目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第49話


「ルーチェ様。たまには城下に行ってみませんか」


 朝食後。日課となっている散歩で中庭を歩いていると、セルカがルーチェに提案をした。今日は城下町で花市が催されているから、たまには出掛けないか、と。


 花市とは、ヴィルジールが始めた催しだ。月に一度開かれているその市場では、誰でもどんなものでも売ることができるという。


「またいつか行きたいと思っていたので、是非行きたいです」


「では支度をしに、一度お部屋に戻りましょうか」


 ルーチェが笑って頷くと、セルカが先導するように歩き出した。


 離宮であるソレイユ宮が半壊してから、ルーチェは城の中心部である居館の一室に移り住んだ。新しい部屋はヴィルジールの私室と同じ階にあり、目と鼻の先である。


 居候同然であるルーチェが、皇帝であるヴィルジールの近くに住むことをよく思わない人がいるのではという話をしたが、彼は首を横に振った。


 顔を見たいと思った時に、すぐに行ける場所に居てほしい、と。そう面と向かって言われてしまったのだ。


 中庭を抜け、まだ見慣れない居館の入り口を潜ると、セルカがぴたりと足を止めた。


「セルカさん?」


 何かを踏んでしまったのか、或いは何かを見つけたのか。

 ルーチェが前に回ってセルカの顔を覗き込もうとしたその時、前方から一人の男性がこちらへと向かってきているのが見えた。


「セルカさん。あの方は?」


 密やかな声で尋ねたルーチェに、セルカは静かに告げる。


「──アゼフ・セントローズ公爵様です」


 どこかで聞いたことのある名に、ルーチェは記憶を巡らせた。


 セントローズという名を聞いたのは、つい最近のことだ。イージスの聖女を名乗っていたレイチェルという少女を連れてきたのが、目の先にいる男──セントローズ公爵だと、ヴィルジールが言っていた。


 レイチェルとはいつ、どこで会ったのか。彼女のことをどれくらい知っているのか。そうエヴァンが問いただしたそうだが、彼──アゼフは黙秘していたそうだ。


「──お初にお目にかかりますな。聖女様」


 アゼフは穏やかな笑顔を浮かべながら、ルーチェへ深々と頭を下げた。


「初めまして、セントローズ公爵様」


 ルーチェは努めて微笑みながら、淑女の礼で返した。


 アゼフはルーチェを上から下まで眺めると、距離を詰めるように歩み寄ってきた。それを見たセルカが一歩前に進み出て、それ以上ルーチェに近づかないよう牽制を図ろうとしていたが、アゼフには効かなかった。


「侍女は下がってくれないかね」


「しかし、陛下の許可なく聖女様に人を近づけるわけにはいきません」


「何を言う。私はその陛下の兄弟を産んだ妃の父親だ。まあ、その子らは陛下に殺されてしまったがね」


 アゼフは目を皿のようにして笑いながらそう語ると、セルカの肩をそっと押した。


 公爵が相手では逆らえないのか、或いは相手がセントローズ公爵だからなのか、セルカは押し黙った。心配そうにルーチェを見遣りながら、いつもの定位置であるルーチェの斜め後ろに下がっていく。


 セルカが下がると、アゼフは満足げに微笑みながら顎の髭を撫で始めた。


「聖女様はご存知でしたかな。今の話を」


「……いいえ」


「そうとは知らず、申し訳なかったですな。陛下ではなく、私の口から聞かせてしまい」


 ふぉふぉ、とアゼフはわざとらしく笑った。

 その取ってつけたような笑みといやらしい口調に、ルーチェの中で沸々と何かが湧き上がっていく。


(……何なのかしら、この人は)


 ルーチェは一歩後ろに下がり、アゼフと距離を取ろうとした。だがアゼフはルーチェが下がった分だけ距離を詰めてきた。さすがのセルカも黙ってはいられなかったようで、公爵様、と声を上げていたが、アゼフがじろりと睨めつけた。


 アゼフはルーチェを見つめながら、にいっと口を開いた。


「聖女様は、あの男の妃になるおつもりですかな?」


 あの男とは、今の話からすると皇帝であるヴィルジールのことだろうか。


 思わず息を呑んだルーチェを見て、アゼフは目元の皺を増やした。


「あの男は、何の罪も犯していない我が娘と孫らを殺しました。そして王族を皆殺しにし、玉座についた」


 きっとご存知なかったでしょう、とアゼフは小馬鹿にするように嗤う。悪意しか感じられないことを一方的に聞かされたルーチェは、込み上がってくるものを堪えながら、きゅっと唇を引き結んだ。


 ずっと、不思議に思っていた。どうしてヴィルジールが氷帝と呼ばれているのかを。


 冷酷で無慈悲だ、逆らったら氷漬けにされるなどという噂話を耳にしてはいたが、少なくともルーチェの知るヴィルジールは決して無慈悲な人間ではない。


 彼は全てを失ったルーチェに、新しい名前を贈ってくれた。ここに居ていいのだと居場所を与えてくれて、この国の景色も見せてくれて、聞いたことには必ず答えをくれた人だ。


 手は温かく、優しく、大きく。美しい青色の瞳は、真っ直ぐにルーチェを見つめ返してくれた。


 表情や声音のせいで、冷たく見えてしまうけれど──それはきっと、不器用なだけで。


 ルーチェの知るヴィルジールという人間は、不器用であたたかい人なのだ。


 たとえその過去に、凍りつくような出来事があったとしても。ルーチェも彼も、今を生きている。見つめる先は過去ではなく、明日であり未来だ。


 ルーチェは凛と背筋を伸ばし、アゼフを見つめ返した。


「妃となることを望んだことなど、一度もありません。私は手を差し伸べてくださった陛下に、いつか御恩をお返しすることができたら…と、ただ、そう思っています」


「貴女様がそう考えていても、あの男は違うと思いますがね」


 アゼフは意味ありげに笑う。さらに言葉を続けようとしているようだったが、何かに気づいたのか、咳払いをして距離を取った。


 彼の視線の先は、ルーチェの後ろだ。誰が来たのだろうと振り返ると、青い騎士服を着たアスランが向かって来ていた。


「これはこれは、セントローズ公爵。聖女様に何用で?」


「私はただご挨拶をしていただけです。聖女様は我が国の皇帝陛下の御命を救った方ですからな」


「ほう? それにしては距離が近いように見えましたが」


 アゼフはわざとらしく咳払いをすると、何事もなかったかのような顔でルーチェの横を通り過ぎていった。


 思わずその姿を目で追っていたルーチェの右手は、ぎゅっと握りしめているにも関わらず震えていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?