高い場所からホールを見下ろしていたヴィルジールが、下に降りてきただけでも驚くべきことだというのに。彼は今、聖女を迎えに来たかのように現れた。
同じ髪色をした見目麗しい二人が目を合わせている光景に、人々の目は釘付けだ。
「……とても素敵なドレスを贈ってくださり、ありがとうございます」
ルーチェは左脚を少しだけ後ろに引き、膝を曲げて優雅にお辞儀してみせた。晩餐会の時よりは進歩しているであろう、最上級の礼を。
「エヴァンよりはいい趣向をしているだろう」
ルーチェは三拍置いたのちに笑った。ヴィルジールはエヴァンが晩餐会のために用意してくれたドレスと比較しているようだ。
好みでないとは言っていたが、だからといってまさかヴィルジールがドレスを贈ってくれるだなんて。
「良いのですか? 私なんかがこのお色を…」
ルーチェは今一度ドレスを眺めた。首から胸上にはレースがあしらわれているこのドレスは、マーメイドのようなデザインで、膝下から広がる裾には小さな銀色の宝石が散りばめられている。
初めて見た時、なんて素敵なのだろうと思わず顔が綻んでしまったほどだ。
「黙って着ていろ。それだけの価値があるということだ」
ヴィルジールはルーチェの手を取ると、ゆったりとした足取りで歩き出した。
「聖女の存在は国にとって価値があるのですか」
オヴリヴィオ帝国の基本的なマナーは学んだが、社交界における異性との歩き方は全く分からない。つられるようにして歩みを進めるルーチェだが、緊張で身体は強張っていた。
せめて空気だけでも和らげねばと思い、口を開いたのだが。
「……そういう意味で言ったわけではない」
選んだ話題がよくなかったのか、ヴィルジールの声色は冷たく低い。
いくつもの視線が自分たちに刺さるのを感じながら、ルーチェはヴィルジールの顔を見上げる。すると、青色の瞳と視線が交わった。
「だが、敢えてその色を衣装を贈り、並んで歩かせているのは、利用しているも同然だな」
ルーチェは首を傾げた。青色のドレスを着たルーチェと歩くことに、どんな意味があるのだろうか。
「私を利用しているのですか?」
「国を救った聖女が俺と並んで歩いているのを見て、娘を妃にと差し出せると思うか?」
ルーチェは何度か瞬きをしているうちに、その言葉の意味を理解した。
周囲にはヴィルジールへ羨望の眼差しを向けている少女がたくさんいる。その隣を狙いに行こうにも、聖女が相手では分が悪いのだろう。
「つまり私は縁談避けなのですね」
ルーチェの推理に、ヴィルジールは笑みとは分からないだろうささやかな表情を浮かべた。
「間違いではない。…許せ」
ヴィルジールに連れ出されたルーチェは、気づけばホールの中央にいた。周囲の人間から見られていることに変わりはないが、手を取り合う男女の姿が多く見られる。
ピン、と弦を弾く音がした。楽団が音の出を確かめているようだ。
状況を理解したルーチェは、足を止めてヴィルジールの腕に絡めていた自分の手を放した。
「許します。その代わりに、私と踊ってくださいませんか」
ヴィルジールの眉が跳ね上がる。
「踊れるのか」
「それは分かりません。ですがせっかく綺麗にして頂いたので、このドレスのためにも踊ってみたいと思ったのです」
ルーチェはその場でくるりと回った。ふわりと靡いた裾から、きらきらと光が発せられる。
ヴィルジールが選んでくれたこのドレスのために、何かしたいと思ったのだ。記憶がないので、自分のことすらよく分かっていないルーチェに出来ることがあるとしたら、彼の縁談避けにも役立つであろうダンスくらいではないか、と。
「……たかがドレスのためにか。まあいいだろう」
ヴィルジールは手を伸ばすと、見つめ合うルーチェにしか分からない、小さな微笑を飾った。
楽団がワルツを奏でると同時に、ルーチェの腰にヴィルジールの手が添えられ、ふわりとドレスが持ち上がる。足の動かし方すら分からないというのに、自然と身体が動くのは、ヴィルジールのエスコートが上手いからなのだろう。
(──きっと、たくさんの方と踊られてきたのね)
慣れたようにステップを踏みながら、ルーチェをリードし続けているヴィルジールは、数多の女性を相手にしてきたに違いない。
見上げると、ヴィルジールの顔が間近に迫っていた。
「新しい部屋は気に入ったか」
「私には勿体ないくらいです」
「何かあれば言うといい。あの老夫婦は気のいい奴らだから」
ヴィルジールは表情を緩めると、強引なリードでルーチェをくるくると回した。曲調的にターンをする場面なのは察したが、ステップの踏み方さえ分からないルーチェは、ヴィルジールにされるがままだ。
四回転目を終えようとした時、ルーチェの片足が一瞬、宙に浮いた。ぐらりと視界が動く。次の瞬間に訪れるであろう衝撃を、息を呑んで覚悟したのだが──。
「っ…!」
ルーチェが転倒することはなかった。身体が傾いた時、すぐさまヴィルジールがルーチェの腰を抱き寄せたからだ。
わあっと周囲から拍手が上がる。今の連続のターンが曲の終わりだったのだろう。
「なんて素敵なの…!」
「皇帝陛下が踊られるなんて!即位以来初めてではないのか?!」
「お似合いなふたりだわ」
ふと聞こえてきた会話に、鼓動が高鳴る。
ヴィルジールは平然とした顔をしていたが、その口の端は引かれ、笑っているようにも…見えた。