裾野から踏み込んだ場所は木々が茂って最早、森だ。
道路から逸れて少し入っただけなのに、あっという間に現実離れした空間になった。
「雰囲気、出て来たなぁ」
周囲をきょろきょろしながら、陽介が潤の服を掴む。
「あんま、掴むなよ。あぶねぇ」
周囲には不自然に木を切り倒した後や、斬り倒そうとした跡がある。
無理やりに切り開いたんだろう道が出来ているお陰で、何となく進める。
「あ……」
潤の後ろから前を覗いた陽介が足を止めた。
引っ張られて、潤も止まる。
「どした?」
「いや、なんか、通った気がして」
周囲を見回すが、何もいない。
「そういうの、やめれ。俺も怖くなる」
こういう場所で二人とも怯えるのは危険だ。
「黒いモヤっとした、霧みたいのが、通った気がした」
陽介が目を、ごしごし擦る。
ちょっと怖くなって、潤は深呼吸した。
「行く? やめる?」
「行く!」
とりあえず合意を取って進む。
ほどなくして、やけに太い杉の木が現れた。
「立派だなぁ。久伊豆神社の千年杉みたいだ」
呆気に取られて上を見上げる潤とは真逆に、陽介が足下を見詰めた。
「なぁ、潤。これかな、例の祠」
声に釣られて、潤も下に視線を降ろした。
杉の根元に、小さな祠が経っていた。
何かが掘られていたのであろう表面は風化して、文字は読み取れない。
「もっと大きいの、想像したけど。小振りだな。文字、読めねぇかな」
屋根のような形をした部分が大きく欠けて、上から覗き込んだら中が見えそうだ。
潤は木に手を付くと、身を乗り出して中を覗こうとした。
その背中を、陽介が思いっきり引っ張った。
「ダメだ! 覗くな!」
潤は思わず動きを止めた。
普段の陽介からは想像もできないくらい、切迫した声で驚いた。
「どうしたんだよ、急に」
「あ、いや……悪ぃ。でも、ダメな気がする。もし、この場に直桜がいたら、きっとダメっていう」
よくわからなくて、首を傾げた。
「何故に、瀬田?」
「それもよくわかんねぇけど、そんな気がする」
振り返った陽介の顔が、引き攣っている。
よくわからないが、陽介的には何かがダメらしい。
(こんだけダメっていうんだから、なんかあんだろ)
自分には霊感などないから、わからないが。
もしかしたら陽介には、そういう感覚があるのかもしれない。
潤は仕方なく、体を引いた。
動いた拍子に、足が祠にあたった。
弾みで、祠の上に被っていた石が落ちた。
「あ、やべ」
「ひっ……」
陽介が大袈裟な声を出した。
さっきから陽介が異常に怯えるので、潤までびくびくしてくる。
(流石に蹴るのはヤバいよな。戻して、手でも合わせとくか)
そう思って、落ちた石を拾い上げて戻そうとした。
「潤、近づくな!」
陽介の声が聴こえた時には、遅かった。
偶然に覗き込んでしまった祠の中、真っ暗闇に浮かぶ目と、目が合った。
「っ……」
言葉を発そうにも、声すら出ない。
『にんげん、みぃ~つけた~』
暗闇の中の目が、ニヤリと笑んだ。
瞬間、白い手が伸びて来た。
足の力が抜けて、潤はの側に座り込んだ。
(なんだ、なんなんだ。確かに、何かいた。目が合った)
腕が伸びたのも、見えた。
なのに今は、何もない。
「ぁっ!」
小さな悲鳴より早く、祠の中から、黒い霧のような何かが飛び出した。
黒い霧は、陽介の顔と頭に絡まった。
「陽介、陽介!」
慌てて陽介に駆け寄る。
「ぁ……、ぁ……、俺、ここで、死ぬ……」
目がぼんやりして力を失っている。
フラフラしながら、陽介が木に頭を打ち付け始めた。
「待てって、何やってんだよ、やめろ!」
陽介を木から引き剥がす。
体が力なく倒れ込んだ。
「俺が死ねないなら、お前が死ねよ」
寝転がった陽介の腕が伸びて来て、潤の首を絞めた。
(目が、イッちゃってる。正気じゃない。なんで、何で急に)
潤は祠を見詰めた。
「あの中にいた奴に、憑りつかれたのか?」
にわかに信じ難いが、陽介の様子は明らかに変だ。
潤の首を絞めながら、陽介が笑んだ。
「この人間は、あんまり陰気が溜まってないなぁ。お前の方が美味そうだ」
背筋に冷たいものが流れた。
直感的に思った。
この怨霊は自分に憑こうとしている。
「いやだ、やめろ!」
陽介の手を必死に振り払う。
夢中で腕を動かしていたら、首からぶら下げているカメラのシャッターをいつの間にか押していた。
カシャ……。
乾いたシャッター音が響いたと同時に、陽介の頭と顔に纏わりついていた黒いモヤがカメラに吸い込まれた。
「ぁ……ん……」
ぼんやり目を開けていた陽介が、目を瞑って意識を失った。
「……え? 何が、起きたんだ? 陽介? 陽介!」
陽介の肩を揺らす。
起きる気配がない。
潤は首に下げたカメラを見詰めた。
(まさか、あの黒いモヤが俺のカメラに吸い込まれたのか? この中に封印された?)
恐る恐る、カメラを手に取る。
震える手でファインダーを覗き込んだ。
「ひっ……」
真っ黒な空間の中に浮かんでいた目と同じ目が、ファインダーの中で潤を見詰めていた。
恐ろしくてカメラを降ろしたいのに、降ろせない。
腕が一ミリも動かない。
『美味そうな人間。楽しそうな人間が羨ましくて仕方ない。生気が羨ましいんだ。そうだろう?』
潤を見詰める目が話しかけてくる。
(羨ましくなんか……。俺は、ただ、一人で楽にしてたい、だけで)
『本当に? じゃぁ、目の前にいる、陽介は? いつも楽しそうで、羨ましい。コイツには悩みなんかないんだろう。自分みたいに、深く考えたりしないんだ、馬鹿だから』
(そんな風に、思ってない。ただ、考えが、浅いって、おもう、だけで)
『そう、浅いんだよ。世の中は馬鹿の方が楽しい。お前のように深く考えと疲れる。なのに馬鹿のほうが得をする。理不尽だ』
(理不尽か、そうだな。俺の方がずっと夏川さんを好きなのに。何とも思ってない陽介は飲みに行ったり話したり。狡いよな)
『狡い奴らからは、奪えばいい。このカメラで人間を撮って、生気を集めよう。そうすればお前は今より得ができる。馬鹿より思慮深い人間が、得する世界だ』
(生気を奪ったら、得できる? 夏川さんと恋人に、なれるかな)
『ああ、なれるさ。夏川という娘を、写真に映せ』
(わかった。じゃぁ、まずは、陽介を撮ろう)
潤は抵抗なくカメラを構えた。
「お前は生気が有り余っているから、少しくらい貰っても、いいよな」
倒れている陽介に向かい、カメラを構える。
移り込んだ陽介を確認して、シャッターを押した。
陽介の体がカメラに吸い込まれて、その場から消えた。
「なんだ、これ。陽介を写真に収めただけで、こんなに幸せな気持ちになれるんだ」
得も言われぬ高揚感が、胸の内に沸き上がった。
知らなかった幸福に満たされて、潤は恍惚な気持ちに酔った。
「もっと、たくさん撮ろう。もっと撮って、もっと幸せになろう」
ゆっくり立ち上がると、潤は山を出た。