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第4話

 布団の中から、声が聞こえてきた。

 くぐもった声ではっきりとは聞こえなかったが、「何かあったんだな」と、機嫌が悪いことだけはすぐに分かった。


「もう帰ってたの?」

 中にも聞こえるように、少し声を大きくして聞いた。


 彼女は布団を頭からかぶり、かまくらの中に閉じこもるように、ベッドの上に座っていた。中から、炭酸が弾ける音が聞こえる。中の様子を想像すると、三角座りをしながら、酒でも飲んでいるのだろう。


「今日飲み会で、帰りが遅くなるって言ってなかったっけ?」

 続けて質問すると、布団の中から腕だけが出てきた。そして、指を二本立て、「嫌になって、20分で帰ってきた」と、ぶっきらぼうに答えて、また引っ込んだ。


 テーブルには、空になったチューハイの缶が散乱している。ゼミの飲み会から早々に退出し、ボクの部屋で何時間も一人で飲んでいたのか。


「何か嫌なことでもあった?」

 ボクが尋ねると、水面から飛び出すように、「ぷはっ」と大袈裟に息を吸い込みながら、彼女、ツカサが顔を出した。

「別に何にもないけど。まあ暇だったら話とかする?」

 どっちでもいいけど、と投げやりに言って、テーブルのお菓子の袋に手を突っ込んだ。


 ツカサが動いて、髪が揺れるたび、甘い香りが解き放れて空気中に広がる。

 香水を使うような性格ではないし、高価なシャンプーをこだわって使うようなこともしない。だが、身体に一度取り込んで発酵させたようなその匂いは、香料と汗が混じり、「本物の女性」にしか出せない、独特の酸味を帯びた香りになっていた。


「ねえ」 

 ツカサが天井に向かって、言葉を投げかけるようにこばした。

 まだ手付かずだったチューハイの一本を手に取って、ベッドの脇に座った。

「聞いてるよ」

 声に出さずに言って、チューハイを喉に流した。喉がきゅっと締め付けられるような酸味で気付いた。無造作に置かれた缶の中で、二つだけ手付かずだったこのチューハイは、以前ボクが好きだと言っていたものだった。

 ありがとう、また声に出さずにつぶやいて、天井を見上げた。

「女の人生めんどくせーとか、冗談で言ったら怒る?」

「別に」

 笑って受け流せた。

 差別したり、否定したり、バカにすることは絶対にしない。それがわかっているから、冗談で聞き流せた。


 ツカサには、高校時代にすべて話してあった。すべて、自分の性別に違和感を感じていたこと、友達として始まった関係が先に進む前に、ボクから切り出した。

 知ってた、ツカサは笑いながらそう言って、これまでと同じ関わり方を崩すことなく、今も頻繁にこうして会っている。


「さっきラインしてくれた中学の後輩ってさ、わたしの知ってる人?」

 首を横に振った。高校で出会ったツカサには、カオルのことは一度も話したことはなかった。

「ねえ」

 さっきと同じ言葉なのに、ツカサの声はどこか、寂しげに聞こえた。

「前から聞こうと思ってたんだけど」

 ツカサは柄にもなく回りくどく言葉を選びながら言って、少しだけためらったように間を置いて続けた。


「大河ってさ、女の子のアソコとか、見たことあるの?」

「はあ?」

 唐突過ぎる質問に、思わず声が漏れてしまった。 

 からかうだけで、すぐに笑い飛ばして話を終えると思っていたのに、ツカサはボクが質問に答えるまで待つと覚悟を決めたように、無言でチューハイを飲み始めた。


「ネットでとか、なら」

 ごまかしても、混ぜっ返してきそうだったので、正直に答えた。


 少しの沈黙のあと、ツカサは横になったまま、火照った身体を冷ますように襟元を引っ張り、バタバタと動かしながら服の中の空気を入れ替えた。

「中学の頃なんだけど」

 中学二年の冬、スマホで画像を調べた。

 どんな言葉で検索をしたのか忘れたが、出て来るサイトはアダルトサイトばかりで、海外のものが多かった、と覚えている。

 思春期なりに嫌悪感を感じながらも、食い入るように覗き込んだ。自分の身体には存在しない、本物の女性を見たかった。

 そして心のどこかでは、他の男子がきっとそうだったように、女性の裸を見て性への衝動が湧き上がることを期待していた。


 何かのスイッチが入って、違和感なく男であることを受け入れられる。そう思って、広告だらけの重いサイトをスクロールしたが、淡い憧れが胸に浮かぶだけで、期待していた性衝動が湧き上がることはなかった。


「実物も見たことないの?」

「そうだけど」

 真剣に答えるのが恥ずかしくなって、わざと、不貞腐れた声で答えた。

 胃と食道からアルコールがこみ上げ、口の中で弾ける。それも一緒に飲み込みたくて、底にわずかに残ったチューハイを逆さにして飲み干した。


「見せてあげよっか?」

 冗談だよ、そう言ってすぐに撤回すると思っていたのに、ツカサはゴロンとベッドに仰向けになって、黙ってしまった。

 ボクもどう返事をすればいいか分からなくなって、缶に唇を押し付けて、飲んでいるフリをすることしかできなかった。


「ゼミの飲み会だっけ? 何か嫌なやつでもいた?」

 ボクは座ったまま、ツカサの方を見ないようにして、話を変えようとした。早口になって、動揺していることは、あっけないほど簡単にバレたはずだ。


 ツカサも、ボクが無理に話題を変えようとしていると気付いているはずだが、普通の会話のように、素直に質問に答え始めた。

「だってさ、普通に別のテーブルでしてるような、授業の話とか就職の話とか、漫画の話とかしたいのに」

 ツカサの通う学部は、ほとんど男子学生ばかりで、飲み会などがあると、彼女が唯一の女性になってしまうと、何度か愚痴を言っていた。

「ちょっと仲良くなったら、このあと二人で飲みに行こうよとか、急に男と女の関係にして、性欲向けてくるのマジで気持ち悪い」


 ツカサはそう話しながら、ベッドの上で、身体を揺らしてジーンズを下ろし始めた。

 ボクは余計に、ツカサの方を見れなくなって、逃げるようにチューハイをもう一缶手に取った。


 プルタブを開けると、膝の上に脱いだばかりのジーンズが飛んできた。中にこもった熱気が裾からこぼれ、生々しい体温が伝わる。


「一応恥ずかしいから、何か話して」

 もう一度身体をくねらせる振動がベッドに伝わった。下着を脱いでいるのかも知れない。そう気付くと、ますます目を向けられなくなった。


 ボクが話しのきっかけを見つける前に、ツカサの方から、会話を切り出した。

「今日、お店に来た子ってさ、どんな人だったの?」


 カオルを思い浮かべた。さっきまで顔を見ていたはずなのに、頭の中のカオルは、メイクで女性になった姿ではなく、学生服のままだった。

「中学の一つ下の後輩なんだけど」

 ただの後輩、メイクサロンの客、カオルとの関係を表す言葉はいくつもあったが、声に出して言いたいと心に浮かんだのは、結局、本音の言葉だった。


「初めて好きになった人」

 ボクが答えると、小さく「そっか」と声にして、寝返りを打って、背中をボクに向けた気配が伝わった。


「一応聞くけど、男の子だよね?」

 壁に向かって話しているから、ツカサの声は跳ね返ってボクに届く。

 ツカサの足に布団をかけながら、「うん」とだけ曖昧に言葉を返した。

「来週、頼み事をしたいって言われて、ずっと迷ってるんだけど」

 ツカサは、「へー」と気のない返事をしたあと、すぐ「なにを?」と続きを促した。


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