風に頬を撫でられる感触で、ルーチェは目を覚ました。
(………ここは?)
見慣れない天井だ。深い青色に、蔦のような模様が白色で描かれている。上半身を起こすと、毛布代わりにと誰かが掛けてくれたらしいコートが、するりと下に落ちた。
(これって……)
ルーチェはコートを拾い、辺りを見回した。
部屋の中央には書類が積み上げられている机があり、その後ろには大きな窓が、壁には本棚が三つ並んでいる。ルーチェが寝ていた大きな長ソファを含めて、室内の家具はこれだけだ。
広く殺風景な部屋だが、青や白の調度品で整えられているこの部屋は、ヴィルジールの仕事部屋だろうか。
「お目覚めになられましたか? ルーチェ様」
いつからそこに居たのか、扉の横にはセルカと離宮の使用人であるイデルが立っていた。ふたりとも温和な笑みを浮かべている。
「……あれ、私…」
ルーチェはコートを見つめながら、記憶を巡らせていった。
今日は正午から書庫を訪れていた。そこでノエルに会い、聖なる光の力を使い方を教えてもらい、その足で中庭に行き──読書をしていた時に、ヴィルジールがやって来たのだ。
(そうだわ…!ヴィルジールさまがお休みに…)
肩を貸せと言ってきたヴィルジールに、ルーチェは応えた。だがそれからの記憶がないということは、おそらく隣で眠ってしまったのだろう。
そして、ヴィルジールがここに運んでくれたのだ。彼のものであろう、清廉なデザインのコートからは、知っている香りがした。
ルーチェが答えを見つけたと分かったのか、セルカが静かに微笑む。
「陛下がこちらに運ばれたのです。先ほど来客があり、仕事に戻られましたが」
「そう…なのですね」
ルーチェはセルカの手を借りてソファから立ち上がった。
イデルが先導するように歩き出し、その後ろについて部屋を出る。だが外に出たところで、一本の糸がピンと張るような感覚がルーチェの足を縫い止めた。
「ルーチェ様?」
イデルが心配そうに声を掛けてきたが、ルーチェは返事をせずに後ろを振り返った。
今はまだ、そこにはいない。だが、そこに現れるという確信がある。
「……ヴィルジールさま?」
突然足を止めるなり逆側を向いたルーチェを見て、迎えにきてくれたセルカとイデルは不思議に思ったことだろう。
「ルーチェ様、陛下がどうかなさったのですか?」
セルカがいつもの調子で問いかけ、ルーチェの前に回ってくる。
「……ごめんなさい」
ルーチェはひと言だけ吐いて、床から足を剥がして駆け出した。
花も飾りも窓すらもない長い廊下をひた走る。息が切れ、途方もなく遠く感じるその道のりの途中で、鼓動ばかりが速くなっていった。
切れる息、激しく高鳴る胸に気付かぬふりをして、必死で廊下を走る。やっとの思いで角を曲がると、目の前には初めて見る男性に支えられるようにして歩くヴィルジールがいた。
「ヴィルジール様っ…!」
ルーチェは転がるように駆け寄り、ヴィルジールの顔を見上げた。
ただでさえ白い顔が、正気を失ったように蒼白だ。唇の色も悪く、何かを訴えているのか、或いは寒いのか──小刻みに震えている。
「……貴方が聖女様ですか?」
ヴィルジールを支えている男性が、ルーチェを見て大きく目を見開く。その瞳の色はヴィルジールのものよりも薄いが、曇り一つない晴れ空のように澄んでいる。
初めて見る顔だが、ヴィルジールが肩を預けているくらいだ。エヴァンのように、気の許せる相手なのだろう。
ルーチェはただ一言、ルーチェと申しますとだけ短い挨拶をし、二人の後を追った。
来た道を少しだけ戻り、ひっそりと佇む階段を上る。ヴィルジールの私室はさらに上の階にあるらしく、介助をしている男性は「自動昇降機があったらいいのに」と呟いていた。
私室に到着すると、ヴィルジールはベッドに寝かされた。先ほどの男性が医者を呼びに部屋を出て行くと、室内にふたりきりになった。
ベッドの上で仰向けに寝転ぶヴィルジールは、苦しげに呼吸をしている。そっと額に触れてみたが、熱はなさそうだ。
ルーチェは部屋の隅にあった椅子を拝借し、ヴィルジールの傍に座った。そして、右手を握る。
「………ルーチェ?」
薄らと開かれた目は潤んでいた。視界が定まっていないのか、ぼんやりと遠くを見ているようだ。
ルーチェは安心させるように微笑んでから、両手で包むようにして握ったヴィルジールの右手に、自分の額を当てた。
(──触れて、想って。そして、光を求める)
今のルーチェに、出来るかは分からない。だけど、奇跡を起こした日のことを思い出しながら、ノエルから教わったことを守れば、出来る気がした。
聖なる光の力。それは魔力のないルーチェでも出来るという。その力で、ヴィルジールを癒すことができたのなら。
ルーチェは瞼を下ろし、胸の内で願い事を告げながら、祈りを捧げた。
(ヴィルジールさまの痛みが和らぎますように。今夜はゆっくりと、眠れますように)
ノエルがあたたかくて優しい気持ちをくれたように、ルーチェも伝えたいのだ。泣きたくなるような、あの優しい光を。
──どれくらいの間、そうしていたのか。
扉が閉まる音がしたので目を開けると、ヴィルジールは穏やかな顔で眠っていた。