もう一度身体をくねらせる振動がベッドに伝わった。下着を脱いでいるのかも知れない。そう気付くと、ますます目を向けられなくなった。
ボクが話しのきっかけを見つける前に、ツカサの方から、会話を切り出した。
「今日、お店に来た子ってさ、どんな人だったの?」
カオルを思い浮かべた。さっきまで顔を見ていたはずなのに、頭の中のカオルは、メイクで女性になった姿ではなく、学生服のままだった。
「中学の一つ下の後輩なんだけど」
ただの後輩、メイクサロンの客、カオルとの関係を表す言葉はいくつもあったが、声に出して言いたいと心に浮かんだのは、結局、本音の言葉だった。
「初めて好きになった人」
ボクが答えると、小さく「そっか」と声にして、寝返りを打って、背中をボクに向けた気配が伝わった。
「一応聞くけど、男の子だよね?」
壁に向かって話しているから、ツカサの声は跳ね返ってボクに届く。
ツカサの足に布団をかけながら、「うん」とだけ曖昧に言葉を返した。
「来週、頼み事をしたいって言われて、ずっと迷ってるんだけど」
ツカサは、「へー」と気のない返事をしたあと、すぐ「なにを?」と続きを促した。