「塚元! いるか?」
聞き覚えのある声だ。
塚元潤と同じ学部の、瀬田直桜とかいう男だ。
直桜が校舎裏に走ってくる。
『ひっ……、いやだ、ダメだ。あれには近付くな。消される。浄化される』
楓の時より怯えた声が脳に響いた。
明らかに自分の声ではない、別の何かだ。
「……瀬田、瀬田!」
叫ばなければいけないと思った。
今、見付けてもらえなければ、きっと自分はカメラと幸福感に喰われて死ぬのだと。
楓が刺していった針のせいで、身動きが取れない。
そのお陰で自分の中の何かも動けないでいるようだった。
体も心も怯えているのに、直桜の声に安堵した。
「良かった、無事か。……この針、……楓?」
潤を見付けた直桜が、潤とカメラを見詰めた。
何度も首を動かして頷いた。
「どの辺りから、記憶がない? もしくは、どこから変だと感じた?」
直桜の問いかけは、曖昧なのに的確だった。
「三日前に、裏山の祠に、陽介と、写真を撮りに……。うっかり祠を崩して、何かと目が合って……」
考え始めたら、頭の中が白んだ。
「何かが、カメラに入って。写真を撮ったら幸せで、美味くて、満福で。夏川さんとも一つになろうと、して……」
頭がぐらぐらして、眩暈がする。
直桜の手が、肩に触れた。
「上出来。よく覚えてる。まだ自我があるね」
「ぁ……」
温かな直桜の手が触れた場所から、重たい何かが剥がれていくような気がした。
直桜がカメラに手を載せた。
「この程度の邪魅なら、俺が触れただけで浄化される。すぐに楽になるよ」
カメラから、白くて丸いフワフワしたモノが浮きだした。
「あれ、なに……?」
「邪魅に憑かれた塚元が食った魂。あのまま人間を食い続けていたら、次に祠に封印されるのは、お前だったよ」
「なんで、おれ……?」
「怨霊になった邪魅がお前の体を乗っ取って、お前の魂を祠に収めれば、邪魅は自由になれる。で、お前が次の邪魅になる。邪魅って、そういう存在だ」
直桜の説明は、しっくりきた。
納得できたが、寒気がした。
あの時、祠の中で目が合ったアレが邪魅だった。
(俺、憑りつかれていたんだ)
「俺が、次の、邪魅に、なってたら、人を喰った、のか?」
「あのままならね」
人を写真に撮って感じた幸福感も、満腹感も、幸せも全部、邪魅のせいだった。
「俺、ただ、幸せで。人、喰って幸せに、なってたのか」
「それ全部、邪魅のせいだから。塚元がなんとか自我を保ってくれていたから、邪魅はカメラに収まった魂を消化できなかったんだろ。頑張ったじゃん」
直桜が触れている場所から、黒いモヤが剥がれていく。
剥がれた黒いモヤが、直桜が発する気に触れて塵になって消えた。
直桜の体からは確かに神々しい気が流れ出ていて、それが神力なのだと感覚で理解できた。
「お前って、何者?」
「
あまりにもさらりと話すから、するりと脳に沁みた。
そんなファンタジーみたいな生物が、こんなに身近にいたなんて思わなかった。
(邪魅にとりつかれた俺も、ホラーか)
「陽介、大丈夫かな。ごめん、瀬田。陽介は、瀬田の友達なのに」
「塚元の友達でもあるだろ。どちらにせよ、一人で行かなくて、良かったよ」
フワフワ飛んでいく魂が、どこに行くのかわからない。
写真を撮った場所に戻っていくのだろうか。
「瀬田、祠、壊れたままなんだ」
急に、あの場所が気になった。
もう邪魅はいないのかもしれないが、また自分と同じような目に遭う人間がいたら、大変だ。
「塚元に憑いた邪魅も、祠も、俺が全部、浄化しとく。心配ないよ」
「そっか」
神様が大丈夫だというのだから、大丈夫なんだろう。
潤は自分のカメラを、そっと撫でだ。
(俺の唯一の趣味で、人を殺すとこだったんだな)
「瀬田、ありがとな。俺、人殺しになるとこだった」
「塚元が殺したんじゃないだろ。普通の人間は邪魅に魅入られたら逃げらんないよ。塚元も被害者だ」
カメラを撫でる潤の手を、直桜が握った。
「カメラ、嫌いになるなよな。お前が撮る写真、俺は好きだからさ」
「また、撮ってもいいかな」
「良いに決まってんだろ。大丈夫なカメラに、俺がしとく」
直桜の手から温かな光が溢れた。カメラが光に包まれる。
強くて優しい神力が、潤の中にまで流れ込んでくる。
(瀬田の力、温かい。カメラは俺の一部だったんだ)
ただの暇潰し、適当な趣味でしかない。
そう思っていたけれど。
自分が思っていた以上に、レンズは自分の眼で、ファインダーに映る景色が好きだったと、気が付いた。
安心したら瞼が重くなってきた。
「そんで悪いんだけどさ、今回の件は全部、忘れろ。陽介にも俺の正体、話してないんだ」
そうなんだろうと思った。
だから直桜は人と距離をとって、一定以上に近付かない。
人でありながら人でない、人を救う存在なんだろう。
「わかった、忘れる。ありがと、瀬田。今回のこと、忘れても……、起きたら、今より仲良く、し、たい」
崩れそうな体を直桜が支えてくれた。
「陽介の友達だから、塚元とも友達だよ」
その言葉に安堵して、潤は目を閉じた。
温かい神力は、カメラを通して体中に満たされた。
目が覚めたら、保健室のベッドの上だった。
思わず飛び起きて、周囲を見回す。
「あ、起きたか、潤。おはよ」
カーテンが開いて、陽介が顔を見せた。
隣のベッドで順と同じように寝ている。
「なんで、保健室? 俺ら、どうしたんだ?」
「どうもこうもねぇよ。裏山の祠、見に行っただろ? 山で足滑らせて転んだみたいでさぁ。直桜と楓が見付けて、助けを呼んでくれたんだってさ」
「枉津と、瀬田が?」
「そそ。飲みに行けそうだからってメッセしても返事ないから、探してくれたらしいぜ。夏川さんが、俺らが歩いて行くの見ててくれて、追いかけてくれたらしいよ」
「夏川さんが……、そっか」
陽介の説明に呆然とした。
説明に矛盾なんか感じないのに、どこか釈然としない。
祠の写真を撮るために歩いて行った先の記憶がない。
「もう絶対、祠には行くなってさ。楓と直桜に、めちゃめちゃ叱られた。あそこ、工事再開するらしい。どうせ入れないけど、絶対に行くなって。あの二人にしては珍しく本気で怒ってたから、行かねぇ方がいいぜ。ちょっと残念だけど、他のもん撮ろうぜ」
陽介が苦笑する。
「枉津と瀬田は?」
「今日は帰ったよ。飲みは、また今度だな」
陽介の懲りない笑顔は、いつも通りだ。
どうしてだか、あの二人に感謝したくなった。
(助けを呼んでくれたんだから、感謝して当然だけど、それだけじゃなくて。もっと、大事なこと、あったような)
思い出そうとしても、頭がぼんやりして、何も思い出せない。
ただ、体がやけに温かかった。
「枉津と瀬田と飲む時さ、俺も誘ってよ。お礼、したから」
陽介が、きょとんとして潤を眺めた。
「当たり前だろ。二人で楓と直桜に御礼しようぜ。あと、夏川さんにも」
遥の名前が出て、ドキリとする。
けれど、前のように避けたり否定する気には、なれなかった。
「そうだな。夏川さんと話してみたい」
「やけに素直だな。告白する気になった?」
「は?」
「だって、潤てさ。前から夏川さん、好きだろ? 今のうちに告んねぇと、半年後には卒業だぞ。俺ら、もう四年なんだから」
顔が熱くなって、目を逸らした。
「そうだな。俺たちもう、卒業するんだよな」
不意に、窓の外に目を向ける。
秋を迎えるには早い空はまだ高くて、夕焼けもやってこない。
それでも、季節は確実に巡っている。
「もっと前に、進んでいいよな」
とても貴重な、だけど思い出してはいけない。
怖いのに嫌ではない