一席の御付き合いを御願い申し上げます。
いやはや、推し活なんて言葉も、随分と幅広く行き渡った様子でして。職場で有給申請なんかするときに、いちいち理由なんか言わなくてもいいんですが、なんか一言、添えておきますと、後々、やりやすくなる……そんな気がするんですが。
推し活で、と一言、申し上げておきますと、なんだぁそんなことかぃ、ってな具合で波風が立たない……かもしれないってな感じでございます。
たまに、推しのために東へ西へ、遠征、なんてことを申します。全国ツアーなんてあった日にゃ、そりゃもう大変。旅費だけでバカにならない。
日々の生業がありますから、長いこと空けていられない。推しは、推せるうちに推せ。なんてことを申しますから、もう、頑張っちゃう。
遠くに行くんですが、新幹線や飛行機、夜行バスなんかを駆使しましてね。行ってくるんですが、最近は『日帰り』するのが非常にしんどいんですな。
いやいや、齢のことじゃありません。
物販ってのがある。会場で、開演前にグッズやら何やら売ってるんですな。これがまた、混む! そんなに慌てて買わなくてもいいじゃない? なんて声も聞こえてきそうなんですが、こっちはね、推しに金を使いたい……推せるうちに推せ、買えるうちに買え、多々買わなければ生き残れない!
まぁ、そんなわけですから。開演の何時間も前に会場に到着して、買えるものは買っちまう。そのためには……時間的に余裕をもって行動しなきゃいけないんですな。
財布の事情と交通の事情、その二つを加味しますと、前日に行って、泊まったほうが安上がり! なんてことがあるもんです。
最近は、スマホで格安の宿を探して、そのまま予約ができちゃう。ホテルによっては、そのスマホでもって、チェックインからチェックアウトまで、簡単にできちゃう。
こっちは素泊まりですから、煩わしいことは少なけりゃ少ないほど有難い。まして、頭ん中は『推し』で、湧いちゃっておりますから……穏やかじゃありません。
その昔、江戸時代となりますと、旅籠で旅の人を迎える女中さんを『受付』と呼んでおったようです。いつの間にか、いろんなエントランスで来客を迎えるお仕事全般を指すようになった様子でございます。
そうなりますと、旅籠の話かと思われるかもしれません。
ところがどっこい、そうじゃありません。
平安時代から戦国時代のあたりまで、『座』というものが在りまして。ざっくり申しますと、ギルド。
まぁ古い言葉でございますから、諸説あるようでございます。
ところが、江戸時代になりますと、一部を除いて無くなっちゃった。幕府がアレしちゃって、今度は株仲間ってのが……中学校の歴史の時間じゃないんだから……理屈っぽくていけません。
細けぇこたぁ、どうだっていいんだよ!
がたがた抜かしてねぇで、とっとと始めやがれぃっ!
なんて怒鳴り声が、聞こえてきそうな気配で……そんな声が、よぉく似合う強面の男が、肩をいからせながら、ぬかるんだ路地の泥も気にせず歩いております。団七本多に黒羽二重をぴしっとキメまして、雪駄の足さばきも、やや早め。
頃は昼六ツ、梅雨明けの真っ青な空の下、吹き溜まり同然の裏長屋の前を行く。
一番奥の部屋の前に立ちますと。開けっ放しの腰障子、土間の向こうには大の字でひっくり返ってる若い男がおります。目を閉じて、寝ているのか、それとも死んでいるのかわかりゃしません。
強面がその有様を見るや、眉間に皺を寄せまして、小さな溜息をついたかと思うと、
「おぅッ、三の字! 起きろっ!」
三の字と呼ばれた男は、起きない。
瞼を一回、ぴくっと動かしたきり、返事もない始末。
「生きてても生きていなくても、返事くらいしやがれってんだ! 三の字!」
「へへっ……返事の仕方を忘れちまった。兄貴ぃ、返事ってのは何を言やぁ良かったんです?」
「何ワケわかんねぇこと言ってやがる。おぅ、ちょいとあがらしてもらうぜ。お前に会うために、わざわざ出張ってきたってのに、なんてザマだ」
九尺二間の四畳半でございます。
土間や竈をちらちら見ながら、流しの脇の水亀の側で腕を組んで、
「水瓶も空っぽじゃねぇか、フタもどっかにいっちまったのか? 水の一杯も飲めねぇのかよ、ったく!」
しかし、三の字、寝っ転がったまま。首だけ兄貴のところを向けまして、愛想笑いをする。
兄貴は小さく小さく溜息をつきますと、
「なぁ、三の字。お前んとこの爺がさんが亡くなって、どんくらいだ?」
「どんくらいって言われても、へへっ、わかんねぇ。あっしはそんなこといちいち数えねぇんだ。数を数えると、頭が痛くなる」
「ったく、しょうがねぇ奴だな。まぁいい、弔いから、もうすぐ一年だ」
「兄貴も意地が悪いねぇ、わかってんなら、聞かなくてもいいじゃない」
「くだらねぇことばかり言いやがって」
「あっしがくだらねぇのは今に始まったことじゃないよ?」
すると、兄貴は少し言葉を選んでいる様子で、何か絞り出すように、こんなことを言う。
「お前んとこの爺さんが俺の夢枕に立ちやがった」
「へへ? そいつは、おめでたい」
「めでてぇことなんかあるもんかい! いいか、三の字、今までは爺さんのタクワエもあって、なんとかなってきたんだろうが、ゼニなんてもんは、いつまでも在るわけじゃねぇ」
「へへへ、あっという間に無くなっちまって」
「家財道具を切り売りしてやってたみてぇだが、もう、そうもいかねぇ。今は、そんなところだろっ」
「へへへ、へへっ、おっしゃる通りで」
「ところが三の字、お前って奴は昔から……ひとなみのことをやるんにも、なぜか、ひとなみにできやしねぇ」
「なんででしょうね?」
「知るかぃっ! そんなんだから、そりゃ爺さんも浮かばれねぇ」
「へへっ、兄貴。一言、言わせてもらいやすがね。あっしだって好きでこんなザマってわけじゃあ、無えんだ。なんかやろうってぇと、なんかうまくいかねぇ。出ようとしたら雨が降る、傘をさしたら破れてる、てぬぐい被って雨ん中、走ったら、へへへへへへっ、転んじゃった!」
「……お前なぁ」
「こうもツキがねぇ、運もねぇ、なぁんにもうまくいかねぇ、そんなとき、兄貴ならどうする?」
「どうもこうもしねぇよ」
「あっしは、いつも、こう言ってんだ……まぁいいか、爺さんが教えてくれた、便利な言葉なんだよぉ、 まぁいいかって言うと頭の中がすーぅっと軽くなって、あれもこれも気にならなくなる」
「ったく、呑気なこと言ってやがんな、お前は」
「爺さんが教えてくれたんだよぉ……へへっ、仕事なんかしなくたって、まぁ、いいか。へへへ、まぁいいか、まぁいいかぁー♪」
兄貴は三の字ではなく、家財道具が見当たらない畳の上を眺めまして、聞こえないように溜息を吐き出しますと、
「お前んとこの爺さんがなぁ、こないだっから、毎晩、俺のところへ来やがって、枕元で『オタノミモウス! オタノミモウス!』ってな。いちいちうるさくて、たまったもんじゃねぇ……家賃だって、払ってねぇだろ、いつ追い出されてもおかしくねぇ。大家さんもなぁ、そりゃ不憫に思って今は言わねぇかもしれねぇが、この先どうなるかわかったもんじゃねぇんだ」
「へへへっ、実はね、次の借り手が見つかるまでは居ていいってことになってんだ」
「そうかい。実は大家さんに話を聞いてきた。次の借り手が決まって。明日か明後日にゃ、出てってもらうって話じゃねぇか」
「へ?」
「聞いてねぇのかい? まぁ無理もねぇな」
「へへへ……話が早いねぇ」
「早いもクソもあるか! いいか? どうにかこうにか、お前でも長くやれる、簡単な仕事を見つけてきてやったんだ……やるよな?」
ところが三の字、天井を向いて、にやにやしております。
「どうした、三の字。何、笑ってやがる」
「へへっ、ここんところ、何も食ってねぇ。ありがてぇ話だってのに、起きたくても、身体が動かない」
「そんなこったろうと思ったよ。少ねぇが、貸してやる」
兄貴が袂に手を入れるや否や、三の字は、飛び上がって起きちゃった。
「へへへっ、あっしはうどん、食いたい」
「なんでぇ、起きちまいがやった。まぁいい、腹ごしらえして、そうだな、湯へ行ったり……いろいろ整えなきゃいけねぇな、こりゃ」
三の字、兄貴に連れられまして、久しぶりに飯を食い、湯屋へ行き、社会復帰の第一歩を踏み出すのでした。
じんわり、夕闇が迫っております往来を、歩いておりますと、三の字が思い出したように、
「……ところで兄貴、仕事って何やるんです?」
「知らねぇ」
「知らねぇって、へへ、兄貴、冗談言っちゃいけねぇ」
「今からお前を連れてく。そこに、おヒジさんって女の人がいる。その人に聞け」
「い、今から?」
「そうだ、今から行くんだ」
「ちょっと待ってくださいよ、兄貴。これから、前祝いってことで一杯やって。明日っからじゃないんですかい」
「んなわけねぇだろ。それに、お前は呑めねぇ」
「あっしは、心太でいいんで」
「何が心太だ」
「それにねぇ、へへ、あっしだって心の準備くらいしたい」
「そんな大層な仕事なんか、お前に世話してやるもんかってんだ」
「だって、おヒジさんて女の人がいるんでしょう? いやぁまいったなぁ、そんな美人とお仕事できるなんて!」
「会ったこともねぇのに、気が早ぇな」
「へへっ、そうは言っても兄貴。こういう話ってのは、昔っから決まってるんだ。あっしみてぇな与太郎風情に転がってくるってことは、美人だよ。おヒジさんは女髪結いをやってんだ。旦那は三年前に亡くなっちまって、家には病気のおとっつぁんがいて、七歳の頭に三人のこどもがいるんだよ。おヒジさんってのは、そりゃあ、ほっそりとしてんだ、白い肌だよ、指先なんか雪より白くって。いい女だよ? ところがね、家族を食わしていかなきゃいけない、女髪結いってのは毎日朝から晩まで忙しいんだ。このところ、すっかりやつれちまってね。そりゃ心配だよ? まして美人だ、あっちこちの男から、あんな話やこんな話がやってくる。これまたしんどいんだよ? 言い寄られて大変だ。でもね、おヒジさん、旦那のことが忘れられない。三年、喪に服するってことで、あちこちお断りしてきた。ところが、もう三年立っちまったんだ。そんなとき、漬物屋の若旦那あたりがね、あの手この手で口説き倒そうとする。最初はのらりくらりと話をはぐらかしてんだ。若旦那の気持ちはわかる、でも、その胸に飛び込んでいくわけにもいかない。世間体ってのもある、簡単に決められるもんじゃない。難しいんだよ、こういうのは! そんなあるとき、若旦那に問い詰められちゃった、『おヒジさん、あんた、もしかして誰か想い人がいらっしゃるんじゃございませんか』ってな。おヒジさん、これ以上、若旦那にあれこれさせるわけにもいかない、ここであきらめてもらおうって思って、つい『実は、おります』みたいなこと言っちゃうんだ。若旦那、それを聞いて驚きたものの、『そういうことなら、あたくしも身を引きましょう。いや、むしろ上手くいくようにお手伝いさせてもらいたい。できることなら、どこの誰ぞか、お目通り願いたい』って言われちゃった。さぁ大変だ、口から先に出たベラボウ言っちまったんだ、想い人なんて居るもんじゃない。そこであっしの登場、『こちらの方が想い人でございます』って、口裏合わせた代役だ。出てきたのは貧乏な与太郎風情の三の字、あっしだよ? 若旦那、もうワケがわかんなくなっちゃって、『こんな奴と夫婦になるのは残念』と思いながらも、口には出さず、もう金輪際関わるものかと、おヒジさんをあきらめて、目の前から姿を消しちまう。作戦成功! これであっしの出番は終わり、俺は帰ろうとするよ。ところが、ここで物憂げな流し目でもって、こう言うよ? 『三の字さん、あたい、あんたに惚れちまったよ』って、もう、どうしましょう!」
「……着いた、ここだ」
「へっ?」
くだらない話をしているうちに到着というわけでございます。
すっかり通りの空が赤くなっている。
兄貴が指さしたのは、はて、どちらの店なのか。三の字の目の前、右手には呉服屋で左手には金物屋で、
「兄貴、どっち?」
「どっちもこっちもあるかい」
「いやぁ、兄貴、俺は呉服も金物も、たぶん無理」
「違ぇよ、呉服屋と金物屋の間に、小道があるだろ」
「あらまぁ、ほんとだ、隙間がある」
「お前なら、入っていけるだろ」
「でも、兄貴は腹が出てるから入っていけない」
急に、店の間の細い道から、やけになまあったかい風が吹いてくる。その風をまともに顔に受けまして、三の字はすっかり縮み上がってしまう。その隙に、兄貴は三の字を襟袖のあたり、そっと手を置きまして、
「いいから行って来い。心配すんな、あらかた話はついてんだ……三の字ですって挨拶すりゃ、あとは……何とかなるだろ、たぶん」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何とかなるだろタブンって、そいつは聞き捨てならねぇよ!」
「つべこべ抜かすんじゃねぇ、煮るなり焼くなり好きにしてくださいって差し出すわけじゃねぇんだ!」
「ひゃあ! 兄貴! 住むとこ追い出されて、着の身着のままやってきて、そのまんま住み込みで働かせてもらえるわけでもないでしょうに! そんなうまい話があるわけない!」
「ある、あったんだな、これが」
「あ、兄貴! 今日のところは臆病風の暴風波浪注意報で、出歩くのは危ないから、出直し、出直し!」
「こんなに往生際の悪い奴だったか、お前は。此処まで来て引き返すなんざ、道理が合わねぇ。いい加減、観念しやがれ……おぅ、そうだ」
「兄貴?」
「今こそ『まぁ、いいか』って言やあいいじゃねぇか、なぁ?」
「よくねぇよ! これはよくねぇ! こういうときのあっしのカンってのは当たるんだ!」
「そんなもん外しちまえ」
「後生だから、こればっかりは勘弁してくれぃっ! オタノミモウス! オタノミモウス!」
「こんなところで爺さんの口癖を出すんじゃねぇよ」
兄貴は三の字の襟首をつかんで、店の隙間の細道に向かって力任せにに無理矢理押し込みますと、三の字もたまったもんじゃありません。
「ちっくしょうめ、なんなんだ、こんなところに急に押し込みやがって! いくら兄貴だからって、やっていいこととやって悪いことがあるぞぉ!」
わめいても仕方ありません。往来に戻ろうと、肩やら足やらゆすって体を入れ替えようと悪戦苦闘しながら、
「兄貴ぃーっ! 待っておくれよぉーっ! 置いてかないでくれよぉ! 今日じゃなくて、明日にしてくれよぉー!」
ようやく首を通りへ向けられまして、腕を伸ばして壁に爪をたててみる。指先が痛いだけで、どうしようもない。
「もう行っちまいやがった、ひでぇことしやがんなぁ」
ところが、小路は奥のほうへ広がってる様子で、もがけばもがくほど、ずるずるっ、ずるずるっと三の字の尻のほうからはまり込んでしまう。
「あぁ! 行きたくない! 行きたくないよぉ!」
必死にもがきますが、
「誰か、あっしのこと引っ張てる? 帯をつかんで引っ張ってる? もしかして坂になってる? 下ってる? 滑り落ちてる?」
不思議なもので、前に出ようとすればするほど、奥のほうへ身体が運ばれてしまうもので、焦れば焦るほど、見知らぬ世界へ引き込まれていくようなものですから、たまらず、三の字はありったけの大声で、
「た、たたたっ、助けてくれぇっ!」
腹の奥底から声を出したせいか、そのまま、もんどりうって小路を抜けまして、今度は尻餅をついた。
もう戻れないと悟ったのか、真っ青な顔になって、四つん這いになって、尻尾を追いかける犬みたいに、ぐるぐる回り出しちゃった。
すると、今度は笑い声が聞こえてくる。
「だ、誰でぇっ! ど、どこで笑ってやがる!」
ここで、ようやく三の字は、見たこともない店の前に居ることに気づきました。提燈の灯に開かれた玄関の向こう、式台も見える。
しかし、人っこひとり見当たらない。
三の字、建物に明るいほうではありませんが、大店とは思えなかった。なんとなく雰囲気としては旅籠に近い。
妙に広いと、急に薄気味悪くなるものです。
「穏やかじゃないよ、これは。なんだかとんでもないところに来ちゃったなぁ、まぁいいか」
三の字は渋い顔をしながら立ち上がって、目をこらして、玄関のほうへ向かって、
「あのぉ、ご、ごめんくださいまし……ごめんくださいましぃ、誰かいませんかぁー?」
すると、声がする。
女の声だ。
「あんた、三の字かい?」
自分の呼び名が、耳に心地よい声で聞こえたのはよいけれど、さっきの笑い声の主に違いない。
でも、三の字はきょろきょろしながら、えらい速さで何度も頷いただけ。
「よく来てくれたねぇ。あぁ、入っとくれ。戸を閉めてくれるかい? すっかり暗くなっちまったけど、あがってくれていいんだよ。そこにある鉢と雑巾がある、好きに使って足を拭いとくれ。それから、そこの行灯に火を入れとくれ」
と、指図は聞こえてくる。一向に姿は見えない。
しかし、その女の声がまた、何ともいえない響き。
まさに玲瓏とは、そのような声のことを言うんでしょう。
声の調子のおかげもありまして、さっきまでの慄き具合は吹き飛んだ三の字ですが、今度は、眉間に皺をよせながら、呟いた。
「おかしいぞ?」
確かに、おかしい。
「声は聞こえるんだ……あれをやれぃこれれとやれぃと言われるのはいいんだよ。でもね、よくないよぉ。ちっともよくない、よろしくない。あっしには、とんと姿は見えないってのに、あれこれ言うことは、まるであっしのことが見えてるみたいだよ。なんか薄気味悪いよ……あのぉ、ちょっと、ここらでお目通り願いませんかぁ?」
ひとまず、番台みたいなところへ向かって、言うだけ行ってみますと、
「お目通りって、誰にだい?」
「あのぉ。えっと、おヒジさん?」
「あたしだよ」
「は、はぁ。どうも……あの、えぇと」
「何か気になるのかい?」
「そりゃ気になりますよ! 声はすれども姿は見えずって、あっし、困っちゃって」
何に困ったかといえば、綺麗な声だと思ったからこそ、余計に御姿を拝見したくなる。すでに三の字の頭の中には、かなりのべっぴんさんが出来上がっている。
「あたしはちっとも困りゃしないよ」
「そう言われちゃうとなぁ、弱ったなぁ」
三の字は頭の後ろをかきながら、首を二、三度、かしげたあと、
「へへっ、まぁ、いいか」
少し、だらしない顔をしておりますが、おヒジの声が飛んできた。
「三の字、話は聞いてんだよ。あんた仕事しに来たんだろ? さっそく、やってもらうよ」
挨拶して、すぐに仕事ときた。
すでにとっぷり日は暮れております。
「簡単な仕事だよ、提燈が在るだろ。それを貸してあげる。勝手口から出てっておくれ。通りへ出ると、川沿いへ向かう道があって、蕎麦屋が出てる。そこ行くと、三味線もった人かいるよ。そこ言って、三の字ですって言えばいい、あとは言われた通り、ご案内してあげるんだ」
三味線と聞いて、三の字はピンときた。
瞽女(ごぜ)だ、と。
江戸時代から昭和初期にかけて、各地におりました盲目の女性芸人でございます。目明きの手引きに連れられて、あちこち渡り歩いていたそうです。
さて、三の字、土地勘のある目明きが必要になった、と思った。なるほど、三の字でも何とかなりそうな仕事かもしれない。
ここまで来たら腹をくくって、やるしかない。
姿なき声は、いたずらな笑みを浮かべたような口調で、ゆっくりと語りかける。
「あたしにゃわかるんだよ? あんた、マヌケそうに見えて、そうでもない。鈍そうで鈍くもない。察しが悪いようで、勘働きがよいときがある。若い娘にもてそうじゃないが、年増に好まれそうな顔してる……ちょうど、あんたみたいなひとを探してたんだ、渡りに舟とはこのことだ」
「へぇ」
と、返事だけしておく三の字。
その姿が見えているのか、珠の音めいた清々しい笑い声とともに、
「さっそくだけど、しっかり頼むよ」
三の字は言われた通りに、提燈を灯しますと、
「へぇ、さっそく行ってまいります」
と、歩き出した。
その背中に声が飛んでくる。
同時、ふわっと香った。誰も居ないはずなのに、あたたかい空気の動きを背中に感じた。
見えない、だが、近くに居る。
そんな気がした。
「終わったら、ここへ戻っといで。遅くなると思うから、泊まっていきな。二階は好きに使っていいから……でも、あたし相手に変な気を起こすんじゃないよ?」
三の字は、力強く頷いたきり、きりっと口を結んで、頭の中でぐるぐる響き続ける彼女の言葉の意味を考える。
変な気を……寝姿目当てに這うことではなさそう。
「へへっ、まぁ、いいか」
勝手口から出ますと、どことなく見覚えのある道でしたから、川のほうへ向かいます。
「仕事ってのは、瞽女座の目明ってことかい。しかしなんだってまた、あんな変な細いとこを通らせやがったんだ。兄貴の野郎、近道したつもりかなぁ。しかし蕎麦屋かい? 見当たらないよ? 蕎麦よりうどんのほうが好きなんだけどなぁ、江戸だからって、必ず蕎麦食いになんなきゃいけない決まりなんてものは無いんだよ? 好きなもんを好きなだけ、好きなように食やぁいいじゃねぇか。でも不思議なもんだねぇ、こんな寂しい道を心細い想いして歩いていると、蕎麦屋の灯が頼もしく思えてくるねぇ。へへへ、なんか好きでもないけど、たぐりたくなってくるってもんだ……って、追い越しちまうとこだった!」
蕎麦屋台の脇、腰かけが二つありまして、脇に三味線を置いて、腰掛けて、どんぶり片手にそばをたぐってる女性がおります。行灯の薄い灯でありますが、妙に艶っぽく見えてしまう。
三の字、口をぽかんと開けて、ぼぉっと突っ立ってる。
蕎麦屋の主が気づきまして、声をかけますが、反応がない。蕎麦を食べ終えたばかりの、女性……瞽女の側で虚ろな目をしております。
「お客さん、お客さん! しっかりしなさいよ!」
「あ?」
「あ、じゃないよ、なんだい? この人は。蕎麦、食べに来たの? 食べないなら何しに来たの?」
蕎麦屋に肩を激しく揺すられて、三の字、ようやく我に返ったような。
「渡りに舟とはこのことだ」
「どうしたんですかい、お客さん」
「しっかり頼むよ」
「何を頼むんです?」
「あたし相手に変な気を起こすんじゃないよ?」
「なんだぃ! 気味悪いよ! 蕎麦を食いに来たんじゃないなら、とっとと帰ってくれ!」
そのやりとりは瞽女にはしっかり聞こえております。たまらず、吹き出して、けらけら笑い出してしまう。
「……あぁ、おヒジさんと違うじゃねぇか」
思わず。三の字、言ってしまった。確かに、おヒジの声とは似ても似つかぬ笑い声。やけに甲高くて、少し耳障り。
「あたいはオヒジって名前じゃないよう。ははぁん? あんた、もしかして三の字かい?」
「へ? へへへ、三の字です」
「よくわかんない人だねぇ。でも、いいさ。早速だけど、行こうかしら……ごちそうさん、お代はここに置いとくよ」
そして、商売道具の三味線を取ろうとするが、その細く白い手は宙を舞い、空を掴むばかり。
三の字は、ひょいと瞽女の手を取ると、三味線へ導いた。
「ありがとよ……あたいは、ミツってんだ」
「おミツさん?」
「ミツでいいよ」と、三味線を取り、立ち上がって、
「あたいの手を肩にのせとくれ。そして川を左手に沿って柳の樹を数えながら歩いとくれ」
「へ、へぃ」
差し出された左手を丁重に肩に乗せますと、思いの外、力強く掴まれます。
「さぁて、三の字さん、あたしを送っとくれ」
こんなわけでして、三の字は目の不自由な人の送り迎えの仕事をすることとなりました。
あの通り『まぁいいか』の一言で片づけてしまう性分ですから、何ひとつ疑問も疑念も思いつくことがない。おまけに律儀なところがあるものですから、詮索無用と言われたからには、ぴたぁっと言われた通りに、余計なことを考えたりしない。
おヒジのほうはっていうと、三の字が真面目に働くだけじゃなく、声はすれども姿の見えない彼女のことを探る気配がこれっぽちもない。三の字のことをいたく気に入った様子でありました。
ですから、店賃が払えなくて追い出される三の字を、そのまんま、おヒジのところの二階に置いておく。朝晩にはメシの支度をする……支度だけしてあって、相変わらず、姿は現さないんですが。
声と残り香が、三の字にとって『おヒジ』だったわけですな。
さて、雨露しのげる屋根があって、食い扶持にも困らない。たいてい、そうなってくると酒やら博打やら、それこそ吉原に、なんてことになりそうなもんですが。
三の字には、そんな気配がまるでない。
逆に、心配になってくる。仕事の無い日なんか、日長一日中、二階の部屋の真ん中で、ぼんやり、壁か天井か、軒の先の空を見上げている始末。
最初はよかったんですが、三か月もしますと、おヒジも逆に、なんか心配になってくる。
「……三の字! 三の字!」
と、大きな声で何度もおヒジが呼んでおります。
いつもより反応が鈍い。
トントントーンを階段をあがる音がした。がらっと襖を開ける音、そして畳の上を歩く音がする。三の字には、なにも聞こえちゃいない様子で、ぼんやり火の点いてない行灯の脇でもって、畳のヘリでも眺めているんでしょうか。
「また、ぼんやりしてんのかい、困ったねぇ、この人は。今日はいつにも増して、ぼんやりだよ。もしかして目、開けたまま寝フカキかい? やれやれだよ、ねぇ、起きとくれ、三の字、ちょっとぉ……」
三の字、急に肩を揺すられまして、
「あ! へ? ふぉぉっ?」
変な声を出しながら我にかえりました。
「なんだい、あんた? さっきから呼んでんのに、ちっともじゃないか? まったく、ぼんやりすんのも、ほどほどにして欲しいもんだね」
おヒジの言葉の最後に溜息が聞こえたあたり、三の字は口をごもごもさせながら、虚空を見上げて、行灯を抱き寄せて、
「……あ?、あ! あぁ」
「イヤだよ、あんた? どうしちゃったんだい?」
「今、肩をゆすってくれたのは……?」
「あたしだよ」
夕闇に包まれる二階の部屋ん中、ひとっこひとり、見えやしない。三の字は抱えた行灯をじっと睨みながら、泣きそうな顔をする。
「声はすれども、姿は見えねぇ。どこにも見えねぇ」
「それがどうしたんだい?」
「……なんてことだよぉ、ひでぇ仕打ちしてくれやがる」
「なんの話だい?」
「いや、おヒジさんが悪くねぇ、何も悪くねぇ。あっしがぼんやりしすぎたせいで、おヒジさんはっ」
「起こしに来たんじゃないの」
すると三の字、抱きしめた行灯を胸ん中でつぶしながら、ぽろぽろ、涙をこぼし始めた。
「見えねぇままでよかった、声だけのまんまでよかったんだ、居るには居る、でも居ねぇ。ふれることどころか、遠目に眺めることもできやしねぇ。いつか姿が拝めるかもしれねぇ、後ろ姿だけでも見えるかもしれねぇ。いつもいつも、あっしは『今日のところは、まぁいいか』で、過ごしてきたんだ。日長、ぼんやりしてたわけじゃねぇ、詮索無用とは気聞きながら、声と残り香から、いろいろ思い浮かべてた。たくさん頭ん中で描いてたんだ……そのうち、あっしの頭ん中で『おヒジさん』の姿が出来上がっちまった。描きあがっちまったんだ! 以来、あっしはおヒジさんの声がするたび、あの香を嗅ぐたんび、頭ん中の『おヒジさん』があっしに向かって、微笑んでくれたり、身振り手振りであれこれやってくれるようになった……これが夢であっても、狐や狸に化かされたんだとしても、あっしはそれでいいって思ってんだ。あっしの頭ん中の姿と似ても似つかぬ姿であっても、かまわねぇ。そこは同じになるわけないことくらい、わかってらぁ!」
三の字、涙を拭いますと、すっと立ち上がる。
「ど、どこ行くんだい?」
「……前々から怪しいとは思ってたんだ、こんな役立たずの三の字が、ぼんやり気楽に過ごせるはずは無えって。いやいや、そんなことじゃねぇ、謎ときなんかする必要は無いんだ、どうせあっしの頭じゃわかんねぇ……姿を見せねぇで、声だけって妖怪のことは聞いたことがある、それと似たような、違うような……いや、そんなことじゃねぇ! すぐそこに、あっしの側にいるってのに、あっしには見えねぇ、それが……」
突っ立たまま、三の字は俯いて、止まっていた涙がだくだくあふれ出しちまう。
おヒジの震える声で、
「すまない、すまないねぇ、あんた。あんたがこれほどまで思ってくれるなんて、あたしゃ嬉しいよ。でも、あんただから、此処に来て、あたしらのことを手伝えるんだ。食う寝るところ住むところに一切困りゃしない、その気になりゃ、ちょっと仕事を片付けた後は、遊び歩くことだってできるってわけじゃないか」
「その代わり……」
「あんたには、あたしの気配だけ」
三の字は声をほうをくるっと向きますと、
「まぁ、まぁ、まぁっ! いいか……へへ、行灯、壊しちまって申し訳ねぇ」
涙痕の残る頬に、あったかい指先がふれる。
いつもの香で鼻穴が爆発しそうで。
女の優しい声がする。
「あとで買ってきとくれよ」
「へぇ、へへへ、夜歩きばっかりしているせいか、たまに霞がかかりやがるんで。なんか掴めるものが傍にねぇと落ち着かないんで」
言い終わるかどうか、その前におヒジが、とんでもない声をあげる。
三の字の顔を、その眼を見て仰天した。
「三の字! あんた! その眼、し、しし、白い花が咲いてちまってる!」
三の字の両目の中、今でいうところの白内障のようなものでしょうか。
三の字は、その場に座らされ、待たされる。
今日の仕事はどうなったんだか、花が咲いているって何なのか、三の字は、「まぁいいか」で、済ましてしまう。
「へへっ、おヒジさん、慌てて飛び出しちて行っちまったけど、どこ行っちまったんだ。眼医者でも呼びに行ったかもしれねぇな。しかし、いい匂いだったなぁ、ほんと、いい匂いだった、ありゃ何の匂いかな。どっかで嗅いだことがあるんだ。匂いったって、爺さんんときの線香の匂いくらいしか知らないよ? それでも、いい匂いってのはわかるんだな、不思議だねぇ。初めて嗅いだってのに、これはいいもんだ!ってわかっちまうだからね。不思議だよ、ホント……しかし、遅えなぁ、ハバカリ行きたくなっちまったよ、どうしよう? こんなところでもらしちまうわけにはいかないよ。我慢するってぇと、ますます行きたくなっちまう。因果なもんだねぇ、しかもこう暗くちゃ危ねぇよ? ただでさえ、今日は霞んじまってんだから。行灯、ぶっ壊しちまった、どうしたもんかねぇ」
ふと、おヒジの声が聞こえたような気がした。
あの良い香りは、まったく漂っていない。
「はぃ、はぃはぃ、聞こえてますって。ただ、ちょっと足元が危なっかしいんだ。あぁ、ハバカリ行きたんだ、ちょっとばかし、待ってておくんなさい!」
と、三の字、立ち上がりますと、とっぷり日の暮れた家ん中、立ち上がって、手探りで部屋を出る。
「おヒジさん……おヒジさん、そんな呼ばなくたっていいよ、あっしはここにいますって。へへ、何も見えねぇ、真っ暗だね、まったく真っ暗闇だよ、こんちくしょうめ、そうだ、そうだよ、おヒジさん。見えないままでいいんだ、何も見えなくたって、あっしは、おヒジさんの……」
手探りで出た二階の部屋の先、するっと右足が宙に浮いて、左足を踏ん張る前に、三の字の頭の先からぐらぐらぐらっと、前のめりに倒れ込んだ。
そのまんま、階段を真っ逆さまに落ちてった。
いつ聞いても、首の骨の砕ける音ってのは、厭なものですな。
さて、蕎麦屋の看板提燈の下、おミツが蕎麦屋に話しております。
「……ってことがあったらしくてねぇ。三の字が死んじまったってんだよ」
「そいつはまた、御愁傷様で」
「よくできた作り話じゃないかい?」
「作りだったんですかい?」
「作りに決まってるじゃないかい? だってさぁ、三の字がひとりでいるところなんて、当人が死んじまってんだよ? 一体誰が、独り言聞いてたっていうのさ? おヒジさんだって、そこには居ないんだし」
「まぁ、そうもいいますがねぇ」
「なんだい?」
「壁に耳あり障子に目ありってなことも申します。それに声はすれども姿は見えず、声さえ出なけりゃ何とやらってなこともありますんで。だから……」
「なんだい、もったいぶってないで、お言いよ」
「おヒジさん一人とは限るめぇよ」
「そんなこと言ったって、納得しないよ? じゃあ、いったい誰がいるってんだい?」
「お秘事っていうくらいだ、隠れてることはわかってんだ」
「そんなこと言ってたらキリがないよ? もう」
「そんなこと言いなさんな、どうにも納得いかねぇときは……」
まぁ、いいか。
The、一席の御付き合いありがとうございました。
どうぞ、お気をつけて、お帰り下さい。
おわり