1.
ある平日の昼下がりのこと、妻のしのぶが交通事故にあって救急車で搬送されたと聞き、笹倉高範は病院に駆けつけた。入口の自動ドアが開いたところで、娘の美和に腕をつかまれた。
「お父さん、ちょっと話があるの」と美和。高校の制服を着ている。学校から直接来たのだろう。
「お母さんはどこにいる!」と高範。「怪我の具合は!」
「慌てないで、お父さん」と美和。「お母さんなら問題ないわ。」
「会ったのか?」と高範。
「ええ、ちょっとショックを受けてるだけよ」と美和。「それより、お父さんに話があるの。」
「何だ?こんな時に」と高範。
美和は高範を待合ロビーの椅子に座らせた。「大事な話があるの」と美和。
美和は高校生の女子としては身長が高かった。美和は座った高範の前に立って見下ろしている。
最近、美和は急に大人びて、少しよそよそしいと高範は感じる。
「私って、お父さんの何?」と美和。
「何って、娘だよ」と高範。
「どんな娘?」と美和。
「大事な娘だ」と高範。「目に入れても痛くない。」
「本当に?」と美和。
「もちろんだ」と高範。「何を疑ってるんだ。」
「私のこと、好き?」と美和。
「もちろん大好きだよ」と高範。
「お母さんや佳代と比べて、どっちが好き?」と美和。
「みんな好きだよ」と高範。「比べることなんてできない。」
「そう」と美和は冷たく言った。一呼吸おいて「じゃあ約束して。私を捨てないって。」
「お前を捨てるわけないじゃないか!」と高範。「何を言ってるんだ。」
「じゃあ、ちゃんと約束して」と美和。「何があっても捨てないって。」
「ああ、約束するよ」と高範。
「ちゃんと言って」と美和。
「何があっても美和のことを捨てない」と高範。
「ずっとよ。一生よ」と美和。
「ああ、もちろんだ」と高範。
「ならいいわ。お母さんの所に連れてってあげるから、手をつないで」と美和。
「ああ、わかった」と高範は美和の手を握った。
「手を離さないで」と美和。
「ああ、わかった」と高範。
「私がいいっていうまで、絶対に手を離さないで」と美和。
「わかったと言ってるだろう」と高範。
2.
高範は美和に連れられて病室に入った。妻のベッドの前には義理の両親が深刻な顔をして立っており、さらにその横には車いすに乗った若い男と中年の男がいた。若い男は首にコルセットをつけていた。
「こんにちは。お久しぶりです」と高範は義理の両親に挨拶をした。妻のしのぶは寝ているようだった。
「しのぶはショックを受けているようだから、しばらく眠らせてもらっている」と普段はぞんざいな義理の父親の高木辰夫が丁寧に言った。
「怪我の具合はどうなのでしょうか」と高範。
「大腿骨と胸骨の骨折と軽い脳震盪、むち打ち、それから数か所に打撲がある。頭部の精密検査はもう済ませた」と辰夫。「障害が残るような怪我ではないそうだ。」
「それは良かったです」と高範。
「それで、少し事故を起こした時の状況を説明しなくてはならないのだが」と辰夫。
美和が高範の左手を両手でぎゅっと握った。
「しのぶはここにいる村田勝也という青年の車の助手席に乗っていて事故にあった。場所は市街地の北にある月見台交差点、つまりラブホテル前のT字路だ」と辰夫。「彼の車が交差点に出たところで直進車と接触したそうだ。」
高範はしばらく呆然としていた。
「大変申し訳ない」と辰夫は高範に頭を下げた。
車いすに乗った青年の後ろにいた男が深く頭を下げた。「村田勝也の父で、勝則と申します」と言って高範に名刺を渡した。この病院の院長だった。勝也は医学部の学生で、しのぶとはインターネットで知り合ったと説明した。
誠意をもって謝罪をするから、法的な問題にはしないで欲しいと言った。
義理の両親と大学生の父親に頭を下げられて少し間があった。当の大学生は、コルセットで首を固定されたまま、気まずそうに視線をそらしていた。
「私は妻さえ元気に戻って来てくれればそれで十分です」と高範。
「妻を許してくれるということですか?」と辰夫。
「ええ」と高範。
「ありがとう!」といって、高範の手を取った。「こんな娘で申し訳ない。」
「しのぶは、少し尻が軽いことを除けば良い妻です」と高範。「ただ心配なのは、私のことが嫌いになって他の男に走ったのではないか、ということですが。」
「そんなことは絶対にない」と辰夫。「君のような立派な夫を嫌うはずがない。私が保証する、しのぶは一時の気の迷いで若い男に近づいただけだ。だからどうか許してやってくれ。」
「ちゃんと治療して妻を元通りに返してくれれば、訴えたりしません」と高範。
院長と息子は病室を出て行った。
高範は美和と手をつないだままだった。高範はベッドの上のしのぶに近づいて、空いている右手でしのぶの手を握った。「早く良くなるんだ。待ってるから」と高範は耳元でささやいた。
美和が続いてしのぶの耳元でささやいた。「タヌキ寝入り、ばれてるよ、お母さん。」
3.
高範は美和を伴って病院を出て、屋外の駐車場で車に乗った。美和は助手席に座った。病院の帰りに小学校に立ち寄って、もう一人の娘の佳代を拾って帰宅した。
高範が食事の準備をしている間に、美和が佳代を風呂に入れた。
「わたし、お父さんが作ったご飯の方が好き」と美和。
「わたしも!」と佳代。「ハンバーグ大好き!」
「お母さんのご飯だっておいしいだろ」と高範。
4.
ベッドで寝ていた高範は体を揺すられて目を覚ました。「お父さん、お父さん、」と耳元で美和の声がする。
「何だ、もう朝か?」と高範。
「お父さん、話があるの」と美和。
「明日じゃダメなのか?」と高範。
「大事な話なの」と美和。
「病院でした話なら、心配しなくていいよ」と高範。
「違うわ」と美和。「わたし、気が変わったの。」
「どういうことだ?」と高範。
「わたし、お父さんの女にしてもらうことにしたわ」と美和は言いながら、高範が寝る寝具の中にもぐりこんだ。
「冗談でもそんなことを言っちゃだめだ!」と高範。
「冗談でこんなこと言わないわ」と美和は高範の目を見た。
「わたし、このままじゃ捨てられるって気がついたの」と美和。「そう思ったら、いてもたってもいられなくなったの。」
「可愛い娘を捨てるわけがないじゃないか」と高範。
「わたしにはそう思えないわ」と美和。
「娘を捨てるなんてできるわけないだろ」と高範。
「私はお父さんの娘じゃないわ」と美和。「お母さんから聞いたわ。できちゃった婚は嘘だって。お父さんもそのことを知っててお母さんと結婚したんだって。」
「どこでそんな話を……」と高範。
「だからお母さんから聞いたって言ってるでしょ。脅して問い詰めたの。前から怪しいと思ってたから」と美和。
「何が怪しいんだ!」と高範。
「お父さんは不自然に優しいの。お母さんはわたしに少しだけよそよそしいのよ。佳代と比べて」と美和。「だから聞いたの。どんな理由があるのか。」
「だからってそんな話をしないはずだ」と高範。
「隠せないわ。いつかはばれることだから」と美和。
「それは馬鹿げた思い込みだ……」と高範。
「わたし、浮気の現場を偶然押さえたの」と美和。「先月体調が悪くなって学校を早退したの。帰ってきたら、お母さん、ここでやってたわ。その後問い詰めたら、ペラペラしゃべったわ。お母さんは尻だけじゃなくて、口も軽いのよ。知ってるでしょ。」
「そうだったな」と高範。
「本当の父親の名前も聞いたわ。山本幸一っていう人だって。お父さんも知ってる人なんでしょ」と美和。
「ああ、その通りだ」と高範。「だがお前が私の娘であることも本当のことだ。」
「知ってるわ」と美和。「だけどこれからもずっとそうだという保証がないわ。」
「約束しただろう。病院で」と高範。
「女がそんな口約束を信じると思う?」と美和。
「父親を信じられないのか?」と高範。
「離婚したら、私の親権はどうなるの?」と美和。
「それは……」と高範。「お父さんはお前の親権を手放したりしない。」
「お父さんに決められることじゃないわ」と美和。「それからわたし、もう一つ気がついたことがあるの。」
「なんだ?」と高範。
「わたし、お父さんのことが大好きだって」と美和。「わたし、お父さんがいなくなったら生きていけないわ。」
「そんな大げさな」と高範。
「やっぱりお父さんは私のことがわかってないわ」と美和。「お父さんと佳代がいなくなったら、あのバカであばずれなお母さんと二人きりで生活することになるのよ。それどころか、お母さんの間男と住むかもしれないのよ。わたし、耐えられないわ。」
「そんなことは絶対させない」と高範。
「そんな気休め、聞かないわ!」と美和。「それに、一番腹が立つのは、お父さんが私のことを信用してないことよ。」
「何を言うんだ。信用してるよ」と高範。
「いいえ、信用してないわ」と美和。「私がお父さんのことを好きだと言っても信じてないわ。」
「何を言う。信じている。本当だ!」と高範。
「じゃあキスして」と美和。「このベッドでお母さんにするようなキスをして。」
「何を言うんだ」と高範。「信じるって、そんなことじゃあ……。」
「そういうことよ!私が言ってるのは」と美和。「わたしは、お父さんを愛してるって告白してるのよ!」
「間違ってる」と高範。
「間違ってないわ」と美和。「私のことを信用してて、愛してるならここでキスして!」
「そんな無茶な」と高範。
「無茶じゃないわ」と美和。「お父さん、ときどき私の体をちら見してるのを知ってるもの。」
「かわいい娘を見て何が悪い」と高範。
「堂々と見て!」と美和。「女として見て!」
「そんな……」と高範。
「わたし、お父さんの娘でなくなったら、生きていけないわ」と美和。「自暴自棄になって家出して、それから自殺するわ。」
「お前は何があってもお父さんの娘だ」と高範。
「わたし、お父さんのことそれほど信頼してないの」と美和。
「なぜだ!」と高範。
「ふらっと家出するって聞いたわ」と美和。「理由もなく。突然に。」
「それは子供の頃のことだ」と高範。
「そうかしら」と美和。「本当は誰も好きじゃないんでしょ。お父さんは。だからある日耐えられなくなって出ていくのよ。」
「今はそんなことはない」と高範。「お前のことも佳代のこともお母さんのことも大好きだ。」
「わたし、お父さんの気持ちがわかるの」と美和。「今は大丈夫でも、突然気が変わって何もいらなくなるんでしょ。」
「大の大人が家出などしない」と高範。
「気休めは聞かないって言ってるでしょ。そんな建前の話をしてるんじゃないのよ」と美和。「わたし、お父さんの娘でなくなっても、お父さんの女だって思えるなら生きていけるって言いたいの。」
「そんなことは間違ってる。無理なんだよ」と高範。「なぜわかってくれないんだ。」
「それはこっちのセリフよ。お父さんは話をごまかすのが下手ね」と美和。「聞いてくれないなら、お母さんの浮気のこと、他の人に喋っちゃうから。佳代が聞いたらなんて言うかしら。」
「美和、頼むからそういう冗談はよしてくれ」と高範。
「もう、いい加減あきらめて」と美和。「お父さんは私のことを信頼してるし、愛してるんでしょ。」
「そうだ」と高範。
「じゃあキスをして」と美和。
「わかった。キスしたら自分の部屋に戻るんだぞ」と高範。
「硬くなってるわよ、お父さん」と美和。
5.
高範は目を覚ますと、美和はすでに身支度をしていた。
「お父さん、おはよう」と美和。
「おはよう」と高範。「美和、よかったのか?」
「とってもよかったわ」と美和。
「そうじゃなくて……」と高範。
「わたし幸せな気分なの」と美和。
「お母さんが帰ってきたらどうするつもりなんだ?」と高範。
「お母さんには知られないようにするわ」と美和。「だから心配しないで。」
「佳代だって気がつくよ」と高範。
「大丈夫よ」と美和。「佳代は朝が遅いから。それよりも、朝ごはんを用意するから起きてきて。」
高範が顔を洗ってダイニングルームに入ると、美和が朝食の準備をしていた。
「わたし、心に誓ったことがあるの」と美和。
「何を?」と高範。もう何を聞いても驚かない。
「お父さんと結婚するの」と美和。
「お父さんはお母さんと結婚しているよ」と高範。
「私が結婚できる年になったら、お父さんはお母さんと離婚して、私と結婚するのよ」と美和。
「お父さんはそんなことしないよ」と高範。
「するわ」と美和。「わたしがさせてあげる。お父さんは何も心配しなくていいわ。」
「お母さんはどうなるんだ。かわいそうだろ」と高範。
「お母さんは離婚したがってるわ。他に相手ができれば、遅かれ早かれ出ていくわよ」と美和。「でもわたしはお父さんと離れたくないから、今は離婚させない。」
「そんな無茶な」と高範は唖然とした表情をした。
「もう私はお父さんの女で、お父さんは私のものよ」と美和。
佳代がリビングに入ってきた。「おはよう、お父さん、美和姉さん。」
三人が朝食を食べ終わると美和が食器を片付けた。
高範がぼんやりとコーヒーを啜っていると、「わたし、制服に着替えてくるから」と言って美和はダイニングルームを出て行った。
佳代が高範の前まで来て、「抱っこして」と言って両手を上にあげた。
「いいよ」と言って佳代を抱き上げた。佳代は高範の首を両手で強く抱きかかえた。
佳代は高範の耳元で「お父さんは、お母さんでも美和姉さんでも、好きなほうを選んだらいいのよ。わたしはお父さんについていくから。それから、これだけは覚えておいて。本当にお父さんのことを愛しているのは私だけだよ」とささやいた。