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第十一話 魔への誘い―③

王都・第三区、ルミナス家の屋敷。


白い花が咲く中庭、昨日いつものように出て行った夫をエレンは静かに待っていた。




扉が開き、血のにじんだ上衣のまま、スカーヴェルが現れる。


彼女はすぐに駆け寄り、その傷を見て息を呑んだ。




エレン「スカー……そんな……!!」




スカー「……油断しただけだ。心配させたな」




そう言って笑おうとしたが、その笑みはどこか力なく、肩を落としている。


エレンは静かに尋ねた。




エレン「……何が、あったの?」




スカーは言葉を詰まらせ、しばし沈黙した後、ぽつりと答える。




スカー「……王から密命を受け調査をしていた……だが、その黒幕は……」




拳を握りしめる彼の手は震えていた。




スカー「俺は、正義を貫くと誓った。けれど、仲間に裏切り者がいる。しかも、俺は証まで失って……それでも俺は、“光”だと胸を張れるのか……?」




彼の声は、自責と悔しさに揺れていた。


その時だった。


エレンは、そっと彼の両手を取り、自分の頬に当てた。




エレン「あなたの光は、鎧でも紋章でもないわ」




スカーが目を見開く。




エレン「……スカー。あなたが誰かのために剣を振るったとき、


 泣いていた子どもに手を差し伸べたとき、


 私が道に迷ったとき、優しく名前を呼んでくれたとき――」




彼女の瞳は、揺らがない。




エレン「そのすべてが、“あなたという光”なの。


 たとえ何があっても、あなたが光を信じている限り、私も信じているわ。


 あなたが私の夫であることも、ルミナス家の騎士であることも、変わらない」




スカーは、言葉を失ったまま、彼女の手の温もりを感じていた。


どんな光魔法よりも、彼の胸を照らしたのは――彼女の言葉だった。




スカー「……ありがとう、エレン。お前が、俺の光だ」




二人はしばらく言葉もなく寄り添い、


小さな窓から差し込む朝の光が、静かに彼らを包んでいた。




その瞬間、スカーの目に再び力が戻る。


守るべき者がいる。信じてくれる人がいる。




――それなら、何度でも立ち上がれる。




スカーはゆっくり立ち上がり、彼女に微笑みを返した。




スカー「……必ず、奴を止める。俺の手で。そして、この国を、正義で照らす」




エレンは静かに頷き、そっと彼の背に手を添えた。




エレン「ええ、あなたならきっとできるわ。だってあなたは、私の――“英雄”だから」




数日後、王都に衝撃が走った。




「王都南区の診療所にて、“黒涙”による集団中毒が発生。


 現場には、魔法で細工された大量の薬瓶と――ルミナス家の光紋章が落ちていた」




その報せは、あっという間に騎士団内部を駆け巡った。




「光の騎士スカーヴェル卿が“黒涙”に関与している可能性がある……? 馬鹿な!」




スカーの旧友であり騎士団の副団長、ガイル・ベルトンが声を荒げた。


だが、証拠品として提示された“紋章”は確かにルミナス家のもの。さらに現場には、スカーの魔力反応に酷似した痕跡までが記録されていた。




「魔力の痕跡も……? それが本当なら、スカー殿は――」




ガイル「……いや、そんなはずはない!あの人が、そんなことをするはずがない!」




しかし、組織は冷たい。


騎士団長は淡々と命じる。




「スカーヴェル卿を一時、王都外任務から解任し、調査対象とする。出頭を命じよ」




その夜、スカーとエレンは密かに外に出ていた。


彼自身、すでに事態を察知していたのだ。王都の監視網が、明らかに彼の動きを探っている。




スカー「……紋章を使われたか。想定していたつもりだったが……思ったよりも、早かったな」




エレン「スカー、あの紋章……まさか、“あの男”の手に?」




スカーは静かに頷いた。




スカー「ヴァル=クロノス・ドレイガ……騎士でありながら、裏で“黒涙”をばらまいている裏切り者」




エレン「……!」




スカー「奴はきっと、紋章を使って俺を“表の敵”に仕立て上げるつもりだ。


 “正義の騎士が裏で闇に染まっていた”という物語なら、民も騎士団も混乱する。誰もが信じていた光が、裏切ったのだと……」




その言葉に、エレンの目が静かに燃える。




エレン「……なら、私があなたの証になる。


 騎士団があなたを疑うなら、私があなたの“本当の光”だと証明してみせる」




スカーは目を細め、静かにエレンの手を握った。




スカー「ありがとう、エレン。でも、君まで巻き込むわけには――」




エレン「いいえ。もう、巻き込まれてるわ。あなたの妻として。ルミナス家の一員として。


 だから、黙って見ていることなんて、できない」




彼女の瞳に、かつて見たことのない強さが宿っていた。






同時刻、城の地下の隠された実験室。


黒衣をまとうヴァル=クロノス・ドレイガが、手にしたスカーの紋章を眺めていた。




ヴァル「光の紋章が、こんなにも役立つとはな……皮肉だ。


 “正義”という言葉ほど、容易く折れるものはない」




部下の錬金術師が言う。




「これで、王国の“英雄”は、民衆の敵に変わりますな。


 あなた様の“理想の国”への第一歩です」




ヴァル「ああ……“偽りの正義”などいらん。


 俺たちの理想に必要なのは、秩序を維持する“力”だけだ」




ヴァルは、紋章をゆっくりと握り潰した。




ヴァル「お前は、この国の“象徴”だった。だからこそ、価値があるんだよ、スカー」




夜明け前。


薄い霧が森を覆うなか、二人は静かに馬を進めていた。


王都から南東へ一日分、深い樹海の中。誰にも知られていない古びた小屋にたどり着いた。


敵のアジトから逃げ帰った夜、国王がお忍びで来ていた。ヴァル=クロノス・ドレイガにより光の騎士―スカーヴェル・ルミナスを告発するという情報を持って。




レオハルト「……状況的にも覆すことは不可能だろう―。本当にすまない……」




そう言って国王は頭を下げた。そして、潜伏場所としてこの場所を教えてくれたのだった。




スカー「ここなら、しばらくは見つからない。……あの男の目も、まだ届かないだろう」




扉を軋ませて開き、埃を拭いながら中を整えるスカー。


一方で、エレンは寂しそうにその後ろ姿を見つめていた。




エレン「……あなた、本当に一人で行くつもりなの?」




スカーは振り返り、静かに頷いた。




スカー「ここから先は、命のやり取りになる。俺が捕まれば、それこそ“黒涙”をばらまいた裏切り者とてて処刑される。……君まで巻き込むわけにはいかない」




エレン「もう……巻き込まれてるわって、言ったでしょ」




エレンは、わずかに涙をにじませながらも、笑った。




エレン「でも……わかってる。あなたは、“行かなくていい理由”を探す人じゃない。“行くしかない時”に、必ず立ち向かう人だってこと」




スカーの喉が、かすかに震えた。




スカー「……必ず戻る。それまで、ここで待っていてくれ」




エレン「ええ。戻ってくるって、信じてるから。私が信じている限り、あなたの光は――絶対に消えない」




彼女の指先が、スカーの胸元にそっと触れる。


そこには、紋章を失ったままの、騎士の心がある。




スカー「……お前がそう言ってくれる限り、俺は何度でも立ち上がれる」




最後に短く抱きしめ、言葉を交わさず、スカーは馬にまたがった。




そして、振り返らずに走り出す。




霧の中に溶けていくその背中を、エレンは何も言わず見送った。








同時刻 ――ヴァルのアジト・地下坑道


ヴァル「……やはり来るか。彼は、必ず“光の剣”を振るう。それが例え……自らの首に向かう刃でも、な」




ヴァルは、薄暗い地下拠点の玉座のような椅子で笑っていた。


部下が報告を入れる。




「王都での監視網はすでに空白。ルミナスの騎士は、密かに動いています」




ヴァル「よろしい。では、“歓迎の準備”を」




ヴァルの足元、床に彫られた魔法陣がゆっくりと輝き始める。




ヴァル「光を信じる者ほど、闇の餌にしがいがある」




山間の奥地、旧鉱山跡。


かつて魔力鉱石の採掘で栄え、今は封鎖されたはずのその場所に、スカーはひとり辿り着いた。


天候は曇天。風が吹き込む坑道はひどく静かで、まるで人の気配がなかった。




スカー「……ここか。だが――遅かったか」




スカーは注意深く内部を探っていく。


瓦礫の下からは空になった薬瓶、炉の残骸、焼き尽くされた文書の一部。


黒涙の製造設備だった形跡はあるが、すべてが“処理済み”だった。




スカー「証拠は……消されたか。いや、これはあらかじめ“誰かに見られる前提”で処理された跡。つまり――」




そのとき、坑道の入り口から声が響く。




「――“裏切りの騎士”発見! 構えよ!」




スカーは即座に身を翻し、視線を向ける。


坑道の入り口に、王国正規軍の兵たちが整列していた。


旗印は王都本軍直属、第十三部隊。


そしてその先頭に立つのは――




ヴァル「……よく来たな、スカーヴェル・ルミナス」




黒の礼装に身を包んだヴァル=クロノス・ドレイガ。


冷たい笑みを浮かべ、堂々と王家の命令を携えて現れた。




スカー「ヴァル……!」




スカーの声には怒りがこもるが、兵士たちはすでにスカーを“反逆者”と認識している様子だった。




ヴァル「王命により、“黒涙の密造と拡散”、および“王都における毒物テロ”への関与の疑いで、お前を処刑する」




ヴァルの宣言に、スカーは目を見開いた。




スカー「王命……? まさか、王そのものが……!」




ヴァル「誤解するな。これはあくまで“証拠に基づいた正式な命令”だ。現場にあったお前の魔力痕、薬瓶、そして……これだ」




ヴァルは、懐からスカーの光の紋章を取り出す。




ヴァル「これが、“お前がここに関与していた証拠”だとな」




――すべては、最初から仕組まれていた。




スカーが紋章を失ったあの日から。


黒涙がばらまかれ、証拠がねつ造され、アジトが放棄され――


そして今、“証拠を隠滅しようと戻った裏切り者”として、スカーはこの場に立っていた。


騎士たちが剣を抜く音が、坑道に響く。




スカー「待て! 俺は、黒涙など関わっていない。この紋章は、戦いの中で失ったもので――」




ヴァル「言い訳は、あの世でするんだな」




ヴァルの目は冷酷だった。


完全に追い詰めたという確信が、その声ににじんでいた。




スカー「……くっ」




スカーは剣に手をかけながらも、周囲を見渡す。


数で劣る上、ここは地の利を失った坑道。


戦って勝てないわけではない――が、彼が誰かを斬った瞬間、


“裏切り者が王軍に刃を向けた”という動かぬ事実が作られてしまう。




ヴァル「……スカーヴェル・ルミナスを処刑せよ!」




ヴァルの号令とともに、十数名の王国兵が一斉に飛び出す。


スカーはその場から微動だにせず、ただ瞳を閉じた。




(証拠は捏造、王は操られ、仲間の刃が俺に向く。なら――)




目を見開き、叫んだ。




スカー「――ここで終わるわけには、いかない!!」




瞬間、足元に強烈な光の魔法陣が展開される。




「時よ――止まれ。光よ――刻を裂け。


忘却の瞬間に刻まれし閃光の残滓よ、我が陣を駆け抜け、永劫の軌跡を描け!


閃烈陣フラッシュ・アレイ・刻の残光レムナントオブタイム!!」




光の残像で複数の虚像を作り出す、高等魔術。




ヴァル「幻影魔法か!?いや、違う、あれは――!」




炸裂する光に、兵たちは目を潰され、混乱する。


光の帳が破れる刹那、スカー騎士団の包囲網をすり抜け森へと駆け抜ける。




ヴァル「……逃がすな!追えッ!!」




スカーは、山を越え、森を抜けた。


土砂崩れの危険区域を迂回しながら、獣道をたどり、三日三晩をかけて辿り着いたその場所。


それは彼が、エレンをかくまった人里離れた小屋だった。




スカー「……エレン。無事でいてくれ……」




胸に迫る不安を振り切るように、足を速める。




だが――




視界に飛び込んできたのは、黒く焦げ果てた残骸だった。




スカー「……っ!?」




小屋は跡形もなく、崩れ、炭と化していた。


黒煙がまだ微かに立ち上っている。火は、ごく最近消えたばかりのようだった。


スカーは一気に駆け寄り、瓦礫をかき分ける。




スカー「エレン!! エレ――ンッ!!」




焦げた扉の下に、人の形をした焼け跡があった。


その手には、スカーがかつて贈った月光の髪飾りが、焼けながらもなお輝きを失わず残っていた。




スカー「……いや、いやだ……うああああああああああああああああああ!!!!!」




膝をつき、叫びをあげる。握りしめた拳から血が滲み怒りと絶望と、自責と喪失。


そのすべてが胸を貫き、心にどす黒い感情が溢れ出す。


エレンの笑顔。あの日、誓い合った言葉。


その全てを奪った裏切り者に対し――。


今まで信じていた光は陰り、黒く、黒く染まっていく―。

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