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第3話


「目が覚めたときに、ああ、今まで見てたのって全部夢だったのかって、ゆっくりと気づくことってないですか?」

 メイク道具を選んでいると、カオルは沈黙の間を埋めるためなのか、唐突に話を始めた。

「それで、夢に出てきた登場人物のことが忘れられなくて。楽しくて幸せで、でも夢だってことも分かってるから、あと数分で記憶からも消えることも分かっちゃって」

 その瞬間がたまらないほど苦しいと、誰かのことを思う顔になって、言葉を閉じた。

「そういう夢を見るときって、いつも中学の思い出なんです」

 中学、という言葉をカオルの口から聞いて、また嫉妬なのか、ボクの中で名前のない感情が生まれ、心が乱される。


 カオルとは中学を卒業して以来、一度も会うこともなかった。ボクが先に卒業したあと、そして高校時代も、知らないことばかりなのだと、当たり前のことに、不意に途方もない寂しさを感じてしまう。


「じゃあ、メイク始めるよ」

 胸のざらつきを打ち消したくて、早足でメイクを始めた。

 カオルの方を見ると、一瞬、笑顔を浮かべたあと、すぐに笑ってしまった自分を罰するように、また沈んだ顔に戻った。


 笑顔を消す所作が、身についているのだろう。中学の頃、カオルの姿を校舎で見かけると、一瞬、ボクの方に笑顔を浮かべたあと、すぐにそれを打ち消すように、顔を曇らせた。自分の笑顔が他人を不快にさせるかもしれない、そうやって自分を呪っている人の仕草だと、今さらになって気付いた。


「メイクしたいって、思ったきっかけとかあるの?」

 黙っていることに、今度はボクが耐えられなくなって、いつも他の女装子たちにもしている質問を投げかけた。

 カオルは少し迷った顔を浮かべたあとは、溜め込んでいた思いを吐き出したいというように、一息に話し始めた。

「SNSとか見てると、『ありのままでいいんだよ』とか、自撮りと一緒に投稿してる綺麗な人、いるじゃないですか?」

「まあ、ありがちだけど」

「わたしも自己肯定感爆上げしたくて、そういう投稿ばっかり見てたんですけど、でも違うなって思って・・・」

「違う?」

「ありのままの自分が美しいとか、等身大の自分に自信を持ってとか、正しい言葉だけど、いや、でもこれじゃないんだって。いやこれ、わたしじゃないんですって」

 カオルは早口で言い終え、「なんで、こんな風に生まれたんだろうなあ」と、続く言葉は深いため息と一緒にこぼした。

 カオルの耳元に添えていたボクの手にも、横顔から漏れ出た熱い吐息が触れる。


「自分でメイクしたことは?」

 すると、カオルは指を3本立てて「3回だけ」と答えた。申し訳なさそうな顔になったあと、立てた指を微妙に折り曲げる。

「なんでメイクなんてしてるんだろうって、失敗した顔を見て、泣きながら思ってました」

 分かるよと、声には出さずただ黙って頷き、メイクを進めた。


 ベースメイクを終え、アイホール全体にコーラルピンクのアイシャドウを乗せる。途中から、カオルはメイクの完成を待つように、じっと目を閉じて待っていた。


 元々小柄で、身体のラインも細い。顔立ちも中性的で、骨格の張りも少ない。まだ19歳と若く、肌もキメ細かい。

 いわゆる女装で、「化ける」顔だった。


 黒のジェルアイライナーで、ラインを引く。顔に合わせて、キャットラインも書き足した。目尻が跳ね上がるように、くっきりとした線を描くと、少しタレ目な目元も引き締まり、顔の余白が狭く見える。


「できたよ」

 メイクの完成を告げても、カオルは目を開けようとしなかった。

「あの・・・服とか全部着たあとで見てもいいですか」

 もちろん、と答えた。カオル以外の他の人たちも、メイクをしたあとで、男の格好のまま鏡を見たくないという人は多い。


 カオルは鏡を見ないように、目を床に落とし、持参した紙袋を持って、更衣室に入っていった。


 メイク道具を片付けながら、頭はぐちゃぐちゃにかき乱されたままだった。

 鏡に自分の姿が映る。

 元々、筋肉が付きやすい体質だったが、高校に入ってからは、特にがっしりと肩幅が広くなった。身長も止まらず、180センチを超えた。

 選ばれたかった、そのままの自分を誰かに愛して欲しかった、ずっと忘れようとしていたことなのに、カオルの言葉で、また思い出してしまった。

 鏡を見て、ワンピースを着た姿、ブラウスを着た姿を想像する。こんなボクが、綺麗な女性用の服を着ても、哀れな「化け物」にしかならないということは誰よりも分かっていた。


 更衣室のドアが開いた。

 チャコールのワンピースを着た、カオルが出てきた。

 黒のボブウィッグをかぶり、胸にわずかな膨らみがある。

 紙袋に入っていた下着も、おそらく着けているのだろう。ワンピースのシルエットは、完璧な女性そのものだった。


「気持ち悪かったら、言ってくださいね」

 カオルはきっと、冗談で緊張を紛らせようとしたはずなのに、声が震えてしまって、余計に足がすくんでしまったようだった。


「大丈夫だから、鏡の前で見てみなよ」

 一度深く頷いたあと、カオルは、店で一番大きな姿見の前に立った。

 立ち尽くして、呆然と鏡に映った自分を見た。

「あっ・・・あの」

 口を開いても、息が漏れるだけで、声が言葉にならない。自分を見て、どう受け止めていいのか分からなないのだろう。

「いいんですかね、わたしが、その・・・」

 カオルはきっと、自嘲して卑下して、そんなフィルターでしか、自分を見てこなかった。だから、自分で自分のことを褒めてもいいと、許すことができない、そんな気持ちが、痛いほど分かった。


「いいんだって、それで」

 ボクの言葉に、カオルは一瞬、キョトンとした顔を浮かべ、鏡越しにボクの方を見た。

 ボクも鏡に映ったカオルに向かって話す。


「死ぬほど勇気出してこの店まで来て、自分でメイクも頑張ろうと努力もして、それでこんなに可愛くなれたんだから、何もしないことだけが、ありのままじゃないだろ」

 感情のまま、言葉に言葉を重ねてしまったが、途中で思いが溢れて、止まらなかった。

「だから、可愛くなれたことを、自分が頑張ったおかげだって、褒めていいだろ」

 言い切ったあとで、初めて気が付いた。

 カオルが鏡を見ながら、涙を流していた。


 カオルは涙を指の先で拭うと、突然ハッと気付いたように「せっかくメイクしてくれたのにすみません」と謝った。

 ウォータープルーフのマスカラを使ったので、目元はそれほど崩れていなかったが、すっと頬をつたうように、涙の線が光っていた。


「別に嫌だから泣いたんじゃなくて、その嬉し・・・」

 声に詰まったカオルを助けたくて、必死に続く言葉を探った。

「嬉し泣き?」

 カオルが言いかけた言葉を引き取ってボクの方から付け加えた。さっき、気恥ずかしいことを言ってしまったことを隠すために、わざと冗談に紛れさせたくて、笑って言った。


 だがカオルは、泣きながら首をかしげ、自分でも自分の気持ちがよく分からないと、困惑したように続けた。

「たぶん、たぶんなんですけど、順番が違うんです」

「順番?」

「たぶん、嬉しくて泣いたんじゃなくて、自分のことで、泣けたから、嬉しくなったんだと思います」


 この店に入ってから、初めて本当の笑顔を見た気がした。そして、カオルは泣き笑いの顔のまま続けた。

「さっきの夢の話なんですけど」

 鏡の中にではなく、ボクの方を向き直って、カオルは話した。

「先輩と一緒にいたときの夢ばっかり見てました」


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