王都・第三区、ルミナス家の屋敷。
白い花が咲く中庭、昨日いつものように出て行った夫をエレンは静かに待っていた。
扉が開き、血のにじんだ上衣のまま、スカーヴェルが現れる。
彼女はすぐに駆け寄り、その傷を見て息を呑んだ。
エレン「スカー……そんな……!!」
スカー「……油断しただけだ。心配させたな」
そう言って笑おうとしたが、その笑みはどこか力なく、肩を落としている。
エレンは静かに尋ねた。
エレン「……何が、あったの?」
スカーは言葉を詰まらせ、しばし沈黙した後、ぽつりと答える。
スカー「……王から密命を受け調査をしていた……だが、その黒幕は……」
拳を握りしめる彼の手は震えていた。
スカー「俺は、正義を貫くと誓った。けれど、仲間に裏切り者がいる。しかも、俺は証まで失って……それでも俺は、“光”だと胸を張れるのか……?」
彼の声は、自責と悔しさに揺れていた。
その時だった。
エレンは、そっと彼の両手を取り、自分の頬に当てた。
エレン「あなたの光は、鎧でも紋章でもないわ」
スカーが目を見開く。
エレン「……スカー。あなたが誰かのために剣を振るったとき、
泣いていた子どもに手を差し伸べたとき、
私が道に迷ったとき、優しく名前を呼んでくれたとき――」
彼女の瞳は、揺らがない。
エレン「そのすべてが、“あなたという光”なの。
たとえ何があっても、あなたが光を信じている限り、私も信じているわ。
あなたが私の夫であることも、ルミナス家の騎士であることも、変わらない」
スカーは、言葉を失ったまま、彼女の手の温もりを感じていた。
どんな光魔法よりも、彼の胸を照らしたのは――彼女の言葉だった。
スカー「……ありがとう、エレン。お前が、俺の光だ」
二人はしばらく言葉もなく寄り添い、
小さな窓から差し込む朝の光が、静かに彼らを包んでいた。
その瞬間、スカーの目に再び力が戻る。
守るべき者がいる。信じてくれる人がいる。
――それなら、何度でも立ち上がれる。
スカーはゆっくり立ち上がり、彼女に微笑みを返した。
スカー「……必ず、奴を止める。俺の手で。そして、この国を、正義で照らす」
エレンは静かに頷き、そっと彼の背に手を添えた。
エレン「ええ、あなたならきっとできるわ。だってあなたは、私の――“英雄”だから」
数日後、王都に衝撃が走った。
「王都南区の診療所にて、“黒涙”による集団中毒が発生。
現場には、魔法で細工された大量の薬瓶と――ルミナス家の光紋章が落ちていた」
その報せは、あっという間に騎士団内部を駆け巡った。
「光の騎士スカーヴェル卿が“黒涙”に関与している可能性がある……? 馬鹿な!」
スカーの旧友であり騎士団の副団長、ガイル・ベルトンが声を荒げた。
だが、証拠品として提示された“紋章”は確かにルミナス家のもの。さらに現場には、スカーの魔力反応に酷似した痕跡までが記録されていた。
「魔力の痕跡も……? それが本当なら、スカー殿は――」
ガイル「……いや、そんなはずはない!あの人が、そんなことをするはずがない!」
しかし、組織は冷たい。
騎士団長は淡々と命じる。
「スカーヴェル卿を一時、王都外任務から解任し、調査対象とする。出頭を命じよ」
その夜、スカーとエレンは密かに外に出ていた。
彼自身、すでに事態を察知していたのだ。王都の監視網が、明らかに彼の動きを探っている。
スカー「……紋章を使われたか。想定していたつもりだったが……思ったよりも、早かったな」
エレン「スカー、あの紋章……まさか、“あの男”の手に?」
スカーは静かに頷いた。
スカー「ヴァル=クロノス・ドレイガ……騎士でありながら、裏で“黒涙”をばらまいている裏切り者」
エレン「……!」
スカー「奴はきっと、紋章を使って俺を“表の敵”に仕立て上げるつもりだ。
“正義の騎士が裏で闇に染まっていた”という物語なら、民も騎士団も混乱する。誰もが信じていた光が、裏切ったのだと……」
その言葉に、エレンの目が静かに燃える。
エレン「……なら、私があなたの証になる。
騎士団があなたを疑うなら、私があなたの“本当の光”だと証明してみせる」
スカーは目を細め、静かにエレンの手を握った。
スカー「ありがとう、エレン。でも、君まで巻き込むわけには――」
エレン「いいえ。もう、巻き込まれてるわ。あなたの妻として。ルミナス家の一員として。
だから、黙って見ていることなんて、できない」
彼女の瞳に、かつて見たことのない強さが宿っていた。
同時刻、城の地下の隠された実験室。
黒衣をまとうヴァル=クロノス・ドレイガが、手にしたスカーの紋章を眺めていた。
ヴァル「光の紋章が、こんなにも役立つとはな……皮肉だ。
“正義”という言葉ほど、容易く折れるものはない」
部下の錬金術師が言う。
「これで、王国の“英雄”は、民衆の敵に変わりますな。
あなた様の“理想の国”への第一歩です」
ヴァル「ああ……“偽りの正義”などいらん。
俺たちの理想に必要なのは、秩序を維持する“力”だけだ」
ヴァルは、紋章をゆっくりと握り潰した。
ヴァル「お前は、この国の“象徴”だった。だからこそ、価値があるんだよ、スカー」
夜明け前。
薄い霧が森を覆うなか、二人は静かに馬を進めていた。
王都から南東へ一日分、深い樹海の中。誰にも知られていない古びた小屋にたどり着いた。
敵のアジトから逃げ帰った夜、国王がお忍びで来ていた。ヴァル=クロノス・ドレイガにより光の騎士―スカーヴェル・ルミナスを告発するという情報を持って。
レオハルト「……状況的にも覆すことは不可能だろう―。本当にすまない……」
そう言って国王は頭を下げた。そして、潜伏場所としてこの場所を教えてくれたのだった。
スカー「ここなら、しばらくは見つからない。……あの男の目も、まだ届かないだろう」
扉を軋ませて開き、埃を拭いながら中を整えるスカー。
一方で、エレンは寂しそうにその後ろ姿を見つめていた。
エレン「……あなた、本当に一人で行くつもりなの?」
スカーは振り返り、静かに頷いた。
スカー「ここから先は、命のやり取りになる。俺が捕まれば、それこそ“黒涙”をばらまいた裏切り者とてて処刑される。……君まで巻き込むわけにはいかない」
エレン「もう……巻き込まれてるわって、言ったでしょ」
エレンは、わずかに涙をにじませながらも、笑った。
エレン「でも……わかってる。あなたは、“行かなくていい理由”を探す人じゃない。“行くしかない時”に、必ず立ち向かう人だってこと」
スカーの喉が、かすかに震えた。
スカー「……必ず戻る。それまで、ここで待っていてくれ」
エレン「ええ。戻ってくるって、信じてるから。私が信じている限り、あなたの光は――絶対に消えない」
彼女の指先が、スカーの胸元にそっと触れる。
そこには、紋章を失ったままの、騎士の心がある。
スカー「……お前がそう言ってくれる限り、俺は何度でも立ち上がれる」
最後に短く抱きしめ、言葉を交わさず、スカーは馬にまたがった。
そして、振り返らずに走り出す。
霧の中に溶けていくその背中を、エレンは何も言わず見送った。
同時刻 ――ヴァルのアジト・地下坑道
ヴァル「……やはり来るか。彼は、必ず“光の剣”を振るう。それが例え……自らの首に向かう刃でも、な」
ヴァルは、薄暗い地下拠点の玉座のような椅子で笑っていた。
部下が報告を入れる。
「王都での監視網はすでに空白。ルミナスの騎士は、密かに動いています」
ヴァル「よろしい。では、“歓迎の準備”を」
ヴァルの足元、床に彫られた魔法陣がゆっくりと輝き始める。
ヴァル「光を信じる者ほど、闇の餌にしがいがある」
山間の奥地、旧鉱山跡。
かつて魔力鉱石の採掘で栄え、今は封鎖されたはずのその場所に、スカーはひとり辿り着いた。
天候は曇天。風が吹き込む坑道はひどく静かで、まるで人の気配がなかった。
スカー「……ここか。だが――遅かったか」
スカーは注意深く内部を探っていく。
瓦礫の下からは空になった薬瓶、炉の残骸、焼き尽くされた文書の一部。
黒涙の製造設備だった形跡はあるが、すべてが“処理済み”だった。
スカー「証拠は……消されたか。いや、これはあらかじめ“誰かに見られる前提”で処理された跡。つまり――」
そのとき、坑道の入り口から声が響く。
「――“裏切りの騎士”発見! 構えよ!」
スカーは即座に身を翻し、視線を向ける。
坑道の入り口に、王国正規軍の兵たちが整列していた。
旗印は王都本軍直属、第十三部隊。
そしてその先頭に立つのは――
ヴァル「……よく来たな、スカーヴェル・ルミナス」
黒の礼装に身を包んだヴァル=クロノス・ドレイガ。
冷たい笑みを浮かべ、堂々と王家の命令を携えて現れた。
スカー「ヴァル……!」
スカーの声には怒りがこもるが、兵士たちはすでにスカーを“反逆者”と認識している様子だった。
ヴァル「王命により、“黒涙の密造と拡散”、および“王都における毒物テロ”への関与の疑いで、お前を処刑する」
ヴァルの宣言に、スカーは目を見開いた。
スカー「王命……? まさか、王そのものが……!」
ヴァル「誤解するな。これはあくまで“証拠に基づいた正式な命令”だ。現場にあったお前の魔力痕、薬瓶、そして……これだ」
ヴァルは、懐からスカーの光の紋章を取り出す。
ヴァル「これが、“お前がここに関与していた証拠”だとな」
――すべては、最初から仕組まれていた。
スカーが紋章を失ったあの日から。
黒涙がばらまかれ、証拠がねつ造され、アジトが放棄され――
そして今、“証拠を隠滅しようと戻った裏切り者”として、スカーはこの場に立っていた。
騎士たちが剣を抜く音が、坑道に響く。
スカー「待て! 俺は、黒涙など関わっていない。この紋章は、戦いの中で失ったもので――」
ヴァル「言い訳は、あの世でするんだな」
ヴァルの目は冷酷だった。
完全に追い詰めたという確信が、その声ににじんでいた。
スカー「……くっ」
スカーは剣に手をかけながらも、周囲を見渡す。
数で劣る上、ここは地の利を失った坑道。
戦って勝てないわけではない――が、彼が誰かを斬った瞬間、
“裏切り者が王軍に刃を向けた”という動かぬ事実が作られてしまう。
ヴァル「……スカーヴェル・ルミナスを処刑せよ!」
ヴァルの号令とともに、十数名の王国兵が一斉に飛び出す。
スカーはその場から微動だにせず、ただ瞳を閉じた。
(証拠は捏造、王は操られ、仲間の刃が俺に向く。なら――)
目を見開き、叫んだ。
スカー「――ここで終わるわけには、いかない!!」
瞬間、足元に強烈な光の魔法陣が展開される。
「時よ――止まれ。光よ――刻を裂け。
忘却の瞬間に刻まれし閃光の残滓よ、我が陣を駆け抜け、永劫の軌跡を描け!
閃烈陣フラッシュ・アレイ・刻の残光レムナントオブタイム!!」
光の残像で複数の虚像を作り出す、高等魔術。
ヴァル「幻影魔法か!?いや、違う、あれは――!」
炸裂する光に、兵たちは目を潰され、混乱する。
光の帳が破れる刹那、スカー騎士団の包囲網をすり抜け森へと駆け抜ける。
ヴァル「……逃がすな!追えッ!!」
スカーは、山を越え、森を抜けた。
土砂崩れの危険区域を迂回しながら、獣道をたどり、三日三晩をかけて辿り着いたその場所。
それは彼が、エレンをかくまった人里離れた小屋だった。
スカー「……エレン。無事でいてくれ……」
胸に迫る不安を振り切るように、足を速める。
だが――
視界に飛び込んできたのは、黒く焦げ果てた残骸だった。
スカー「……っ!?」
小屋は跡形もなく、崩れ、炭と化していた。
黒煙がまだ微かに立ち上っている。火は、ごく最近消えたばかりのようだった。
スカーは一気に駆け寄り、瓦礫をかき分ける。
スカー「エレン!! エレ――ンッ!!」
焦げた扉の下に、人の形をした焼け跡があった。
その手には、スカーがかつて贈った月光の髪飾りが、焼けながらもなお輝きを失わず残っていた。
スカー「……いや、いやだ……うああああああああああああああああああ!!!!!」
膝をつき、叫びをあげる。握りしめた拳から血が滲み怒りと絶望と、自責と喪失。
そのすべてが胸を貫き、心にどす黒い感情が溢れ出す。
エレンの笑顔。あの日、誓い合った言葉。
その全てを奪った裏切り者に対し――。
今まで信じていた光は陰り、黒く、黒く染まっていく―。